ラストフライト前夜
夜の岩水海岸公園に来るのも、今年はこれが最後。駐車場には既にシュンの車が停まっていた。彼に会うのは、ナイトフライトの日以来だ。
青紫の空に包まれる係留地。今日も飛行船はマストにくっついて優しく揺れている。ついさっき札幌の空に浮かんでいたのがこれなのか、と思うとやっぱりちょっと不思議だ。
敷地を入った所に停まっているトラックの陰から、橋立さんが歩いて来た。今日はちょうど夜勤のようだ。
「あっ、春琉さん。こんばんは」
「こんばんは! 橋立さん、なんか少しお久しぶりですね」
平日は離着陸を見られないので、当番の時に当たらなければなかなか彼に会える機会もない。
「今年最後のここでの夜勤でお会い出来て、嬉しいですよ」
「私も嬉しいです! 今日ちょうど橋立さんだったなんて」
「シュンさんもいらしてますよ。いつもの場所でお待ちです」
奥の方に目線を向けると、薄暗い空の下で芝生に座っているシュンの姿が小さく見えた。私が来た事に気づいていたようで、手を振ってくれている。
「えへへ……ちょっと、行ってきますね」
「えぇ、ごゆっくりどうぞ」
トラックからいつもの芝生までの距離が、今日は何だか長く感じた。シュンに早く近づきたくて、力いっぱい足を前に出してずんずん歩く。
「春琉、お疲れ様。火曜日以来だね」
「お疲れ様! なんか久しぶり」
シュンは立ち上がって、私を優しく抱いてくれた。シュンの匂い、かちゃかちゃ鳴るネックレス。愛おしさが一気に込み上げる。
「元気だったかい?」
「うん。元気だよ」
「調子戻った感じだね、よかった!」
嬉しそうに笑ってくれるシュンの顔を見て、私も嬉しくなる。
今年最後の夜の飛行船を眺めながら、シュンとおしゃべりをする。
徐々に暗くなっていく空の下で、私達はこの2ヶ月間の思い出話に花を咲かせた。もうそんな段階であると言う事に驚きながら。ついこの前、浜風町にお迎えに行ったばかりだと思っていたのに。
「そういえば、一昨日は葵さんと一緒にここに来たんだよ」
「へぇ! 仕事の後?」
「うん。葵さんが飛行船見に行きたいなぁって言ったんだけど、あれは多分、私のために言ったんだと思う」
そう言うと、シュンは不思議そうな表情をした。私は少し俯く。
「私ね、葵さんが辞めちゃうのがすごく寂しいって、つい本音を言って泣いちゃったんだ。そうしたら葵さんが、飛行船見に行こうって言ってくれて」
「そうか……そんで、2人でここに来たの?」
「うん。飛行船見ながら、葵さんが、結婚と退職を決めるに至るまでの経緯を教えてくれて……」
シュンは私を優しく見つめて、真剣に話を聞いてくれているようだった。私はなんて幸せなんだろう、と思う。
「退職は、葵さんが自分の人生の事をしっかり考えて出した答えだって知ったから、私もそれを応援しようって思えたよ」
「そうかぁ、偉いな春琉。しっかり受け止められたんだな」
私の言葉を聞くと、彼は安堵したような笑顔を見せる。
「だから、私ももう元気。シュン、心配かけてごめんね」
「ううん、誰だってそうなるさ。よく受け入れたね、偉いよ!」
ワシャワシャと頭を撫でられて、私は嬉しくて笑った。やっぱり自分、犬みたいだなぁ……と思いながら。
「元気になってくれた春琉に、ちょっとしたプレゼントがあるんだ」
急にシュンがそう言った。
「え? プレゼント?」
「うん。へへへ、気に入ってもらえるかな」
プレゼントがある、と言う割には、彼は手ぶらだ。それらしきものを持っているような様子は特にない。
「俺はさ、めっちゃ不器用な人間だから、気の利いた事はなんにも出来ないから……」
シュンは頭を摩っている。気の利いた事……?
不思議に思っていると、シュンは突然私の手を掴んで、どこから用意したのか、何かを手のひらに乗せた。だいぶ薄暗くなって来ていてよく見えないけれど、小さな箱みたいなもの……? 彼はそれごと、私の手を上下からサンドするように大きな手で力強く握る。いつもの、少年のような純粋な瞳がまっすぐに私を見つめた。
「春琉、俺と結婚して下さい」
すごい勢いで思考を追い越して、熱い雫が、次から次へと零れ落ちて行く。
「え……シュン……何? え、嘘……」
自分でも何を言っているのかわからない。シュンは、私の手の上の箱らしきものの蓋を開く。薄暗くてもわかる。飛行船の淡い明かりに照らされて、小さな石の光る指輪がそこに見えた。
ガッチリと、シュンを抱きしめた。彼の胸と私の胸の間でネックレスが挟まれて、ちゃりっ、と軽快な音が響く。
「本当なの? 信じられない……すごく、すごく嬉しい」
「ほ、ホント? 春琉……俺と、けっ……結婚してくれるの?」
この場所で告白してくれた時を思い出すような、ちょっと情けない声になっている。彼の顔をしっかりと見たくて、拳でぐいっと涙を拭った。
「うん……ありがとう。本当にありがとうシュン。大好きだよ!」
私から、彼にキスをした。シュンの目から一気に涙が溢れ出す。
「あははは! シュン、泣いてる」
「春琉もじゃん!」
私達はお互いの涙を手で拭い合った。笑いながら、泣きながら。
「春琉! ありがとーーーー!!!」
シュンは突然立ち上がって、飛行船の方に向かって大声でそう叫んだ。これは完全に橋立さんに聞こえていると思う……! さすがに私はちょっと焦ってしまった。
「シュ~ン、春琉ちゃ~ん、おめでとおーーー!! 」
