第九話 イザーク王子
雲一つない青空。初夏のまぶしい光が降り注いでいる。普段は厳めしい石造りの校舎が花飾りで彩られ、浮き立つような明るい雰囲気を醸し出している。
夏至を祝う花飾りだ——
終業の鐘が鳴り、しばらくすると、校舎からぞろぞろと学生たちが日差しの中に現れた。笑いさざめく学生たち。女生徒たちはそれぞれに生花の髪飾りをつけ、または胸元に花をさし、花束を手にしている。
その笑顔の集団の中を、手ぶらのマリエルが独り、毅然と前を向いて歩いていた。
夏至祭りは大事な女性に花を贈る日だ——
恋人にはもちろんのこと、婚約者がいる場合はかならず婚約者へ花を贈る。婚約関係にあるならば至極当然の礼儀のようなものだ。
——映像を見て、俺は青くなった
(たしか……あの日……
……俺は……フランにしか花を贈っていない……)
マリエルとすれ違った生徒がひそひそとささやく声が聞こえる。
『いくらなんでも花を贈らないなんて』
『ひどい』
『婚約はすでに解消されたのかしら……』
◇
「なんてことなの!」
イブ姉さまが振り返って、燃えるような目で俺を睨んだ。
「同じ学園に通っている婚約者へ花を贈らないなんて……ありえないわ……」
母上がため息をつく。
「話には聞いていたけれど……後ろ盾になってくれる公爵家をこんなやり方でコケにするなんて……どこで育て方を間違えたのかしら」
アリア姉さまがぶつぶつと呟く声が耳に届いた。
「実際に見ると辛いわね。やっぱり廃嫡にして離宮送りにするべきだったのかしら……」
姉さまが悲し気な顔で俺に問いかける。
「ねえ、エドワード……あなたは友人としての情すらマリエルに感じていなかったの? どうして、こんな酷い仕打ちができるの?……マリエルの気持ちを想うと……やりきれないわ」
気丈なアリア姉さまの目が潤んでいる。
俺は、母上と姉さまたちの反応を見て、俺がマリエルにどれほど酷い仕打ちをしたのかを思い知った。夏至の祝い花を贈らないことは、俺が思っていた以上に大事だったのだ……
あの時、俺はフランのことしか考えていなかった。フランが『学園にいる間だけでいいの。あなたの愛を私だけに贈ってほしい』と涙ながらにいうから……俺はなんてことを……
俺は何も答えることができず、姉さまは手にしたお酒をごくりと飲んだ。
「こんなの、お酒でも飲まなきゃやってられないわ」
◇
ちらちらと好奇の視線を受けながら、毅然と前を向くマリエルの背中が痛々しい——
その時、人波の向こうから真っ白な花束を抱えた長身の男性が現れた。
イザーク王子だ。
普段は人目につかないように、無造作におろしている前髪をすっきりとあげ、精悍な面立ちがあらわになっている。初夏の光に照らされた浅黒い肌に、意志の強そうな瞳。
学園の制服を着ていても、分厚い胸板やがっしりとした太ももの筋肉がわかる。戦神のような力強い神々しい美しさに知らず目を奪われる。彼には為政者のような圧倒的な存在感があった。
中庭にいた女生徒たちがざわざわする。
『ねえ、みて、素敵!あの方はどなた?』
『この学園にあのような方がいたかしら』
『なんて豪奢な花。それにこの香り』
『どなたに贈るのかしら』
映像を見ている王家の女性陣もざわざわした。
——きゃああ
——すてきぃ
——イザーク様かっこいいわね
イザーク王子は周囲の視線を意に介さず、花束をかかえてまっすぐにマリエルに向かう。
マリエルの前まで歩みよると、王子はおもむろに片膝をついた。
『イザーク様……』
とまどうマリエルに彼は一抱えもある豪奢な純白の花束を差し出した。
『遅くなってすまない。どうしても君にこの花を贈りたくて手間取ってしまった。受け取ってくれないか』
マリエルは固まったように動かない。
影がマリエルの背後からイザーク王子を映しているため、マリエルの表情は見えなかった。
『マリエル嬢?』
イザーク王子が軽く首をかしげた。
『どうして……』
とまどうマリエルの声。
『今日は大切な人に花を贈る日だろう。君は大事な友人だ。受け取ってくれ』
マリエルは一抱えもある大きな花束におずおずと震える手を差し出した。
『ありがとう……ございます……』
それは、豪奢な大輪の百合の花束だった。
この国で見られる百合よりも、ひとまわりも大きい優美な純白の百合。その花弁のふちは繊細なフリルのように波打ち、透き通るような花びらは一点の曇りもないほど真っ白だった。
マリエルが受け取った花束を宝物のように胸に抱きしめるのを、イザーク王子が優しい目で見つめていた。
王子がすっと立ち上がり、彼女が抱える花束から小さめの百合を一輪を手折ると、その花の香りを確かめるように口元に寄せた。
『君にはこの高貴な香りがよく似合う』
マリエルがはっとして慌てた口調で問う。
『イザーク様。まさか……この花は……』
『いいように解釈してくれて構わないよ』
イザーク王子は意味ありげに目を細め、色気のある表情で口角をあげた。
そして、手にした花にキスをして、流れるようなしぐさでマリエルの髪にそっと差すと
『美しいな。君にはこの花がよく似合う』とうっそりと笑った。
その色気のある表情に、やじうまの生徒たちが歓声をあげる。
『きゃああああ』
『素敵~』
王城の女性陣たちももれなく歓声をあげた
——きゃああ きゅんよぉ!
——まあ、素敵
——これは、惚れるわね
——きゅんきゅんきたわぁああああ
イブ姉さまが悶えている。
「馬車まで送ろう……」とイザーク王子が優雅なしぐさでマリエルの手をとり、令嬢たちの羨望のまなざしを浴びながら、ふたりはその場を去っていった。
◇
「ところで……良く見えなかったのですけれど、あの白い百合は何でしたの?」
イブ姉さまが尋ねると、母上が応えた。
「あれは、トラン王家の門外不出の百合、トランブランカよ。私達の知っている百合より豪奢で、なにより百合には無いかぐわしい芳香を放つ高貴な花。私も初めて見たわ」
「トランブランカは王族だけが持てる花よ。王家以外のものに贈られるのは求婚の時だけと聞いたわ」
とアリア姉さま。
「え? エドワードとの婚約が解消されていない時点でトランの王子が求婚するのはどうなの? 外交的に問題じゃないの」
イブ姉さまが疑問を投げかけると、母上が答えた。
「イザーク王子は『大事な友人』としか言っていないし、求婚の言葉も口にしていないわ。それにエドワードの失態をカバーして、マリエルの体面を守ってくれたのよ。抗議などできないわよ」
と母上が肩をすくめる。
アリア姉さまも腕組みをといて、さっきまであんなに酔っていたのが嘘のようにつらつらと喋る。
「トラン王国とブロッサム公爵領は国境の一部を接しているし、トランの資源と公爵領の技術は相性がいいわ。後ろ盾のない第二王子のイザーク殿下に、ブロッサム騎士団の武力と公爵家の財力はかなり有益よね」
「まさか、最初からマリエル狙いで留学を?」
眉をひそめたイブ姉さまに、母上が言う。
「まさか。それはないと思うわ。エドワードとマリエルの婚約式にはトランから祝辞を頂いているし……愚かなエドワードのふるまいをみて、チャンスだと動いたんじゃないかしら……」