ある秋の日の出来事
シュンとは、あれから毎週土曜日になると係留地で会うようになっていた。
週の半ばくらいになると、彼の方から「次の週末は暇ですか」と、SNSを通じてメッセージが来る。私はその度に歓喜していたが、こんなにも彼が私と会ってくれる事には、少し疑問を抱いていたのも事実だった。
飛行船がいなくても、私と話をしたいと言って会ってくれる事。
彼は私を、どう思っているんだろう……。
係留地へ行って、いつも飛行船を一緒に眺めていたあの場所で待っていてくれるシュンの姿を見る度に、私はいつもドキドキし、心が躍った。
週1ペースで会うようになって、約1か月ほどが経った。
連絡ももうSNSではなんだからと、メッセージアプリでお互いの連絡先を交換していた。
10月に入って2週目の土曜日。まだ最高気温は15℃以上をキープしているが、段々と秋らしくなってきた気がする。木々は少しずつ紅葉し始めていた。
いつもの場所に座って、いつものように他愛もない話をする。こんなに毎週会って、飛行船の話も尽きそうなものだけれど、不思議とそうでもない。そして、飛行船とは全然関係ないような話でも、彼とだったら私にはとても楽しいと感じる。お互いの仕事や学校の話なんかも、気軽に出来るような仲になっていた。
こんな日が、一体いつまで続いてくれるのだろう。出来るならずっとずっとこのまま、毎週末、彼に会えたら……。
ふっと会話が途切れた時、シュンはいつもの優しい声で、はるさん、と私を呼んだ。
「ちょっと、聞いて欲しい話があるんですが……いいですか」
隣に座る彼は、こちらに顔を向けてまっすぐに私の目を見た。
「はい。何ですか?」
それまで穏やかだった雰囲気が、何となくピリッと締まったような気がした。シュンは一度深呼吸をしたようだった。ふぅっ、と息を吐く音が聞こえる。
私は、もう会うのはやめようと言われるのでは、と思った。こんな日々をだらだらと続けていても仕方ない、と。どこかで流れを断ち切らなければ、一生このまま続いていく事になる。私は、覚悟した。
「もし驚かせてしまったらごめんなさい。と言っても、もしかしたら、もう気が付いているかもしれないけれど」
彼はそう言って、また一呼吸置いた。どんな言葉も受け入れよう。そう心に決めた。
「……僕は、はるさんの事が好きです」
「……え」
音が外まで聞こえるんじゃないかと思うくらいに、ドクンと鼓動が跳ね上がった。それは、どこか知らない国の知らない言葉みたいだった。純粋でまっすぐな瞳にとらわれ、動く事が出来ない。
「飛行船が好きな事が僕らを繋いでる理由だったから、その飛行船がいなくなってしまって、会えなくなって……その時に、はるさんへの気持ちに気づきました」
よく見ると、彼は汗をかいているようだった。耳の横を伝う小さな雫。
「すみません、急にこんな話をして……でも、本当の事です」
次々と聞こえてくる彼の言葉はまるで聞き慣れない言語のようで、私を置き去りにして宙を舞う。胡坐をかいた足の上で組んでいる手が、小刻みに震えているように見えた。黒いジャンパーのフードに、一粒の汗がポタリと落ちる。彼の鼓動も、音がこちらまで聞こえてくるような気がした。
「もしも今、お付き合いをされている方がいなくて、こんな僕でも良かったら……あっ」
私はシュンの震える手に、自分の手を重ねていた。ゴツゴツした骨の感触。
「……私も、シュンさんの事が好きでした」
今までずっと知らないふりをして来た。葵さんの言葉で初めて気づいた、彼への思い。相手から言われて、それから認めるなんて卑怯かもしれないと自分でも思ったけれど、未熟で不器用な私にはこうするしか出来なかった。
「はっ、はるさん……ま、マジですか……ホントに? ホントに僕の事……?」
少し前までとは打って変わって一気に情けない口調になっていて、私は思わず吹き出してしまった。
「ホントです……っていうか、シュンさんだって。本当に、私の事そんなふうに思ってくれてたんですか?」
「ホントですよ! ずっと好きでした!」
そう言って、今度はシュンが私の手をがっちりと握り返してくれた。大きくて逞しい、男の人の手。
