ラストフライト
7月29日、土曜日。
空は快晴。岩水海岸公園の係留地では、今年の北海道でのラストフライトに向けて準備が行われている。
私とシュンは8時頃にここで待ち合わせをして、いつものようにいつもの場所で、肩を寄せ合って飛行船を見ている。
まるで明日からも変わらない日々が続いて行きそうな、いつもどおりの穏やかな係留地。けれど、飛行船はこの後離陸したら、今年はもうここには戻らない。
「今年は初めから春琉と一緒に、こうやって最後の離陸を待つ事が出来て嬉しいよ」
そう言ってシュンが微笑んだ。去年の最終日は、私が係留地に到着したのは離陸の直前だった。
「うん。何だか、あの日もついこの前の事みたい」
「1年って、あっという間だよな。またすぐに会えるさ」
「うん、そうだね」
飛行船がまた北海道を去って、来年の春まで会えなくなってしまう事は確かに寂しい。
けれど、今年はちょっと違う。シュンがそばにいてくれるから。これから、一生。
夜勤だった橋立さんは、終業後に一度宿泊先のホテルに戻って荷物をまとめ、他のクルー達と共に再びここにやって来たと言う。とんぼ返りで大変だが、夜勤明けの彼は基本的に仕事はないらしい。さっきシュンが差し入れをした缶コーヒーを飲みながら、トラックの横で他のクルー達の作業を見守っていた。
見送りのお客さん達もたくさん来ている。明らかに、去年よりも多くなった気がする。飛行船を知り、興味を持った人が増えたと言う事なのだろうか。
「飛行船、いつまで飛んでくれるんだろう」
私は独り言のように呟いた。
「去年よりも人、増えたよね。飛行船を知って、好きになる人がこれからも増えてくれたら嬉しいって思うけど、SS号はいつまで飛んでくれるかなぁ」
「うん……ネガティブな事を言いたくはないけど、現実的には何とも言えないよな」
シュンは、少しだけ寂しそうに笑う。
「Smile Skyがこれから先どれだけ飛行船を飛ばし続けてくれるか……もしいつか終わるとしても、またさらに別の企業が飛行船を飛ばそうって思ってくれるかどうか、だよなぁ」
変わらないものもある、と言うシュンの言葉を思い出す。普通に考えて不可能だろうという事は理解していながらも、飛行船がそれに該当するものであって欲しいと願わずにはいられない。
飛行船は、ついにマストから外された。クルー達の手で、ゆっくりゆっくりと、敷地の奥側へと運ばれて行く。私とシュンは顔を見合わせて頷き、立ち上がった。
「ちょっとやっぱり、寂しいよな。この時は」
「うん。1年あっという間、なんて言ったってね……」
素晴らしい経験が出来た2か月間が蘇る。1年ぶりの再会、初めて訪れる町、大切な人達との時間、急な長距離ドライブ決行や予定外の宿泊、新たな出会い……そして、まさかのプロポーズ。全てが、飛行船のお陰で出来た体験だ。
次の町でも、その次の町でも、飛行船を見た誰かが幸せになって欲しい。その連鎖がいつまでも続いて行って欲しい。
飛行船は轟音を響かせながら、真っ青な空へと飛び上がった。
大きく旋回して、低空飛行でこちらへと戻って来る。周囲から、歓声が聞こえる。ゴンドラの左側の窓が開いていて、パイロットが手を振っているのが見えた。
私もシュンも、思い切り手を振った。頭のすぐ上を駆け抜けて行く大きな飛行船。大好きな、大切なSS号。手を振るたびに、青空にチラチラと小さなダイヤモンドの光が輝く。
この世にひとつしかない、素晴らしい思い出をありがとう!
