巻二 彼女の緑の瞳
誰かが彼の背中に触れた。冷たさを感じた。
背中を震えが走った。
他人の息遣いがすぐ近くにあった。空気が彼の耳に触れた。
衝動的な動き。
脳に不快な感覚が打ち込まれた。体は言うことをきかなかった。体が、なかった。
しびれた、もはや自分のものとも言えないその手を、誰かが取った。
女の声。泣いていた。誰かが彼の上に身をかがめ、悲しみを抑えきれずにいた。彼女は彼に話しかけていた。彼女の涙は引き寄せるものがあり、哀れみを誘った。だが、その触れ方は冷たく、焼けるようで、それが彼を遠ざけた。
とても、とても多くの言葉。だがすべてが反響のように響くだけで、彼は要点をつかめなかった。何を言っているのか、理解できなかった。もしできたなら、彼は慰めただろう。だが、彼はそこにいなかった。
聞こえてはいた。だが、理解できなかった。
感じてはいた。だが、見えなかった。
???:「……起きて……」
衝撃。
目が大きく開いた。心臓が必要以上に速く打った。彼は眠りの闇から引きずり出された。起き上がり、貪るように空気を吸い込んだ。
――生きている。
頭の中に、直前の出来事が流れ込んできた。落ちた。走った。最後には水の中で、息ができなくなり、意識を失った。
それでも...生きていた。
ここがあの世でないのなら。そして、体は乾いていた。
彼は、深い森の中にある小さな草地に横たわっていた。絡み合う木の枝の隙間から、青い空と柔らかな朝の光が見えた。
震える小さな自分の手に視線を落とし、彼はようやく理解した。
本当に、生き延びたのだ。
体は痛みに反応し、頭が痛み、全身は打撲と傷で覆われていた。どの筋肉も、鈍い痛みを返してきた。
彼は自分の頭に触れた。触れた瞬間、焼けるような痛みが走った。それでも指は滑り続けた。顔の左側には、眉からほとんど頬に届くほどの、まだ新しい血の傷跡があった。
目を失っていないのが、不思議なほどだった。
「……全部、痛い……」
強い寒さを感じた。骨まで染みるような寒さだった。森の冷えなのか、それとも熱のせいなのか もう区別はつかなかった。座ったまま、彼は周囲を見回した。
ゆっくりと立ち上がり、辺りを確認する。草地はとても小さかった。足元では、細い水の流れが静かに音を立てていた。静かすぎるほどだった。耳鳴りと、まともに考えることを妨げる痛みのせいかもしれない。
左を向くと、地面は段になって持ち上がっていた。反対に右側は、暗い木々の霧の中へと、急激に落ち込んでいた。
どこもかしこも森だった。
あの時と同じ、暗くて不気味な森。
少年は喉を少しでも潤そうと、苦労して唾を飲み込んだ。
「……不気味だ」
振り返ると、彼は影に気づいた。
女の影。
「……怖い」
少年の目が大きく見開かれた。彼は思わず後ずさりし、手をついて倒れ込んだ。
彼女もまた、自分の死を望んでいるのだろうか。
彼女は危険なのだろうか。
その考えが、痛む頭の中で止まることなく巡った。
血の中にアドレナリンが流れ込んだ。
殴るか、逃げるか。
彼と比べれば、彼女は巨大だった。もっとも、大人であれば誰でも彼より大きいのだが。
彼は立ち上がった。草地を離れようと、確かな足取りで歩き出した。走ろうとしたが、体は言うことをきかなかった。視界は二重になり、体はふらついた。
進もうとするたび、枝が肌を引っかいた。彼はすでに草地を離れ、自分で道を切り開きながら進んでいた。
どこへ向かっているのかも分からない。ただ、とにかく早くここを離れるべきだった。
突然、頭がくらりとし、暗い斑点が視界を覆った。頭が割れるように痛んだ。
足の力が抜けた。落ち葉や苔、枝の下に隠れていた忌々しい凹みに足を取られ、体が大きく揺れた。
???:「……」
重く息を吐いた。まぶたはひどく重かった。
脳が命令する 立て。
地面は冷たい。だめだ、眠るな。危険に身をさらすな。
彼女が目を覚ます前に、ここを離れなければならない。
