葵さんの出した答え
いつもの芝生の上で私の隣に座っているのは、シュンではなく葵さん。彼女がここに来るのは2回目だ。
薄暗くなりかけている係留地。飛行船は淡い光を放ち始めている。
「シュン君は今日は来ないの?」
「うん。今日は確実に遅くなるから行けないって、連絡来てた」
「そっか、それなら良かった。もしデートだったら邪魔するわけにはいかないからね」
SS号は風に揺らされ、少しだけ船尾が上がってしまっている。今日は強風でフライトは中止だったようだ。
葵さんが飛行船を見たいと言ったのは、自分の意思もあるかもしれないけれど、多分私のため。その気持ちを私は、彼女のために全力で受け止めようと思った。今日に限っては、本当に今日に限ってだけは、シュンが来られなくてちょうど良かったと思う。
「5月に、春琉と一緒にここに飛行船見に来たじゃん。あの次の日にね、たいちゃんからプロポーズされたんだ」
「えっ! あの次の日に?」
初めて聞いた話だった。
「ずっと言ってなくてごめんね。色々とさ、大人の事情があったもんだから」
照れくさそうな葵さんの笑顔が、とてもかわいらしく新鮮だと思った。
「たいちゃんってラビット辞めてから、トラックの運転手になったって話は知ってたよね」
「うん、知ってる」
「色んな所を24時間いつでも走り回ってるから、普段なかなか会えるタイミングもなくてね。収入的には十分だったりするし、もし私がいいんだったら、結婚したら家庭に入って欲しいなぁ、なんて言うんだよ、アイツが」
結婚したら家庭に入って欲しい……頭の中で繰り返される。時々どこかで聞くような、ありふれた言葉のはずなのに、違和感しかない。
「笑っちゃうっしょ、私が専業主婦とか」
「あはは、すごく良い意味として言うけど、葵さんには何だか似合わないよね」
全然、似合わない。彼女には程遠い世界の言葉。
「たいちゃんのとこって、母子家庭でさ。兄弟もいないから、子供の頃は寂しかったみたい。自分がもしいつか子供を持つような事があったら、絶対に同じような思いをさせたくない、っていつも言っててね」
飛行船を見つめながら微笑む葵さんの横顔が、とても優しい。
「……私とおんなじ。ひとりっ子で、お母さんだけって」
「うん、実は春琉と同じなんだ」
私の場合は、幼少期には父もいたけれど。今、私の家族は、地元に1人で暮らすお母さんだけ。
「たいちゃん、子供が大好きでさ。自分の子が欲しい、って言ってる。そしてさっきの話もあって、もしも子供が生まれたら、小さいうちだけでも葵がそばについて過ごしてあげてくれたら嬉しいなって言うんだ。自分はそうしたくても出来ないから、って。……へへへ、こんな話、春琉にしかしないけどね」
彼女には到底、似合わない話だと言うのが率直な感想。けれど、今葵さんが話していた内容の全てを、是非形にしてもらいたいと言う思いもある。自分の気持ちが、よくわからない。
「長年私もバリバリ仕事して来て、それが当たり前だし生き甲斐だって事もたいちゃんはわかっててさ。一緒に働いてた事もあるわけだしね。だから、今までどおりにラビットを続けてくれても全然構わない、って彼は言うんだ」
「そうなの?」
じゃあ、そうすればいいのに。そうしてよ。と、心の中で叫んでいる自分がいる。
「ただ、さっき言ってた事が、俺の考えなんだ、って。葵にもしっかりと考えて答えを出してほしいって、仕事続けるも辞めるもどちらでも構わないから、って。そうしてさ、ガラにもなく悩んで悩んで、たいちゃんともいっぱい話して、しっかりと考えて考えて……仕事辞める、って答えを出したんだ」
葵さんの言葉を聞いて、私はどうしたらいいのかわからなくなってしまう。どういう感情を抱くのが正解なのかがわからない。
「……葵さんは、子供欲しいの?」
挙句に出た言葉が、それだった。流れとして正しいのかも私には全然わからない。
「意外、って思うかもしれないけど、意外と欲しいよ」
いつもの顔で、ニヤリと笑う。
「子供出来たら産休取って、生まれてからまた働けばいいじゃん、って思うかもしれないし私自身もそう思ったんだけどさ」
そうだよ、そうしてよ。とまた叫んでいるもう1人の自分を抑え込んで、葵さんの次の言葉を待つ。
「ハタチでラビット入って、9年間働いて、所長にまでならせてもらって。自由気ままに楽しくやって来て、若いうちにやりたい事いっぱい出来たなぁって思うのよ、最近。今までは自分のために生きて来たけどさ、30手前になって、これからは誰かのために生きてみようかな、って思ったんだ」
葵さんの笑顔を見ていたら、どうにもならないと思ってしまった。この段階になってもまだどうにか出来ると心のどこかで思っていたのか、悪あがきをしようとしていたのか。けれど、私のどんな力を持ってしても、彼女の真摯な考えに意見を出来る余地も資格もない、と思ってしまった。
