九龍の長い夜
サザンオールスターズの名曲「死体置き場でロマンスを」へのオマージュとして、この物語を捧げます。
舞台は1985年の香港。欲望が渦巻くこの街で、一人の男の陳腐なロマンスは、最も残酷な悪夢へと姿を変えます。
甘い夜のはずが、なぜ地獄の一夜となったのか。人間の愚かさと、静かな復讐の恐ろしさを描く、一夜の転落劇。どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。
With the utmost respect and admiration for the genius of Southern All Stars.
This story is a humble tribute to their iconic song,
"Shitai Okiba de Romance wo" (Romance at the Morgue).
第1章:約束された甘い夜
1985年、香港。飛行機が啓徳空港のビル群に翼をこすりつけるように降下していく。この街を訪れるたびに味わう、墜落と紙一重の着陸は、何度経験しても背筋が凍る。だが、その緊張感こそが、これから始まる秘密の時間を祝福するファンファーレのように、今の僕には聞こえていた。
「健司さん、今の、すごかったですね!」
隣の席で、上気した声を上げる女。ユキと名乗った彼女とは、成田空港のラウンジで出会ったばかりだ。卒業旅行で一人旅だという、黒髪の美しい女子大生。そんな守る術を知らない仔羊が、僕という腹を空かせた狼の前に偶然現れたのだ。神が与えたもうた好機を逃すほど、僕は信心深くはない。
「これが香港の歓迎の挨拶さ。でも、本当のこの街の顔は、夜になってからだよ」
会社の経費で予約したシェラトン香港のフロントで、僕はさも自分の甲斐性であるかのように嘯いた。部下への慰労旅行と偽って経理から引き出した金で買った、イタリア製のジャケットの襟を立てる。42歳、中堅商社の課長。日本では疲れ果てた中間管理職でしかない僕も、パスポートを手にすれば、国際派のエリートビジネスマンという仮面を難なく被ることができた。
妻の聡子には、「緊急の出張が入った。俺が行かないとまとまらない厄介な案件でね」と告げてきた。彼女は「大変ですね。どうかお身体には気をつけて」と、いつもと変わらぬ穏やかな顔で僕を送り出してくれた。結婚して15年。聡子は僕の行動に一切口を挟まない、貞淑で良くできた妻だ。良くできすぎている、とさえ言える。その完璧なまでの無関心が、僕をこうして時折、巣の外の蜜を求める旅へと駆り立てるのだ。
ユキの潤んだ瞳は、僕が紡ぐ物語を疑うことを知らない。ホテルのバーでカクテルを数杯振る舞い、香港の夜景がいかにロマンティックかを語ってやると、彼女はすっかり僕を「世界を股にかける素敵な男性」だと信じきっていた。
「今夜、とっておきの場所に連れて行ってあげる。君のような美しい女性にこそ、ふさわしい場所だ」
タクシーを拾い、ホテルのボーイに教えてもらったディスコの名前を、さも行きつけのように広東語訛りで運転手に告げる。そのハッタリが、ユキの目にはひどく頼もしく映っているらしかった。
ネオンの洪水が渦巻く尖沙咀の雑踏に、その店「九龍Fever」はあった。分厚い扉の向こうから、身体の芯まで揺さぶるビートが漏れ聞こえてくる。僕の心臓も、これから始まる一夜への期待に同じリズムを刻んでいた。
フロアはむせ返るような熱気に満ちていた。レーザー光線がスモークの中を幾筋も走り、頭上のミラーボールが、踊り狂う人々を刹那のスターに変える。ここは欲望の解放区だ。
「すごい……!」
目を輝かせるユキの手を引き、僕は得意げにVIP席へと向かう。シャンパンのボトルを開け、グラスを合わせた。
「君の美しい瞳に、乾杯」
陳腐なセリフも、この場所では魔法の呪文になる。ユキは頬を染めてはにかんだ。僕は勝利を確信する。
