そばにいて
「お疲れ様でっす〜! 今日も暑いのぅ」
お疲れ様です! と、販売員さん達が挨拶を返す。いつもの調子で、詰め所に葵さんが帰って来た。火曜日は、大体葵さんの方が私よりも少しだけ帰りが遅い。
「春琉、おつか……」
「葵さぁんっ」
私は席から立ち上がって、葵さんに抱きついた。
「えっ何何何なんだなんだどうした春琉、酔っ払ってんの?!」
「そんなわけないっ」
葵さんは爆笑する。大きな明るい声が体を伝わって響いて来る。
「何さ、寂しかった? あっはははは! めっちゃウケる春琉」
売上金の入ったカバンをドサッとテーブルに置き、葵さんはヨシヨシヨシと言いながら私の頭をワシャワシャ撫でた。犬みたい……。
「藤森さん、どうしたんすか……!?」
と、他の販売員さんが不思議そうな顔をして声をかけてくる。私と葵さんが仲良しな事はみんな知っているけれど、さすがにこの謎のタイミングでこんな事を私からするのは違和感があったのだろう。
「だって今朝、倉庫で葵さんに会えなかったから……」
「な、なんでそれだけで?」
「だって……」
販売員さん達も、さすがに私の様子がおかしいと感じているようだ。
「ふふふ。ちょうどいいから、みんなに言っちゃうか、今日」
葵さんは私の顔を見ながら明るく言う。その時ちょうど、詰め所に山上係長が入って来た。
「みんな、おつ~」
「あ、係長っ! 今日言っちゃっていい? いる人にだけ」
「はっ?」
あまりに突然の事に、係長もポカンとする。中に入ろうと片足だけサンダルを脱いだ体勢のままで。
「ていうか、何で抱き合ってんだお前らは……?」
冷静なツッコミ。私はアハハと笑いながら、葵さんから離れた。
「……皆さん、驚かせちゃってごめんなさい。今係長からお話を頂いたとおりで、この度結婚する事になりまして。退職をするというのも、相手の人とじっくり話し合って出した答えです。急で本当に申し訳ないんですけど、どうか受け入れて頂けたら嬉しいです」
事務作業の終わった販売員さん達の前に立ち、葵さんは深々と頭を下げた。いつもの調子を微塵も感じない真面目な挨拶。
本気だ……本当に、いなくなっちゃうんだ。
そんなふうに思ってしまった。
販売員さん達は葵さんの結婚報告には大いに歓喜し祝福していたけれど、退職については大変驚いており、動揺している人も多い様子だった。この道9年になる大ベテラン、札幌営業所のエースである彼女に、退職という言葉は何よりも遠いものだとみんな思っていたから。
「本当は明日、みんなにご報告の予定だったんだけどね。今いない人もいるから、また明日も改めてお話してもらうと思うけど。葵ちゃんの退職に伴って、来月から所長も新しくなるので。その辺は決まったらまたお伝えしま〜す」
葵さんの隣に立つ山上係長は、いつもと同じ調子でそう言った。
簡易報告会が終わり、販売員さん達は改めて葵さんにそれぞれ祝福の言葉をかけていた。辞めないで〜! と懇願する女性販売員達に、葵さんは陽気に笑いながら1人1人ハグしてあげている。
みんなから愛されている葵さん。彼女も、シュンも、私のそばにいる人達はみんなから愛されている。
『今晩、ナイトフライトするって橋立さんから連絡きたよ!』
シュンからそうメッセージが入っていたのは、今日のお昼過ぎの事だ。遅れるかもしれないけれど何とか都合をつけて見に行く、と彼は言っていた。
待ち合わせ場所に指定された、西区にある西部展望台という所に私はいる。ここは、シュンがナイトフライトの日に飛行船鑑賞をしに来る場所らしい。中心地からはだいぶ離れてはいるけれど、高い場所にあるので景色が良く見える。
シュンはまだ来ていなかった。『もう着いてるよ』というメッセージを送ってから、私は1人、展望台へと上る。平日にも関わらず、カップルや観光客らしき人々が夜景を見に来ているようだった。
あっ、いた!
と、私は心の中で叫んだ。小さく見えるテレビ塔の灯りの上に、白く光る飛行船の姿が見えた。ここからでは結構遠い。飛行船も小さく見えるけれど、開けたネイビーの空にそれは大きな存在感を放っている。
カップル達の中で、私は明らかに浮いていた。1人で来ている人がそもそもいない。周りからどのように思われているんだろう、とちょっとだけ気になってしまうけれど、おそらく誰も私の事など気に留めてはいない。
1年ぶりに見る、夜空を飛ぶ飛行船。街のすぐ上をゆっくりゆっくり飛んでいる。遠くからでも、とても綺麗だなぁと思う。日常に突然現れたこの非日常な光景に、今一体どのくらいの人が気づいているのだろう、と考える。
展望台から夜景を見ている人達は、飛行船についてはあまり気にしていないようだった。浜風町でシュンが話していた事を思い出す。やっぱり、この町ではあまりにも当たり前の存在だからなのだろうか。夜空に光る不思議な形の飛行物体を目にしても反応が特にない事が、何となくだけれど私も少し寂しく感じた。
「春琉、遅くなってごめん」
後ろから声がして、シュンが息を切らしながらやって来た。
「シュン、遅くまでお疲れ様!」
「あぁ、飛んでるね。車からも遠くにチラチラ見えてた」
シュンは私の隣に立ち、夜の街と飛行船を眺める。
「今年はここで春琉と一緒にナイトフライトを見られて嬉しいな。去年はさ、カップル達の中で俺だけ1人で見てたんだよ」
へへへと笑う横顔を見上げ、幸せな気持ちが胸に広がる。
「私も嬉しいよ。去年は私も、1人で西部公園の丘に登って見たんだ」
「あ、西部公園で見てたのか。俺もそっち行けば良かったなぁ」
無料で気軽に利用が出来るからか、ここの展望台にはカップルが続々とやって来る。シュンが到着してから急激に人が増え始め、柵の前は一気にカップルだらけになってしまった。
飛行船は、優しい光を夜空に放ちながらゆっくりと街の上を飛ぶ。ナイトフライトも葵さんに見せてあげたいなぁ、と思った。そうしてさらにラッキーになって、これからもたくさんの幸せが葵さんに訪れてくれたら……。
シュンとのデートなのに、今はどうしても葵さんの事を考えてしまう。
私は、シュンの腕を掴んだ。ん、と優しい声を出して、彼は私を見る。
「自然になって来たね」
「何が?」
「愛情表現、と言うか。スキンシップと言うか」
「……そうかな。うふふ」
そのまま私は、シュンの腕にギュッと抱きついた。
「シュン、ずっと、私のそばにいてね」
思わずそんな言葉を口にしていた。
シュンは何かを察した様子で、力強く、大きく頷いてくれた。
「もちろん。何があっても絶対に」
反対側の手で、私の頭を包み込むように優しく撫でてくれる。
「何も心配いらないよ、春琉。大丈夫」
低くて安心な声。私の顔を覗き込んで、ニッコリと微笑む。
この世で一番優しいシュン。彼との出会い、今一緒にこの場所にいる事を、私は奇跡と言う言葉ですら表せられないと思う。
巨大な濃紺のキャンバスを漂う小さな飛行船が、私達にそうしてくれたように、どこかで誰かに特別な幸せをもたらしてくれたら。何にも代え難い絆を結んでくれたら。笑顔のバトンを繋げ続けてくれたら……。