「そのためにはね、春琉の力も必要だから」
「え?」
「春琉が悲しい顔してたら私、幸せになれないもん。どんなにたいちゃんと一緒でもね」
私は、力なく笑う。
「そうだよね……はぁ、ダメだな私。なんか子供みたい。葵さんいなくなっちゃうの嫌だ、なんてさ」
体育座りの膝の上に組んでいた両手を離して、ペチペチと頬を軽く叩いた。葵さんは私を見て、アハハッと笑っている。
「それにしても飛行船ってすごいね、ホントに。幸運をもたらす船、だっけ」
もう一度SS号に視線を移して、葵さんが言う。
「夢のない現実的な話をすればさ、こんなのたまたまなんだろうけど。でも私は、プロポーズは飛行船を見に行ったお陰だって割と本気で思ってるよ」
「そう感じずにはいられないよ。だって、見に行った翌日っていうのがすごいもん」
「うん。だからさ、飛行船のお陰である以前に、春琉のお陰なんだよ。春琉がいなかったら私、飛行船見に行ってないから。本当にありがとう!」
そう言って葵さんは、いつもみたいに私の肩に手を回してくる。葵さんの体と手の温もりを感じた時、つい涙がぶわっと溢れてしまった。今の私は、こんな事をされただけでもアウトだ。
「えっ何で!?」
「もうさぁ……葵さんに今、そういうのされるとダメなんだよぉ、私」
苦笑しながら、両手の甲で涙を拭う。
「はははっ! 春琉はほんっと涙腺ゆるゆるだなぁ」
「だってさぁ……」
彼女は楽しそうに笑っている。もう、このままずっと私のそばにいてくれたらいいのに……と思った。
その時、急に私のお腹がきゅるきゅると鳴り出した。あまりにもタイミングがおかし過ぎる……。
「はっは! お腹空いた?」
「そ、そう……なのかも」
頬を掻く私の隣で、葵さんはさらにおかしそうな笑い声をあげた。けれど、すぐに表情を落ち着けて、少し心配そうに私の顔を覗き込む。
「春琉、あんた本当にちゃんとご飯食べてないんじゃない?」
「あぁ……うん、なんか、最近あんまり食欲がなく」
親に叱られる子供みたいな気持ちになり、私はボソボソと答えた。
「あの、でも、それは葵さんのせいとかそんなんじゃないから、ホントにそれは絶対になくて」
「ん……そっか。大丈夫だよ春琉、わかってる。ちゃんとわかってるから。ありがとう」
この話の流れで、ありがとう、なんて言える優しさ。私はむしろ、ちょっと調子を狂わされてしまう。
最近の私の状況の原因は、私自身の弱さ。でも、さらにその裏側にあるのは、葵さんの退職話である事は事実。私がどんなにごまかしたって、葵さんは絶対に私を責めない。彼女は、私の気持ちを何よりも理解してくれている。
「葵さん……私、葵さんがしっかり考えて出した答えを応援するね」
「え? 今まで、応援してくれてなかったの?」
葵さんはいたずらっぽく笑う。
「そ、そんな事はないんだけど……。あの、葵さんが悲しむような顔はもうしないから、安心してたいすけさんと結婚して欲しい」
しっかりと葵さんの顔を見て言った。涙でちょっとぐしゃぐしゃしていたと思うけれど、まっすぐに気持ちを伝えたいと思った。
「だから、あの……ラビット辞めちゃっても、これから先もずっと私と親友でいて下さい」
こんな事を面と向かって言うなんて恥ずかしいけれど、これも、どうしても言いたかった事。
「はは! 当ったり前じゃん! 一生親友でしょ、うちら」
葵さんは力いっぱい笑っていた。
「春琉、ありがとね。私の出した答えを応援してくれるって事も、今の言葉も、めっちゃ嬉しいよ。これからもずっとよろしく!」
「うん……こっちこそ! ずっとずっとよろしく」
嬉しくて、今度は私から葵さんにギュッとくっついた。ヨシヨシ、と笑って私を受け入れてくれる優しさに、また涙が出そうになってしまう。滲んだ視界の端で揺れる飛行船が、私達を温かく見守ってくれているかのように感じた。
「……ん、どした? 大丈夫?」
「はぁ……なんか、力が……」
急激に脱力感に襲われて、私はそのまま葵さんにぐったりと寄りかかってしまった。実際の所、私の体はフラフラになっていた。暑い夏に、栄養補給も出来ていないまま力仕事で一日走り回っていたと考えると、普通に危険だ。
「あんたそんなんでよく今日販売行ってたね……死ぬよ」
「あはは……そうだね」
そうだ、と葵さんは大きな声を出した。
「春琉、ご飯食べに行こうよ。私が奢る!」
「え?」
「私もお腹空いたし。何でもいいよ、春琉が元気になれるご飯を食べに行こう! よーし、所長に任せな!」
「えっ、あっ……?」
答える前に、葵さんは満面の笑みで私の手を引っ張って立ち上がった。
強引だなぁ……と思うけれど、それ以上に優しい。フラフラな私の手をしっかりと掴んだままで、張り切って、でもゆっくりと歩いてくれる。頼もしい背中を見つめながら、私は葵さんについて行った。




