変わり行くもの、変わらないもの
「お疲れ様〜。はー寒寒ぅ〜」
お疲れ様です! と販売員さん達の声が響く。
外は雪だと言うのに、何故か薄着にサンダルを履いた格好の山上係長が、詰め所の玄関を入って来た。
「あ、係長! お疲れ様です」
ちょうど窓際の棚から発注書を取り出して自分の席へと戻る途中だった私は、入って来た係長と鉢合わせるような形になった。
「おぅ、藤森さんお疲れ様」
「あ……み、道下、です」
「あ、そうだった、ごめん道下さん」
はははっとお互いに笑いながら、席へと向かう。
発注書作成を始める私の隣で、係長はいつものように缶コーヒーをテーブルの上に置いた。この季節はホットらしく、あちち……と言いながらプルタブを開けている。
「いやぁ、道下さんってどうにも慣れないなぁ。もうめんどくせーから春琉ちゃんって呼ぶわ」
「あっははは! 全然いいですよ、そうして下さい」
いまだに私を見ると「藤森さん」と呼ぶ係長。27年もの間お付き合いしてきたのだから、私だってそれが当たり前に自分の名前だと今でも思っているけれど。
12月24日の大安の日に、私とシュンは婚姻届を提出した。
本当は、付き合いを始めた10月8日にしようかという話もあったけれど、ちょっと急だった事もあり、クリスマスイブに入籍する事になった。
一番慣れないのは、私自身だ。むしろ「藤森さん」と呼ばれる度に、私ってもう藤森じゃなくて道下なんだ、と気づかされる。不思議な感覚だ。病院なんかに行った時に、自分が呼ばれていてもしばらく気がつかないのではないだろうか……と思う。
「春琉ちゃん、今年は……」
「あはは、何だか新鮮です、係長からそう呼ばれるの」
「俺も新鮮過ぎてすげー変な感じだわ!」
顔を見合わせて笑う。
「今年は葵ちゃんがいなくなって、ラビットも一気に寂しくなっちゃったよなぁ」
「はい。いまだに、販売終えてここに帰って来たら葵さんがいるような気がしちゃって」
「うん。あの明るい声が聞こえないと、なんかやっぱ変だよなぁ。そんな今年も、早いもんでもう今日で終わりだ」
今日は12月29日。仕事納めだ。何だかんだと言っていても、気がつくとあっという間に1年なんて終わってしまう。
「新生活にはもう慣れたかい?」
「何となく……ですかね。毎日帰ったら彼がいるっていうのは、何だか不思議な感じですね」
恥ずかしいので言わないけれど、本当は毎晩がとても嬉しい。家で待っていると、シュンが必ず帰ってくるのだから。
「いいね~新婚。楽しい時だな」
係長は私を見て微笑む。自身の新婚時代を思い出したりしているのかな、と考える。
「春琉ちゃんは、結婚してもラビットにいてくれるのかい」
「はい、私はずっと続けます。シュンもそうして欲しいって」
「そうか、それはありがたいよ」
発注書を書いていると、結婚指輪が視界に入る。先月、シュンと一緒に買いに行った。縁取るように上下にライン状の模様が入った、シルバーのリング。内側には、お互いのイニシャルと入籍日が彫り込まれている。
ペアリングも婚約指輪も、仕事につけて来た事はない。この結婚指輪は、購入した日にシュンが左手薬指にはめてくれてからずっとつけたまま。何か書き物をしているだけで私はニヤニヤしてしまう。この輝きが視界に入るだけで、嬉しくて。
「葵ちゃんの旦那、昔ラビットの販売員だったって知ってたっけ?」
缶コーヒーを熱そうに啜って、係長が聞いてくる。どうやら猫舌らしい。
「はい、葵さんから聞いてます。たいすけさん、って言うんですよね」
「そうそう。葵ちゃんが20歳でラビット入って来た時、泰輔は中堅販売員で、歳は25くらいかな。俺も当時はまだ販売員でね。実は俺さ、葵ちゃんの育成担当だったんだよ」
「えっ! そうだったんですか!?」
初めて知った事だった。葵さんの育成担当が誰だったのかなんて、今まで特に気にした事もなかった。
「山上さん、今日もよろしくお願いします! なんて言ってさ。想像も出来ないだろうけど、最初は葵ちゃんも俺に敬語でね」
「ホントに!? あはは! 全然想像出来ないですね」
「でしょ? ただ、勢いや強い意思は当時からあった。この子は成長したら、ここを背負って立つ存在になるんじゃないかなってよく思ったもんだよ」
急に始まった葵さんの昔話に、私は発注書を書いていたペンを置いてワクワクと耳を傾ける。
「俺は元々、泰輔と2人で飲みに行ったりするくらい仲が良くてさ。ある時あいつが俺にね、石黒さんの事を好きになっちゃいましたってこっそり言って来た」
「へぇ! たいすけさんの方から好きになったんですね」