トラックの方から、まるで応えるかのように叫び声が聞こえた。荷台から3人の人影が降りて来るのが見える。
「な、何……!?」
私はびっくりしてしまい、思わずシュンの後ろに立つ。
拍手と歓声、おもちゃのでんでん太鼓や笛みたいなものの音を賑やかに響かせながらこちらへと走って来たのは、橋立さんと、マシューさんと、そして秀司君だった。
「へへへ。サプライズだ!」
シュンが私を見て、泣き顔のままで笑う。どうやらさっきの大声は合図だったらしい。
「シュン、泣いてらぁ! よかったなぁっ」
秀司君はシュンをガシッと抱きしめた。秀司ありがとう、と言って、シュンはさらに泣き顔になってしまう。
「春琉ちゃんもおめでとう! ありがとうね!!」
「秀司君、クルーさんと一緒に隠れてたのぉ?」
「そうだよ! びっくりさせたくてね!」
秀司君の隣で、橋立さんがおもちゃのでんでん太鼓を持っている。あまりにも普段とのギャップがあり過ぎて私は思わず笑いそうになったけれど、すぐにその感情は引っ込んだ。橋立さんは、泣いていた。シュンも私と同時くらいに気がついたようだった。
「は、橋立さん……」
「お2人を見ていたら、もらい泣きしちゃいましたよ。本当に嬉しくて」
「はしだてさぁ~ん……!」
シュンは橋立さんにも抱きついた。その拍子に、でんでん太鼓がデンっと鳴って、さすがに私は吹き出してしまった。
「シュンさん、春琉さん、本当によかったですね!」
橋立さんは私にも微笑みかけてくれてから、シュンをガッチリとハグする。お兄ちゃんに抱かれる弟。2人を見ていたら、さらに涙が込み上げた。
「Congratulations on your engagement」
マシューさんはおもちゃの小さなラッパらしきものを持たされている。聞こえてきたワード的に多分、おめでとうと言うような内容の事を言ってくれたのかな、と思った。彼はラッパをポケットにしまい込んで、私に優しく微笑みかけた。
「わ!」
突然、体がふわりと宙に浮き上がる。マシューさんは私を軽々と抱き上げた。これは、お姫様抱っこというやつでは……!
「A lovely princess,wish you two everlasting happiness」
何と言ったのかはわからないけれど、私を抱いたままで彼はくるりと回った。
「すっ、すごぉいっ! 重くないんですかっ!? へ、ヘビー? ヘビーじゃない??」
「light! カルイ」
「えぇぇ、すごい!」
マシューさんは涼しい顔で、私を抱いてくれている。とても高い! 彼は多分、身長が2メートル近くある。
「ま、マシューさんっ! マイワイフ! マイワイフ!!」
下の方で、シュンがジャンプしながら慌てている。Oh~ソーリーソーリー! とマシューさんが言って、みんなが笑い出した。
マシューさんが私を下ろしてくれると、俺だって出来るぞ! と、今度はシュンがお姫様抱っこをしてくれた。
「えぇっ、シュンもすごい! 重くない?」
「ライト! 軽い!」
また、みんなが笑った。
マシューさんほどではないにしろ、シュンも身長が高くてガッチリしている。安定感はマシューさんと変わらない。
「すごぉい……嬉しい」
シュンにギュッと抱きつくと、秀司君がスマホで写真を撮ってくれた。
ひとしきりお祭り騒ぎをしたのち、3人の男性達は、私達を気遣いトラックの方へと戻って行った。
さっきの箱を貸して、とシュンが私に言う。
「ムードもなんもないかなぁ。でも、こんなシチュエーションは他じゃ絶対にないから」
箱から取り出した指輪を、シュンは私の左手薬指にはめてくれた。飛行船の淡く白い光に照らされて、小さな丸い石がキラキラと輝く。
大好きな飛行船の前で、大好きな人から、婚約指輪を渡されるなんて。予想外の、想像以上のプロポーズ。こんなの、他では絶対にあるわけがない。私は指輪をはめた左手を前に出す。ダイヤモンドの光の向こう側で、風に揺れるSS号。
「すごくキレイ……これ、いつの間に?」
「実はね、昨日の夜、これを受け取りに行ってたんだ」
「え? 昨日って、仕事で遅くなるから来れないって……」
「うん。本当は仕事じゃなくてこれだったんだ。移動フライトまでに何とか間に合って良かったよ」
いつものいたずら少年の顔をして、ニヤッと笑っている。
「付き合って1年も経ってないけど、春琉を他の誰かに奪われる前に心を決めようと思った。断られたら断られたでもいいから、俺の強い決心を春琉に伝えたいと思ったんだよ」
「そんな……私、シュン以外の人に奪われるなんて絶対ないよ」
「人生、何が起こるかわからないからさ」
つい先日と同じセリフを言う。
「でも俺の気持ちは、何が起こっても、例え死んでも絶対に変わらないよ。俺は生涯をかけて春琉を守り続けるよ」
強い強い意思。純粋でまっすぐな瞳にとらわれて、私はまた涙が滲んでしまう。
「シュン、人生のパートナーがこんな私で本当にいいの? こんな頼りない私……」
「春琉でいい、んじゃない。春琉じゃなきゃダメなんだよ」
少年のような優しい目が、私を離さない。
「頼りない所は、俺がカバーする。春琉も、俺の不器用な所をカバーして。お互いの足りない所を補い合って、一緒に生きて行こう」
「……ありがとう。本当にありがとうシュン……どうぞ、よろしくお願いします」
泣きながら、私はシュンに向かって頭を下げた。深く、長く。
顔を上げると、シュンはまたボロボロに涙を流していた。




