都会の空を見上げると
その翌日も、シュンは仕事で係留地に来る事が出来なかった。
私は1人、夜の闇の中でふわふわと浮かぶ飛行船を見つめる。シュンもいない、葵さんもいない静かな係留地が、何となく寂しいと感じた。
その日の日中、シュンからメッセージが届いていた。
『移動フライトの予定が土曜日に変更になるって橋立さんから連絡が来てたよ。明日の夜は俺も必ず係留地に行くね!』
土曜日なら、お見送りに行ける。一日早まってしまった事は少し寂しいけれど、私はホッとした。
今から4年前に運航が始まったと言うSS号。飛行船は宣伝という目的を持って飛ばされているけれど、私は、宣伝よりももっと大切なものが詰め込まれているのだと思っている。
今現在の日本に存在する飛行船は、このたった一機だけだと言う。昔は日本にも飛行船会社が存在し、企業やイベントの宣伝のためによく飛ばされていたらしい。SS号の機体は、アメリカにある飛行船会社から船で運んで来て飛ばしているのだと、シュンが言っていた。
浮力であるヘリウムの調達、係留場所の確保、人件費。コストのかかる飛行船を使わずとも、もっと効率の良い宣伝方法がいくらでもある今の世の中。現実的な話、いつ姿を消してしまってもおかしくはないのだと思う。
変わらないものはない世界。一体いつまで、このワクワクが続いてくれるのだろう。
いずれ、シュンも私の元から離れて行ってしまう日が来るのだろうか……。そんな事まで考えてしまう自分がいた。シュンがどれだけ絶対に変わらないと言っても、人生は何が起こるかわからない。それはまさに彼自身が言っていた事でもある。
いつ来るかもわからない見えない恐怖に怯えながら生きて行くのは、さすがに少し極端なのかもしれない。けれど、これまでの“当たり前”がひとつ消え行く未来が目前に迫っている今、私はどうしても、悪い事を考えずにいられなくなってしまっていた。
7月28日、金曜日。移動フライトの前日。
仕事で札幌市内のルートを回っていた私は、ビルの隙間の空に飛行船を見つけた。街中にある会社さんでの販売を終えて外に出て来た時、ふと見上げると、SS号がそこにいた。
仕事中に飛行船を見たのは、去年の5月、私が初めてSS号を見た時以来の事だった。私は水曜日と金曜日に札幌の中心地を販売で回っているが、飛行地域が違ったり、悪天候でフライトが中止になっていたりとタイミングがなかなか合わず、仕事中にその姿を見る事はないままでいた。
去年の5月と同じように、軽くなった番重を片脇に抱えて、歩道に突っ立って上を見る。少しだけ薄雲の幕がかかったような白っぽい青空に、飛行船はふわふわと気持ちよさそうに浮かんでいた。移動前日になって、仕事中に飛行船が見られるとはラッキーだ。
SS号を初めて見つけた時、真っ先に思い浮かんだのが父の顔だった。
大きくなったら、一緒に飛行船を見に行こうね。
実家の前で初めて飛行船を見た小1の日にそう言葉を交わしたけれど、その後飛行船を見る事はないまま、父は今から4年前に病死してしまった。ちょうど、SS号の運航が始まったのと同時期くらいの事だと思う。
願っていれば、いつか必ずまた会える。
父のその言葉のとおりに、何年かかっても私は、また飛行船に会う事が出来た。
けれど、この事を一番伝えたい人が、その時には既にいなかった。
もどかしさ、苦しさ、悔しさ。心の奥で渦巻くマイナスの感情に何度も精神をかき乱されてしまいそうになったけれど、耐えた。飛行船を前に、悲しい顔はしたくなかった。長い時を経てようやく叶ったその再会は、彼との約束そのものだったのだから。
変わらないものはない――
思えば、それを初めて強く実感したのは、その時だったのかもしれない。
夜の詰め所で私は、販売先で飛行船を見た事を真っ先に葵さんに伝えた。去年の5月に初めてSS号を見た日も、こんなふうにちょっと興奮気味に彼女に話したっけなぁと懐かしく思い出しながら。
「ははは! あんた超ラッキーガールなはずなのに、なんでそこだけそんなに運がないのよ。私でさえ何回か見てるってのにさ」
「私も同じ事思うよ……何かと相性が悪くて」
私は右手で不器用にペン回しをしながら苦笑した。
仕事中にSS号を見たのが、それこそまさに去年の初めて見た時以来だなんて、普段の私の飛行船ファンっぷりを見ていれば信じられないのも当然だ。
葵さんの向こう側の席で、遠藤君が今日の売上金の計算をしている。彼は順調に仕事を覚えてくれているようで、実際にお客様の対応にも少しずつ入っているとの事だった。
彼が接客に慣れて、今販売に回っている全曜日の全ルートの場所を把握する近い未来に、葵さんは9年間の販売員としての役目を終えるんだ。
そう言う事を考えると、どうしても寂しくなってしまう。
「明日で今年の飛行船は終わりかぁ。今年は私も楽しませてもらったわ。春琉、色々ありがとね」
葵さんは頬杖をつきながら私に言った。彼女は今、何もしていない。全てを遠藤君がやっている。そんな状況にも、少しだけ寂しさを感じてしまう。
「こちらこそありがとうだよ。今年は葵さんと一緒に飛行船見れて、ホント嬉しかった」
「来年も連れてってよ。来年だけと言わず、これからも飛行船が飛んでる限りいつでも」
「えっ、また一緒に見に行ってくれるならすごく嬉しい! 絶対行こうね」
漠然とした約束かもしれないけれど、私はきっと忘れないだろう。
「僕もその飛行船見た事ありますよ」
と、遠藤君が言う。
「ホント?」
「はい、僕中央区に住んでるんでよく見かけますよ。大通公園とか、円山の方とかよく飛んでますよね」
「春琉がね、めっちゃ飛行船オタクなのよ」
葵さんは楽しそうに言う。オタクって……。いや、そのとおりなのだけれど。
「飛行船ってね、見るとラッキーになれるのよ。私、彼氏からプロポーズされたの飛行船見に行った次の日だし」
「へぇっ」
「春琉だって、飛行船がきっかけで素敵な彼氏が出来たんだよ。マジで幸運の船よ」
「えっ! 藤森さん、彼氏いるんですか」
遠藤君は何故かそこに食いついてくる。きっとそんなイメージはなかったのだろう。
「う、うん……実は」
「ただよってぃーも飛行船見に行ったら彼女出来るかもよ〜」
「はははは! そうだといいんですけどねぇ」
ただよってぃーって何……? と思ったら、遠藤君に不思議なあだ名を付けたらしい。下の名前は確か“ただよし”君と言っていたはずだ。3日目でそこまで親密になっていると言う事には特に疑問はないけれど、よく思いつくなぁ……と思う。
「今年はラストの日も土曜日でよかったじゃん。係長に販売お願いしなくても良さそうだね」
葵さんはニヤッと笑う。
「うん。去年は本当にありがとう葵さん。今年は大丈夫そうだよ」
「今日も行くの? この後」
「うん。今日はシュンも来るし」
「そう、いいね! 今年最後の、夜の飛行船デートだね。楽しんでおいで」
飛行船デート、なんて言われるとちょっと照れくさい。遠藤君も聞いているので。意外と彼は真剣に売上金の計算に集中している様子だった。
「春琉、ちゃんとご飯食べてる?」
「あはは! はい、食べてます」
「ならば良し。倒れんじゃないよ」
葵さんは笑顔で私の背中を軽く叩いた。