そう心の中で叫ぶと、やっぱり涙が滲んでしまった。
マストの撤収を、橋立さんと一緒に見た。非番である彼は、リラックスした表情でクルー達の作業を見守っている。
「僕にとっても、今年の北海道滞在は生涯忘れられない思い出になりそうです。シュンさん、春琉さん、改めておめでとうございます」
心からの嬉しそうな笑顔。
「橋立さん、ご協力本当にありがとうございました。お陰でプロポーズ大作戦は大成功でした!」
シュンは少し恥ずかしそうに笑いながら、お礼を言う。
橋立さんと連絡先を交換出来た事で、シュンはサプライズの協力依頼をこっそりとしていたらしい。橋立さんは快く受けてくれたとの事だった。このために、彼は元々日勤だったものをわざわざ夜勤にしてもらったのだと言う。
「お2人がお互いの事をどれだけ思っているかを一番知っているのは、この僕だと思っています。僕はどちらのお気持ちも直接聞いていますからね」
仕事の後に1人で係留地へ行って、橋立さんと話をした夜の事を思い出した。あれからもう2か月が経つなんて。
「僕はまた1年間ここから離れますが、時々はお2人の近況を是非お聞かせ下さいね」
「もちろんです! たまに写真でも送りますよ」
元々仲の良い2人が、今回の事をきっかけにさらに仲良くなって行く。内緒で連絡先を交換した、大きないたずら少年達。飛行船が好きな人々は、きっとみんな子供のような心を持っているのだろう。
「何ニヤニヤしてんの?」
シュンが私の顔を見て言った。
「ふふふ……幸せだなぁ、と思って」
「若大将だな」
しばらくの間遠くの空に見えていた飛行船も、会話をしているうちにすっかり姿を消していた。
これで、今年もおしまいだ。
全ての撤収が終わり、クルー達はワゴンやトラックに乗り込んだ。彼らを見送るため、敷地の外にまでたくさんの見学客が並んでいる。天候の関係で、浜風町には寄らずに直接青森に渡るとの事だ。去年もそうだった。やっぱりワクワクの裏には様々な苦労がある。
ワゴンの助手席に乗った橋立さんは、出発前に窓を開けてくれた。
「橋立さん、今年は本当に色々とありがとうございました! 来年は夫婦になって会いに来ますよ」
「えぇ、とても楽しみです! お2人の幸せをいつでも願っていますよ」
シュンと橋立さんは、ガッチリと握手を交わした。
「春琉さん、シュンさんの素敵な奥様になられる事を楽しみにしていますね」
「橋立さん……ふふふっ、とっても嬉しいです。ありがとうございます!」
橋立さんは、私にも大きな手を差し出してくれた。両手でしっかりと、強く強く握り返した。ゴツゴツと逞しい、温かい手。彼はこの手で、今まで何度も飛行船を飛ばして来たのだ。
ワゴンが走り出す。どうぞお元気で、また来年! と言って、橋立さんはゆっくりと係留地を去って行く。私もシュンも、ちぎれそうなほどに手を振った。
「Congratulations to the prince and princess!」
後続のワゴンの助手席の窓から、マシューさんが英語で何かを叫んだ。コングラチュレーションと聞こえた気がするので、きっとおめでとうを言ってくれているのだとわかった。私達は、サンキュー! と答えて手を振る。彼は突然、こちらに向かって何かを放った。
「Thank you for sharing your happiness」
大きな手をひらひらと振りながら、彼のワゴンもゆっくりと敷地を出て行った。
芝生の上に落ちたものを、シュンが拾い上げる。それは見慣れたスカイ君のぬいぐるみだったのだけれど、赤い縞模様の紙に包まれたキャンディーが輪ゴムで2つ括り付けられており、スカイ君の背中に、
『Congratulations on your engagement! Matthew』
と黒い文字で書かれている。
「婚約おめでとう、って事だよね」
「あぁ。粋な演出だね、マシューさん。こういうのめっちゃ嬉しいな」
「うん。さっき何て言ってたんだろう……私、英語勉強しようかなぁ」
スカイ君とキャンディーを見つめながら、2人で笑い合った。
たくさんの人々に見送られて、クルー達は去って行った。
見学客達は、少しずつ帰り始めている。去年、私とシュンは見送りの後もなかなか帰る事が出来ずにいた。何をするわけでもなく、飛行船のいなくなったこの広大な空き地の中で、手持無沙汰にブラブラと歩いていた事を思い出す。お互いに、離れるのが怖くて。
「今年は、何の心配もなく過ごせるから嬉しい」
バラバラとまばらにこの場所を後にしていく人々の後ろ姿を眺めながら、私は言った。
「え?」
「だって、飛行船がいなくなっちゃっても、シュンとさよならしなくてもいいんだもん」
キラキラ光る石のついた手で、シュンの腕をギュッと握る。
「それどころか、一生一緒だからな」
その言葉に、私の全身がシュンで満たされて行く。小さな体だけではこの幸せを受け止め切れなくて、溢れ出してしまう感覚。
私達は他の見学客達に混じって、余裕の足取りで駐車場の方へとゆっくり歩いた。