やがて、狂騒的なビートが止み、甘く感傷的なスローナンバーが流れ始めた。チークタイムだ。
「一曲、踊ろうか」
僕が差し出した手を、ユキはこくりと頷いて取った。フロアの中央へ進み、そっと彼女の腰に手を回す。若く、しなやかな身体の感触。シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐり、僕の理性をゆっくりと溶かしていく。
「君と二人、こうして踊っているのが夢のようだ。憧れの香港で、こんな素敵な出会いがあるなんて」
耳元で囁くと、ユキの肩が小さく震えた。もう一押しだ。この熱狂とアルコールが、僕たちの境界線を曖昧にしてくれる。今夜、この娘は僕のものになる。香港の甘い夜は、すべて僕の筋書き通りに進むはずだった。そう、あの瞬間までは。
第2章:地下室の骸
「この後は、僕の部屋で飲み直さないか。九龍の夜景が、ここからよりもっと綺麗に見えるんだ」
ユキの耳元に唇を寄せ、とどめの一言を囁いた、まさにその瞬間だった。
ふっと、背後に人の気配がした。ダンスフロアの熱気とは明らかに異質な、冷たい影。振り返る間もなく、屈強な腕が僕の両脇に差し込まれ、身体が軽々と持ち上げられた。
「なっ、なんだお前たちは!」
抵抗しようにも、脇腹に突きつけられた硬く冷たい金属の感触が、僕の動きを完全に封じた。悲鳴を上げようとしたユキの口も、別の男の大きな手で塞がれる。ディスコの喧騒は、僕たちの小さな絶望をいとも簡単に飲み込んでいく。誰一人、こちらに気づく者はいない。
僕たちはまるでゴミ袋のように担がれ、店の裏口から引きずり出された。香港の生暖かい夜気が、汗ばんだ肌を撫でる。目の前には、エンジンをかけたまま停まっている一台の黒塗りのセダン。有無を言わさず後部座席に押し込まれ、ユキも隣に投げ込まれた。扉が閉まると、車はタイヤをきしませて急発進した。
「人違いだ!俺は日本のビジネスマンだぞ!こんなことをしてただで済むと思うな!」
運転席と助手席の男たちは、僕の虚勢に満ちた叫びを無視し、バックミラー越しに冷たい視線をよこすだけだ。隣では、ユキが恐怖で声も出せずに震えている。彼女の肩を抱こうとして、その手がひどく汚らわしいものに思えて、僕は思わず手を引っ込めた。
車はネオンの海を猛スピードで駆け抜け、やがて猥雑な光は遠ざかっていく。代わりに鼻をつき始めたのは、潮と魚のはらわたが混じったような生臭い匂い。港湾地区だ。道は舗装されていない砂利道に変わり、車は不気味に軋むコンテナや倉庫が並ぶ一角で、ようやく停まった。
引きずり降ろされたのは、錆びついた鉄の扉を持つ、古びた倉庫の前だった。男の一人が重い扉を開けると、カビ臭い空気がどっと溢れ出す。僕たちは地下へと続くコンクリートの階段を突き落とされた。
「うわっ!」
数段を転げ落ち、冷たく湿った床に手をつく。ユキもすぐそばに倒れ込み、か細い呻き声を上げた。背後で、重い鉄の扉が閉まる地響きのような音がした。ガチャリ、と錠が下りる無慈悲な音が、僕たちの運命に判決を下したように響き渡る。
完全な暗闇。染み付いたカビと、どぶ川のような悪臭。そして、ひんやりと肌を刺す湿気。
やがて、目が徐々に暗闇に順応し始めると、壁の高い位置にある格子窓から、青白い月光が筋となって差し込んでいるのが見えた。その光が、部屋の隅にある“何か”をぼんやりと照らし出していた。
最初は、打ち捨てられたマネキンか何かだと思った。だが、違う。それは、紛れもなく、人間の骨だった。月光を浴びて、肋骨が不気味な縞模様を描き、空虚な眼窩がこちらを嘲笑っているように見える。打ち捨てられた骸だ。
「ひっ……!」
ユキが息を呑む音が、静寂の中でやけに大きく響いた。彼女は短い悲鳴をあげると、その場にへたり込んでしまった。僕もまた、腰が砕け、その場に尻餅をついた。脳が理解を拒絶する。