「私なんて、頼りないし、何もいいとこないのに……?」
「僕にとってはるさんは、いい所しかありません。気づくのが遅くなっちゃったけど、僕は多分……いや、絶対に、出会った時からはるさんの事がずっと好きでした」
今度は、揺るぎない確かな意思を感じる口調。私の気持ちを確認するかのように彼は一旦間を置いてから、ゆっくりと、優しく、私の体を包み込んでくれた。彼の鼓動と体温が伝わる。現実ではなく、夢の中にいるようだと思った。
「シュンさん……ありがとう、すごく、すごく嬉しいです」
「え? はるさん……?」
「あはは……嬉しかったから」
思わず、涙が溢れ出してしまった。シュンは私が泣いている事に気づくと、少しだけ躊躇いがちに涙を指で拭ってくれた。その優しさに、さらに涙が滲んでしまう。
シュンは微笑みながら私の涙を拭い続けていたけれど、彼もまた、突然ボロボロッと涙を流した。私はびっくりしてしまう。
「ど、どうしたんですか……!?」
「すみません、はるさんが泣いてくれた事が嬉しくて……勝手に出てきちゃうんです。まいったな、カッコ悪りぃや」
ぐいっと拳で涙を拭って、泣き笑いの表情をする。胸の中に広がる、経験した事のない感情。これが、愛しさと言うのだろうか。彼のそんな姿を見て、私も泣きながら笑った。
「はるさん。改めて、お返事を聞かせてもらってもいいですか。もしよかったら、僕とお付き合いして頂けませんか」
「はい……もちろんです。私からも是非お願いします」
私の返事を聞いたシュンは、まだ涙の残る目を細めて、最高の笑顔を見せた。それまでに見て来たどんな笑顔よりも幸せそうで、世界中の“嬉しい”を全てここに集めたかのような表情をしていた。この時の彼の顔は忘れられない。
「……あぁ、なんか、照れくさいですね」
その後彼はまた私の隣に座り直して、わしゃわしゃと頭を掻いた。
「不思議な気持ちです……こっ、恋人、というやつなんですよね?」
我ながら間抜けな台詞を発してしまったと思ったけれど、もう遅い。
「へへへ、そうですね。ん、なんか、変じゃないですか?」
シュンは突然そんな事を言い出した。
「何がですか?」
「恋人なのに、いまだに敬語でしゃべっているのは何かおかしいような気が」
「あ、確かに……」
考えもしていなかった。こんな状況に慣れていない私に思いつくような事ではなく、言われなかったらきっと一生敬語で彼と話していたと思う。
「じゃあ、思い切って敬語はやめにしましょう! ……って、敬語で言ってしまったけど」
おかしくて、私はアハハっと笑った。
「敬語、やめよう! はるさんも、気軽に話してね!」
彼の言い方が何だかぎこちなくて、私はさらに笑ってしまった。
「そんなに面白い?」
「面白いです……じゃなくて、面白いよ」
自分の話し方もとてもぎこちない。何なら、彼よりも何百倍も。
「あと、呼び方も“さん”付けじゃなくていいような」
呼び方。恋人になると、そんな所も変える必要が出てくるんだ。
「はるさんの事、これからなんて呼んだらいいかな?」
「普通に、はる、でいいですよ……じゃなかった、いいよ」
ハハハッと、今度は彼の方が笑った。
「はる」
「はい」
「はる」
「はいっ」
「へへへっ! なんか、いいね」
シュンはとても嬉しそうに笑う。彼から「はる」と呼ばれるのは何だか恥ずかしくて、胸の中がむず痒くなった。
「僕の事も、シュンって呼んでもらえたら」
「しゅっ、シュンって?! 恥ずかしい……」
私は一気に頬が紅潮するのを感じた。人を、それも男性を呼び捨てにした事なんて、人生の中で多分一度もない。
「ははは! 恥ずかしがってる所もかわいい」
かわいい、なんて言われて、何とも言えない感情が湧き上がる。そんな言葉をかけられたのは子供の頃以来ではないだろうか。背筋がくすぐったいような、変な感覚。
「少しずつ慣れて行ってくれればいいよ。気軽に呼んでね、はる」
「わ、わかったよ……シュン。ううううううーーーん!」
私は両手で顔を覆った。やっぱり恥ずかし過ぎる……! 呼び捨てにする事に慣れるなんて、一体いつになるんだろう。
そんな私の様子を見て、シュンはまたおかしそうに笑い出した。