湿った土の匂いが、肺いっぱいに広がった。
松と杉の緑が、雲の浮かぶはるか高い場所でざわめいていた。
雲は軽く、やさしい。
高いところにいる彼らには、何も関係ない。
地上に雨が降っていても、彼らはいつでも太陽の光で暖まれる。
黄色く、温かな太陽で。
――だめだ。考えることが違う。
彼は、自分が半ば眠りに落ちていたことに気づいた。
立ち上がろうとした。
体が、あまりにも重かった。
そのとき、かすかな呟きが聞こえた。
彼女が、目を覚ました……。
必死の思いで仰向けになり、森の茂みから草地の中央へと視線を向けた。
少女は唇を動かし、うめき声を漏らしていた。
「……苦しいのかな?」
だが、彼は彼女の手に最も重要なものを見た。
槍だ。
昨日の追跡、血、炎、そしてあの……影。
それらが閃光のように目の前を駆け抜けた。
彼は彼女を見つめていた。
その巨大な姿を。
そして思い出した。
自分を避けられない死から救ってくれた者も……
同じように槍を持っていたことを。
「……彼女が、僕を助けてくれたんだ……そうだよね?」
彼は枝を下げ、魅入られたように見つめた。
その場から動けずにいた。
「……いいのかな?」
胸の奥で、何かが疼いた。
彼を近づかせようとする感覚。
それが良心の呵責なのか、それともただの愚かさなのか――彼には分からなかった。
彼は這い始めた。
草が腹をくすぐり、枝が肌を引っかいた。
動き一つ一つで、影との距離を縮めていった。
すぐそばまで近づき、彼女を起こさないよう注意しながら、四つん這いになった。
彼の顔は、彼女のすぐ近くにあった。
背筋に鳥肌が走った。
「……もし、僕の勘違いだったら?」
そう思いながら、彼は貪るようにこの新しい人物を観察し始めた。
少女は横向きに寝ており、静かに寝息を立てていた。
驚くほど穏やかな眠りだった。
まるで、昨日森の中を必死に走り、二人の命を救っていたとは思えないほどに。
――もし、あれが本当に救出だったのなら、だが。
細く、土で汚れた指で、彼女は槍を握りしめていた。
それを、自分のほうへ引き寄せるように。
まるでそれが、この世界で最後の支えであるかのように。
彼女は柔らかな、紐で結ばれた淡いクリーム色の衣を身にまとっていた。
その上には、背中を覆う青いマント。
髪は解かれており、淡い水色――緑に限りなく近い色をしていた。
顔立ちは愛らしく、だがまだどこか幼さが残っている。
彼女は、何事もないかのように眠っていた。
(……彼女は、こんなにも……綺麗だ)
恐怖は、いつの間にか後退していた。
これほど美しい少女を、恐れるのは難しかった。
???:「……こんなに弱そうなのに……どうやって、あいつらから身を守ったんだ……」
思わず、彼は口にしていた。
彼女は答えなかった。
幸いにも、彼は彼女を起こさなかった。
彼女の足は傷だらけだった。
無数の切り傷。
右足には、骨に届きかねないほど深い大きな裂傷があった。
彼女の周囲の草には、朝露のように、無数の赤い滴が散らばっていた。
――その瞬間、理解した。
彼女は昨日、僕を避けられない死から救ってくれたのだ。
少年の心臓が、違うリズムで打ち始めた。
彼は動けなくなった。
彼女は、彼を救った。
血を流し……
そして、もしかすると命さえ懸けて。
彼は、彼女の傷に触れた。
目に涙が溢れ、少女のそばの地面を濡らした。
彼は彼女の足元に崩れ落ちた。
自分が抱いていた疑念に、激しい羞恥が襲いかかった。
彼女は命を救ってくれたのに……自分は...。
涙が次から次へとこぼれ落ち、頭の痛みをさらに強め、
目の横の傷跡に塩を塗るような激痛をもたらした。
「……ありがとう……」
目が閉じた。
彼が感じていたのは、ただ、手のひらに伝わる彼女の熱い傷だけだった。
もしできるなら、彼は彼女を癒したかった。
もし、彼にその力があれば……。
彼もまた、そばに横たわっていた男と同じ運命を辿っていたかもしれない。
