5-3
俺は身体が熱くなってきて、風呂から上がる。
「出るの?」
「まぁな、あらいはどうする?」
「そうね、私も一緒に出るわ」
あらいが風呂から上がる。
2人で脱衣所に向かう。
「ほら…バスタオル」
俺はタオルを差し出す。
「ありがとう、代わりに拭いてあげる?」
「いや…まぁ…いいか」
拒もうとしたけれど、楽しそうな顔をしてる。
その顔を壊したくなくて諦めた。
「ほら、遠慮しないで」
「あー…」
あらいが俺の頭にバスタオルを乗せる。
優しく、そして楽しそうにわしゃわしゃと拭いてくる。
指先が耳の後ろに触れるたび、
くすぐったさと妙な緊張が入り混じる。
「どう?」
「乾いたんじゃないかな」
「それなら良かった」
落ち着いた雰囲気で柔らかく微笑む。
「…」
彼女とは知り合ったばかりなのに、
昔から知っていたような安心感がある。
それはまるで、穏やかな海で泳いでるかのような安らぎがあった。
何故だか、あらいが俺を裏切る瞬間が想像できなかったから。
「そろそろ出ましょうか」
「服は外で着替えるよ」
風呂に入るときは水着があったからよかった。
しかし風呂から出たのだから下着に着替える必要が出て来た。
このままだと見せてはいけないものを見せてしまう。
脱衣所の扉が仕切りになってくれるから、多分大丈夫だと思うんだけど。
「声を出してて」
「声って、そんな会話のネタは思いつかないんだけど」
「奇声でもいいから、声を出し続けて。
じゃないと不安なの」
「了解…」
俺は脱衣所を出て客室で着替える。
「生きてる?」
「まだ殺されてないよ」
俺は先ほどの約束通り、声を出し続ける。
「生きてるならいいわ」
「もう少しで着替え終わりそう」
「私も終わるわ」
「こっちは終わった」
「もう少し待って」
「いくらでも待つよ」
「すぐ行くから」
「…」
「レン?」
あらいは下着姿のまま出て来る。
「おわっ」
俺は驚く。
「良かった生きてる」
「下着姿じゃないか。早く着替えなよ」
「ある程度、隠れてるから平気。
後はここで着替えるから傍に居て」
「あぁ…」
心配性だなと思う。
「終わったわ」
「おぉ…」
ボロボロのシャツ、短パン、ベレー帽、ブーツ、ガラスの羽。
いつもの格好に戻ったようだ。
少し違うとすれば、化粧が落ちたのか。
それとも風呂上がりだからか肌が少し赤くなってるのが自然に見えた。
「爪…切ってあげる」
あらいがそんなことを言ってくる。
「いいよ、汚いし」
俺は断る。
と言っても、頭も拭いてもらったし、
今更かとも思わなくもない。
「汚いなら余計にしないと、手貸して」
「まぁ…いいか」
俺はさっと受け入れる。
断るのが難しくなってきたな。
まぁ、断る理由も特にないんだけどさ。
善意だし…特別嫌って訳じゃないし。
「結構、伸びてるわね」
パチン、パチンとリズム良く俺の爪はあらいの手で切られていく。
「そうかも」
「普段からしてないからよ」
「悪い」
「もう…仕方ないわね」
あらいはゴミ箱を寄せて、切った爪を落とす。
「まぁまぁ、とれたな」
「うん、良い感じ」
「綺麗になったかな」
「なったよ」
あらいは上手くできたと喜んでいた。
「よし、じゃー寝るかな」
俺は寝ようとしたが、あらいに止められる。
「まさか、私にだけさせるの?」
「え…だって」
「私のもしてよ」
「あー…分かった」
俺は彼女の右手を取ろうとする。
「違う、そっちじゃないわ」
「ってことは左手?」
「ううん、足」
「足?」
「そ、お願い」
「しょうがないな」
俺は椅子に座った。
そしてベットに座る彼女の足を自分の膝上に乗せる。
「それじゃ、頼むわね」
あらいは楽しそうだった。
「嬉しそうだな」
「いいじゃない、人にやるのも好きだけど、たまにはやってもらうのも悪くないわ」
「そういうものか」
「そういうものよ」
「じゃー、始めるぞ」
「お願い」
「…」
俺は爪切りでパチン、パチンと切っていく。
「足…切らないでね」
「気をつけるよ」
女性の足に触れてるという状況がドキドキする。
いくら経験豊富だったとしても、
俺は記憶喪失なのだ、初めてのように緊張する。
「うん、とっても綺麗」
「それなら良かった」
俺は上手くいった安堵感でため息を吐く。
「うふふ…人にやってもらっちゃった」
それは思い出を脳に刻んだ時に、
幸福ホルモンが出てるのではと思う程の顔だった。
「それなら良かった」
喜んで貰ったのなら何よりだろう。
「ありがとう、レン」
「まぁ…」
褒められて照れくさいが嬉しかった。
「うふふ」
あらいは柔らかく微笑んでいた。
「それにしても、どうしてゴミ箱2つあるんだ?」
爪きりをしてた時に気づいた。
「多分だけど、カップルでの宿泊時に些細なことで揉めないようにだと思う」
「なるほど」
それがこのホテルの配慮ということなんだろう。
「それにしても何だか勿体ないわね」
「何が?」
「固定電話が備え付けられてるのに、誰も来れないんですもの。誰にも通じない電話って、何だか寂しいわね」
「そう…だな」
確かに、そうかもしれない。
人が存在しない世界に俺たちは居る。
本当だったらこの電話は、ホテル限定の食事を注文したり、何か不便があればフロントにすぐ連絡できる筈。
でも、その受け答えをする人が居ないのだから。
「メモ用紙がある」
「本当だ」
メモ用紙とボールペンは、右利きの人が自然に手を伸ばせるよう斜めに配置されていた。
「何か書こう」
意味もなくあらいはペンで文字を書く。
「何を書いたんだ?」
「えっと…笑わない?」
あらいはペン先で机をコツコツ叩く。
そして、視線が彷徨っていた。
まるで宙に光の粒が浮かんでるかのように。
「笑わないよ、なんて書いたの?」
「どうぞ…」
「えっと…これは…その…」
そこにはILOVEYOU(花を渡したい)と書かれてた。
「夏目漱石が月が綺麗ですねって翻訳したから、私も何か別のもので翻訳してみたいなって」
「えっと、その…嬉しいよ」
「本当?」
「あぁ」
「良かった」
「…」
俺たちは抱き合った。
それは些細な言葉のやり取りかもしれないが、
心が温まったのは確かだ。
「寝よう、レン」
「そうだね、それじゃあ明かりを消そうか」
「うん」
俺たちはベッドに身を沈めた。
高級なベッドなのか体重が分散されてる快適さがある。
「スマホの充電は良い?」
「しておくか」
スマートフォンの充電もコードレス対応で、専用の台に置くだけで自動的に充電が始まるというスマートさ。細部に至るまで、快適さを追求する意志が感じられた。
「便利ね、ごちゃごちゃしないし」
「何だかハイテクな感じがしていいよ」
「ほんと、ストレスフリーってこういうのよね」
「お客さんのことを考えてるホテルだと思う」
「いいホテルね、ここは」
「そうだな」
俺たちはそうして眠りにつくのだった。
映画を見終わった後にパンフレットを読んだ時みたいに。




