本音
今日も、朝の倉庫で葵さんに会う事は出来なかった。
販売員は朝出勤すると、商品保管倉庫内で自分の発注したパンを番重に並べる作業を行う。販売員により、曜日により、その日ごとのルートの都合により出勤時間にはばらつきがあるので、朝必ず会えるとは限らない。
葵さんの退職を知ってからというもの、私は朝彼女に会えないとどうしても不安になり、そわそわと一日を過ごすようになってしまっていた。別に、今すぐにいなくなるというわけでもないのに。
その日、販売を終えて詰め所に戻ると、葵さんの隣に見た事のない若い男性が座っていた。葵さんお疲れ様と声をかけて、男性と反対側の隣の席に座る。
「お疲れ春琉! 彼、今日から入った新しい新人さん」
新しい新人さん、って……。重複している。私は少しニヤけてしまった。葵さんにツッコミを入れる前に、男性が立ち上がった。
「初めまして。遠藤唯義と申します」
メガネをかけていて、優等生という言葉が似合いそうなイメージの、若いお兄さんだ。
「藤森春琉と申します。よろしくお願いします」
私もお辞儀をした。
「遠藤君、今日一日私に同行してたんだよ。しばらく一緒に販売行って、いずれは私のルートを彼に引き継ぐ予定なのさ」
「あっ、そうなんだ……」
ルートの引き継ぎの準備が始まると、この前言っていた事を思い出す。
もう、今日から始まってるんだ……。
「遠藤君。この春琉って子もさ、私の教え子なんだよ」
「そうなんですか」
「教え子って言っても、友達みたいなもんさ。ってか友達よ、もうね親友よ。ここで一番の仲良し販売員さんなんだ。ね、春琉」
ニッコリ微笑む葵さんに、私も照れ笑いをして頷く。何の気なしに言った事かもしれないけれど、親友、一番の仲良し、なんて紹介してもらえて素直に嬉しい。私、葵さんの親友になれていたんだ……。
「だからさ、私がいなくなっても、この子をよろしくお願いしたいんだわ。寂しくて泣いちゃうかもしれないから」
葵さんはニヤニヤしながら私の肩に手を回して来る。
「あはは、泣きはしないよ」
……とは言ったけれど、正直、自信はない。
「へぇ、石黒さんの親友さんなんですか。了解です、僕に任せて下さい!」
遠藤さんは、明るく言って親指を立てている。
普通、出社初日の新人さんと言うと一日を通して緊張しているイメージだけれど、葵さんが育成担当についた販売員さんは、詰め所に戻って来ると大体みんなこんな調子だ。私はこれを、葵マジックと呼んでいる、勝手に。
山上係長が詰め所に下りて来て、遠藤さんを他の販売員さん達に紹介した。しばらく葵さんに付いて仕事を覚える事と、行く行くは彼女のルートを引き継いでもらうと言う事が説明される。
遠藤さんは自己紹介で、24歳独身、ここに来る前は事務員をしていたという話をしていた。前職が事務員の男性。シュンと同じだなぁ、と思う。
そうして改めてまた、葵さんが結婚と退職をする事も伝えられた。販売員さんも全員揃っており、今日が本格的な報告の場という形だ。葵さんは昨日と同様おふざけなしの真面目な挨拶をしていて、初めて知った販売員さん達はかなり驚いていた。
私は彼女の真剣な声を聞くと、どうしても寂しくなってしまった。聞き慣れているはずのその声色は妙に大人びていて、他人行儀。何かの間違いだったら……と心のどこかで考えていた事を2回も聞かされて、現実を突き付けられる。
おめでたい、とても嬉しい話題のはずなのに、心から喜べない自分もいるのが事実だった。その事がさらに罪悪感となり、心の中がどんどんと乱れて行ってしまう。
明日の予定を軽く打ち合わせて、葵さんは遠藤さんを先に帰らせていた。
「いい子そうで良かったよ、遠藤君」
発注書作成がまだ少しだけ残っていた私の隣に座りながら、葵さんが言う。
「うん、すごくいい人そうだね」
私は笑顔を作ったけれど、少し引きつっていたと思う。何だか、うまく笑えない。
「……ねぇ春琉、あんたちょっと痩せた?」
急に想定外の事を言われ、私はちょっと驚いてしまう。
「え? そんな事ないと思うけど」
「何だか、やつれて見える。ちゃんとご飯食べてる?」
シュンと全く同じ事を聞いてくる。そんな、見た目でわかるほどの変化があると言うのだろうか。葵さんの退職を知ってから、まだ3日目くらいだと言うのに。
「葵さんも、シュンと同じ事言うんだなぁ」
「え、そうなの?」
「……葵さんがいなくなっちゃうのがすごく寂しい」
本音を思わず呟いていた。
「新人さんも入って来て、葵さんの真面目な挨拶聞いたりして、あぁ本当にいなくなっちゃうんだなぁ、って……」
私の中でもう1人の自分が、やめなよ! と言っている。こんな話なんてしたいわけではないのに、何故か勝手に口から出て来てしまう。
「葵さんの結婚はすごく嬉しい事なのに、寂しいって思ってしまう事が申し訳なくて。葵さんに、今こんなふうに心配かけちゃってる事も申し訳ない……」
罪悪感と寂しさで、話しながらつい涙が滲んでしまう。押し出されるように雫が零れ落ち、私は慌てて俯いた。泣きはしない、とついさっき言ったばかりなのに。
「あぁ……ごめん葵さん。何でかな、こんなつもりじゃ」
「春琉、ありがとう」
葵さんは、静かに、とても穏やかに微笑んだ。
私の泣き顔を見ても笑顔だった事。ごめん、ではなくて、ありがとう、だった事。葵さんの反応に私の心は救われていた。
「私が辞めるって聞いて泣いてくれるような友達持てたって事が、素直にすごく嬉しい。ありがとう」
葵さんはずっと微笑みを絶やさない。泣いてしまった事への申し訳なさと恥ずかしさと、それ以上の温かさが胸を覆う。ありがとう、と言われて、私はさらに涙が出てしまう。
「……ねぇ春琉。飛行船見たいな」
「え?」
急な話の変わりように、私は涙を流しながらきょとんとしてしまう。
「春琉、今週中は出来る限り仕事終わりに見に行くんだ、って言ってたでしょ。私も一緒に行っていい?」