「葵ちゃん普段はおちゃらけててあんな感じだけど、根は真面目で優しいし、何事にも一生懸命だからな。何度かデートに誘って、葵ちゃんが入社して3年くらい経った頃に、2人はついに付き合い出したんだ」
葵さんのいない所で、葵さんの過去の話を聞く。何となくこっそりと悪い事をしているかのような気持ちになりながらも、それ以上にとても楽しい。知らなかった彼女のエピソードを初めて知るという事が。
「それから2年くらい後かな、泰輔がここを辞めたのは。思えば、あいつは当時から葵ちゃんとの将来をしっかり考えていたんだろうなと想像出来るよ。あいつ、マジで葵ちゃんにゾッコンだったから」
「ははっ、そうなんですね! でも、たいすけさんの気持ちすごくわかりますよ。葵さんって本当に素敵な人だから」
「こんな事勝手に話しちゃって、バレたらあいつらに怒られそうだなぁ」
と言って係長が笑ったその時、
「こんばんは〜っとぉ!」
突然、玄関から聞き慣れた声がした。
頭に大きな雪の粒を乗せて、黒縁のメガネをかけた葵さんが、ひょっこりとこちらを覗いていた。
「あ! 葵さん!」
「おおっ葵ちゃん!」
私や係長以外の人達も、みんな一斉に葵さんの名前を呼ぶ。
「今年ラストの日にみんなを労いに来たよ〜」
「……こんばんは、お久しぶりです」
葵さんの後ろから、同じように頭に雪を乗せた男性が顔を出した。あの人は、もしかして。
「おぉ、泰輔ー! 来てくれたのか。なんてタイムリーな!」
係長が嬉しそうに叫ぶ。たいむりー? と葵さんが不思議そうな声を出している。
葵さんは、たいすけさんを連れて遊びに来てくれた。葵さんより少しだけ背が高くて短髪で、髭を生やしたイケメン男性。以前に写真で見たとおりの人だ、と思った。私よりも前からここで働いている販売員さん達は、とても懐かしそうに彼に声をかけている。
はい、お土産! と言って葵さんは、テーブルの中央に大きな紙袋を2つドシンと置いた。
葵さんとたいすけさんは、販売員さん達に大歓迎されている。私は、退職後も月に一度くらいのペースで葵さんには会っていた。実は2週間ほど前にも会っていたので、そこまで久しぶりという感じもしない。
ひとしきり他のみんなと再会の喜びを堪能した後、葵さんは、春琉〜っ! と叫んで両手を広げた。
「葵さーんっ」
ガッシリと抱き合った。
「……と、言っても実はあんまり久しぶりでもないんだよね、春琉とは」
「でも嬉しいよっ! 今年最後にラビットに来てくれて。葵さんのメガネ久々に見た~」
「へへ、コンタクト切らしちゃってね」
葵さんは普段はコンタクトをしているが、本当に時々、半年に一回くらい、メガネをかけて来る事がある。私は葵さんのメガネ姿が大好きだ。かっこいいなぁ、良く似合うなぁと思う。
「葵ちゃーんっ!」
係長までもが両手を広げている。はいはーい! と言って葵さんは係長ともハグした。旦那の前だけどオッケーなやつ? と言いながら葵さんは笑っている。たいすけさんは微笑みながら、僕の奥さんですよ山上さん、と言って2人を引き離そうとしている。その様子を見て、ここにいるみんなが笑い出した。
ラビットの人達って、何て仲が良いんだろう。そんな中に自分がいられている事に、幸せを感じる。
他の販売員さんが「石黒さん、藤森さんこの前結婚したんですよ!」と言っている。お土産のクッキーをバリバリ食べながら。
「知っとるがなぁ! 春琉の大親友を私が何年やってると思ってんのよ。意外とまだ3年くらいなのよねそれが」
微妙だなぁと言ってまたみんなが笑い出した。
「でも入籍してから会うのは初なんだよね。春琉、結婚おめでとうね」
「うん、ありがとう!」
みんなの前で言われるのは、何だかちょっと恥ずかしい。それ以上に、嬉しいけれど。
みんな騒がせてごめんね〜気にせず仕事に戻ってね、と葵さんは陽気に言って両手をパタパタ振る。解散、とでも指示するかのように。
「春琉は初めて会うもんね。これがたいちゃんだよ」
葵さんは、改めて私にたいすけさんを紹介してくれた。
「はじめまして、春琉さん。たいちゃんです」
たいすけさんは穏やかに笑いながら、そう挨拶してくれた。この人が、葵さんの旦那さん。
「あはは。ふじも……じゃなかった、道下春琉と申します」
私が言うと、たいすけさんは微笑んで軽く会釈をしてくれた。パッと見はちょっといかつい感じのイメージがあるけれど、物腰が柔らかくて、とても優しい人である事が強く伝わってくる。
この人としっかりと話し合って、葵さんはこれからの人生を決めたんだ。
「道下春琉、なのかぁもう! 本当に結婚したんだね」
「本当に結婚したよ、これでも一応」
「シュン君いい旦那さんしてるっしょ?」