「嘘だろ……こんなの悪夢じゃないか!」
僕は支離滅裂に叫んでいた。恐怖は、僕の中から最後の理性を奪い去り、醜い本性を引きずり出した。
「そうだ、何かの間違いだ!俺は何もしていない!この娘とはまだ何も……本当だ、信じてくれ!」
その言葉が、自分の口から出たものだと気づいた時、僕は凍りついた。隣で、ユキが顔を上げた。恐怖に歪んだ彼女の顔の中に、それまで僕に向けられていた憧憬の色は微塵もなかった。代わりにあったのは、汚物を見るかのような、強烈な軽蔑の眼差しだった。
甘いロマンスの幻想は、この地下室で無惨な骸を前に、跡形もなく砕け散った。僕とユキの間には、死体よりも冷たい、絶望的な沈黙だけが横たわっていた。
第3章:妻からの国際電話
どれくらいの時間が経っただろうか。永遠にも思える沈黙が支配する地下室に、突如としてけたたましいベルの音が鳴り響いた。ジリリリリリリン!
時代錯誤なその音は、部屋の隅に打ち捨てられたように置かれていた、旧式の黒電話から発せられていた。僕とユキは、まるで電気ショックでも受けたかのように、びくりと身体を震わせ、音のする方を見た。こんな場所に、なぜ電話が?
僕たちが顔を見合わせていると、再び鉄の扉が軋みながら開き、見張りの男が顔を覗かせた。男は何も言わず、ただ顎で電話を指し示した。受話器を取れ、ということらしい。
これは罠だ。だが、逆らう選択肢など、ここには存在しなかった。
僕は震える足で壁際まで歩み寄り、恐る恐る、汗で滑る手で受話器を取り上げた。ひんやりとしたベークライトの感触が、不吉な予感を増幅させる。
「……もしもし?」
絞り出した声は、自分でも情けないほどにかすれていた。
一瞬のノイズの後、受話器の向こうから聞こえてきたのは、信じがたいことに、聞き慣れた女の声だった。
『あら、あなた。香港の夜は楽しんでいるかしら?』
聡子だった。日本にいるはずの、僕の妻。しかし、その声は僕の知っている聡子の声ではなかった。普段の、お茶でも淹れるかのように穏やかな口調とは似ても似つかぬ、氷のように冷たく、それでいてどこか楽しんでいるような響きを持っていた。僕の背筋を、真夏の香港の熱気とは無関係の、冷たい汗が滝のように流れ落ちた。
「さ、聡子……? な、なんで……どうしてこの番号を……それに、どうして僕が香港に……」
声が上ずる。動揺を隠せない。聡子は電話の向こうで、クスクスと喉を鳴らして笑った。その笑い声が、僕の鼓膜を不気味に震わせる。
『あなたが乗った便、泊まっているホテル、そして……今あなたの隣で可哀想に震えている、可愛いユキちゃんという学生さんのことも、ぜーんぶ知っているわよ』
聡子の言葉は、一語一語が正確に的を射る矢のように、僕の心臓に突き刺さった。ユキの名前まで知っている。
『あなたの行動は、最初から全部わかっていたの』
血の気が引いていくのが自分でも分かった。頭の中で、バラバラだったピースが恐ろしい形に組み上がっていく。僕の度重なる裏切り。うまく隠し通しているつもりだったが、聡子はすべてに気づいていたのだ。そして、今回の「香港出張」という見え透いた嘘をきっかけに、彼女は行動を起こした。これは人違いなどではない。マフィアの抗争でもない。僕という、ただ一人の愚かな男を標的にした、完璧な復讐劇だったのだ。
「そ、そんな……まさか……」
『まさか、じゃないわ。現地の調査会社って、本当に優秀なのね。あなたの情けない顔、写真でしっかり確認させてもらったわ。傑作だった』
僕は言葉を失った。聡子の声は、どこまでも冷静で、残酷だった。まるで、チェスの駒を一つずつ、静かに追い詰めていくように。
僕の脳裏に、これまでの自分の愚かな行いが走馬灯のように駆け巡った。聡子の優しさに甘え、彼女の沈黙をいいことに、僕は何度も彼女を裏切ってきた。そのすべてが、この瞬間のために積み重ねられてきたのだとしたら?