彼らは共に――ほとんど隣り合うように倒れていた。
だが、生き残ったのは、ただ一人だった。
彼女は、ただ逃げることもできたはずだった。
それでも彼を連れて行った――自分を危険に晒すと分かっていながら。
「……この人は、僕のお母さんなのかな?」
その瞬間、こぼれ落ちるはずだった涙が、逆に引き戻された。
彼の頬を、温もりが包み込んだ。
彼女は彼を抱き上げ、視線を自分へと向けさせた。
目を開けると、頬に触れる優しい手が見えた。
細く、柔らかな指が、彼の涙を拭っていた。
彼は、少女の愛らしい顔を真正面から見つめた。
そのエメラルド色の瞳を。
どんな草よりも、なお緑に見えた。
そして彼女の目の下には、小さな黒い点があった。
???:「……どうして、泣いているの?」
少女は、鳥のさえずりのように美しい声でそう言った。
???:「――」
少年は、何も言えなかった。
喉が痙攣し、言葉が出てこなかった。
答えとしてできたのは、ただ一度、鼻をすすることだけだった。
涙の中で、彼は再び目を閉じようとした。
???:「閉じないで。私を見て。」
彼女は彼を軽く揺さぶった。
驚いた子供の顔が、少女を見上げた。
彼女の眼差しはとても優しかった。
その奥には疲労の色が見えたが、それでもなお、深い慈しみがあった。
彼女はこの子供を、まるで自分の肉親であるかのように見つめていた。
――もしかすると、本当にそうだったのかもしれない。
だが、この小さな人間は、知らなかった。
……
彼は、何も知らなかった。
本当に、何一つ。
???:「目は……大丈夫?」
???:「(すすり泣き)……うん。」
彼女は、彼の手に視線を落とした。
???:「私を握っていたのは、あなたなのね。
……心配してくれていたの?」
少年は、ただ静かに、首を縦に振った。
???:「大丈夫。
ここにあなたを置いていったりしない。
さあ……あなたの名前を教えて。」
口は開いた。
だが、肺から音は出なかった。
彼は、ただ俯いただけだった。
???:「どうしたの?
恥ずかしいの?」
彼女の顔に、やさしい微笑みが浮かんだ。
???:「……分からない。
覚えていない。」
彼女は両手で顔を覆った。
そして、重く、悲しそうな視線を彼に向けた。
???:「分からないんです。
ごめんなさい……。」
???:「かわいそうに……坊や。」
彼女は彼の頭を撫で始めた。
慰めるように、静かに。
???:「……あなたは、ぼくのお母さん?」
彼は彼女に手を伸ばした。
だが、彼女はそれを止めた。
???:「残念だけど、私はあなたのお母さんじゃない。
私たちは似ていないし……
本当のところ、あなたが誰なのかも分からない。」
「……僕たちは、他人なんだ……」
少年は、彼女の顔を見つめたまま、動けなくなった。
???:「でも……」
突然、少女は声を落とした。
赤い唇に、人差し指を当てながら。
???:「もしよかったら……
私のことを、お姉ちゃんって呼んでもいいわ。
血は繋がっていないけど……」
???:「あなたには、きっと誰もいないでしょう?
私が面倒を見る。
私のことを……ソレナ姉さんって呼んでくれる?
変じゃなければ、だけど。」
彼女は、無理に笑った。
そして、その小さな子供を抱きしめるように、両腕を広げた。
「……大好きだよ。」
少年は微笑んだ。
そして、美しい少女の胸に飛び込んだ。
体は、言うことを聞かなかった。
???:「僕……
ソレナ姉さんの、弟になる。」
ソレナ:「ええ。
私は、あなたのお姉ちゃんになるわ。」
頭が何か柔らかいものに当たり、それを支える力も残っていなかった。意識は遠のき、まぶたが閉じていく。けれど、彼はとても心地よかった。心の中に強い温かさが広がった。痛みさえも引
彼は初めて、愛を感じた
あとがき
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