「そ、そうだね……いいよ、とっても」
「はっはははは! 何だその言い方! 超ウケる」
大笑いする葵さんの声。これこそがラビットだ、と思う。この声が聞こえてこそ。
彼女の左手にも、結婚指輪が光っている。葵さんは10月に入籍していた。
「葵さんも、そろそろ慣れた? 新しい苗字」
「ん〜何だかね。いまだにしっくり来ないわぁ、篠崎さんって。誰? って感じ」
葵さんがそう言ってたいすけさんを見る。君だよ、と言ってたいすけさんは笑った。葵さんは結婚して『篠崎』さんになっていた。
「葵ちゃんも春琉ちゃんも一気に苗字変わっちゃって、ホントにわけわからんなぁ。そしてこの仲良し2人組が似たようなタイミングで結婚したって事にもビックリだ」
係長が、冷めた缶コーヒーを飲みながら言う。彼が私の事を『春琉ちゃん』と呼んでいる事に、なんかヘンな感じ! と言って葵さんは笑っていた。
「俺もラビットに長く勤めてるけど、若い販売員達がこうやって結婚したり姓が変わったりしていくのを何人も見て来たんだ。その度に俺も幸せな気持ちになるんだよ」
私の隣に座っていた係長が席を立つ。
「葵ちゃんも春琉ちゃんも、本当におめでとう! 泰輔もおめでとうな! みんなみんな、幸せになれ!」
突然後ろから、私と葵さんとたいすけさんの頭をガシガシと撫でた。
「あははっ! 係長ありがと! 私も係長が若い頃からの付き合いだけどさ、もうすっかりラビットのお父さんだね」
葵さんはとても嬉しそうに笑っている。
私は、色々な思いが一気に込み上げて涙が溢れ出してしまった。
「え、俺そんなつもりじゃなかったんだけど……そんな感じ!? 」
「はっはっ! マジで春琉の涙腺どーなってんのよ!?」
2人から同時に突っ込まれながら、私は拳でゴシゴシと目を擦る。たいすけさんも、ちょっとびっくりしている様子だった。
「だって、すごく嬉しいから……葵さんがいて係長がいて、シュンがいて、大切な人達がいてくれて、ラビットの人達もみんな仲良くて、私も葵さんも結婚して、係長が幸せになれって言ってくれて、今ここに居られてる事がすごく幸せだから」
自分でも何を言っているのかよくわからない。今感じている事がストレートにナチュラルに、滑るように私の中から出て行った。もうほとんど勝手に。
涙を拭っていると、今度は葵さんが頭をワシャワシャしてきた。
「あんたのそういう所にシュン君は惚れたのかもね」
黒縁メガネの奥から、優しい瞳が私を覗き込んでいた。
「たいすけさんだって、葵さんのその明るくて愛に溢れてる所に惚れたんだよ絶対」
「そうなの?」
葵さんが聞くと、たいすけさんは笑顔で、そうだよ、と言って大きく頷いた。葵さんは、何なんだこりゃ、と言いながら笑っている。照れくさそうな顔をして。
「だって葵さん、みんなから愛されてるもん。愛に溢れてる人の事は、みんなも愛するんだよ」
「なんで急に私がそんなベタ褒めされてんのさ」
「だって褒めるとこしかないもん、葵さん。ホント大好き」
「何さ、告白しないでよ急に。照れるっしょや」
「……どうでもいいけどな、何でお互いの手を握り合ってんだお前らは、ホント仲良いな」
係長に言われ、私と葵さんは自然に互いの手を握り合っていた事に気がつく。おかしくて、嬉しくて、私は笑った。それぞれの手に光る、少し違ったデザインの指輪。
こんな日が、いつまでもいつまでも続いてくれたら……。
そんなふうに思うけれど、変わり行くものを受け入れて行く事も、大切なのかもしれない。
私に大きな大きな思い出と幸せをくれた飛行船SS号は、いよいよあと2日で運航終了となる。今は九州の方にいるらしい。日本で唯一の幸運の船は、そこで最後の時を迎える。
19年越しに再会出来た飛行船が終わってしまう事は、たまらなく寂しい。けれど、思い出だけは、何があっても変わらない。
いつの日か私はきっと、たった4ヶ月間のこの素晴らしい経験達を誰かに語る時が来る。確かに存在した時間を、拙い言葉で綴る時が。その相手が誰なのかはわからないし、何かに影響を与えるような重要な出来事になるとも思わない。けれど、こんな世界もあった事を知ってほしい、忘れないでほしいと純粋に思うから、何かしらの形で伝え続けて行くような気がしている。ちっぽけな私にそんな力があるとも思えないけれど、きっと行動に移すのだろうという事が想像出来る。飛行船に心を動かされ、衝動的に冒険に出た時のように。
変わり行くもの、変わらないもの、それぞれを受け入れる事。
それら全てを大切に、常に優しさと感謝を忘れず、後悔のないように生きて行こう。
私は、そんなふうに考えるようになった。