電話の向こうの妻が、これほどまでに恐ろしい存在だったとは。僕は、自分の妻について、一体何を知っていたというのだろう。
第4章:完璧な罠
「……恐れ入ったよ。完璧な計画だ」
僕の口から、乾いた呟きが漏れた。それは、妻の周到すぎる罠と、その底知れぬ執念に対する、恐怖と、そしてほんのわずかな賞賛が入り混じった、偽らざる本音だった。もはや抵抗する気力も、言い訳する言葉も、僕の中には残っていなかった。僕という獲物は、妻が張り巡らせた見えない網に、寸分の狂いもなく捕らえられていたのだ。
聡子は、僕の呆然とした呟きを聞き届けたかのように、電話の向こうで満足げに息をついた。そして、とどめを刺すように、楽しげな声で言った。
『それじゃあ、少しは頭が冷えるまで、一晩、そこのお友達と仲良くしてなさいな。もちろん、その可愛い学生さんともね。一夜の遊びにしては、ずいぶん高くついたんじゃないかしら?』
ガチャン。
一方的に切られた電話の音が、地下室に虚しく響いた。僕は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ち、受話器が手から滑り落ちて床に転がった。
事の顛末を、僕と電話のやり取りですべて理解したのだろう。ユキが、ゆっくりと立ち上がった。そして、軽蔑と呆れと、ほんの少しの同情が混じったような、複雑な視線で僕を射抜いた。
「……最低な人」
その一言は、どんな罵声よりも鋭く、僕の砕け散ったプライドの破片に突き刺さった。彼女は僕から目をそらすと、部屋の隅で膝を抱え、外界との接触を完全に断ってしまった。
鉄の扉の向こうから、任務を遂行した男たちの下品な広東語の笑い声が聞こえてくる。彼らにとって、これは金で請け負った単なる仕事なのだろう。だが、僕にとっては、人生の終焉を告げるゴングだった。
格子窓の向こうで、港の灯が遠くに揺れている。それは、僕が決してもう戻ることのできない、自由で華やかで、そして愚かだった世界の光だった。
僕は力なく顔を上げ、部屋の反対側にある骸をぼんやりと眺めた。月光に照らされた骨は、何も語らない。だが、その空っぽの眼窩が、僕の滑稽な末路を永遠に見つめ続けているように思えた。
甘い夜を過ごすはずだった。彼女をこの腕に抱き、優越感に浸るはずだった。その欲望が、今となっては宇宙の果てのことのように遠く感じられる。抱くどころか、僕たちは今や、この骸と共に一夜を明かす運命共同体なのだ。
これから始まる地獄の一夜と、もし生きて日本に帰れたとして、その先に待っているであろう本当の地獄に思いを馳せる。聡子のあの冷たい声が、耳の奥で何度も反響する。
僕は、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。香港の夜は、僕にとって、まだ始まったばかりなのだ。この、骸が転がる地下室での長い長い夜が。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
主人公・健司の迎えた結末を、皆様はどのように感じられたでしょうか。彼の愚かさを笑うのか、あるいは妻・聡子の執念に恐怖するのか。この一夜の出来事が、皆様の心に何かしらの爪痕を残せたとすれば、作者として望外の喜びです。
改めて、この物語を着想するきっかけを与えてくれた偉大なバンドに、心からの敬意を表します。