その日は突然やって来た
いつものように葵さんが変な叫び声をあげ、山上係長が缶コーヒーを飲みながらニヤニヤする、いつもの週明けの詰め所。今日も、何も変わらないいつもの月曜日。
「マジでアクティブだね、あんたらは」
「仕事終わりの夜発で黒汐町はすごいよなぁ」
感心しているのか呆れているのか、どちらなのかはわからないけれど、2人共楽しそうだ。
「春琉には充実が足りてない、なんて前に私エラそーに言ったけどさ、逆に今必要以上に充実してない!?」
「シュンのお陰だよ、私じゃ思いつかない事いっぱい提案してくれるから」
「はぁー。いい彼氏持ったわ、ホントに。うちの春琉をここまで活発にしてくれて」
例のごとくで、葵さんは私と会話をしながらきっちりと売上金計算を済ませた。お金を入れたジップ付きビニール袋をぴっちりと留めて、ハイあげるっ! と係長に手渡す。
「そうそう! 稲田部長から俺にメッセージ来てたんだよ。十勝営業所に藤森さんが来たって」
「あはは! そうだったんですね」
稲田部長は係長の事を、山上君と呼んでいた事を思い出す。稲田部長は、実は元々札幌営業所にいたらしい。2人は同期で、入社当時から仲が良いのだとか。
「春琉、十勝営業所にも行ったの?」
「うん、たまたまね。ちょうど泊まったホテルの隣の方にラビットがあって。ここにあったのか~って見てたら、突然部長が慌てて飛び出して来てビックリしたよ」
「ははっはっ! 想像したらなんかめっちゃウケるそれ」
葵さんはおかしそうに笑う。
「藤森さん、去年と雰囲気だいぶ変わったね、って。何だかすごく明るくなってたってさ」
係長はスマホの画面を見ながら言う。
「そ、そうですか? 部長にもそう思われてたなら、相当変わったんですかね、私」
「あとシュン君の事も書かれてたぞ。真面目で礼儀正しい彼だね、って」
係長の言葉を聞くと、葵さんは目を見開くようにして私を見た。
「すごいね、シュン君稲田部長にも会っちゃったの」
「うん、予想外過ぎて本当びっくりだらけだったよ」
「っはー。このひと月半くらいの間で所長と係長と部長に会っちゃうなんて」
「上司陣への顔合わせは済んだ、ってわけだな」
係長は楽しそうに笑い、席から立ち上がる。ちょっと一旦これ事務所に置いてくるわ、と葵さんから受け取った売上金の袋を持って、詰め所を出て行った。
「……ねぇ、春琉。この後ちょっとだけ、時間ある?」
まるで係長がいなくなるタイミングを見計らっていたかのように、葵さんが言った。
「え? うん、全然大丈夫だけど。何?」
「うん。少しだけ春琉と話したい事あって。ここの場所でいいよ、時間はかけない。発注書終わったらでいいから」
笑顔でそう言って、葵さんも発注書作成を始める。
何だか珍しいなぁ、と思った。良い話なのかそうではないのか、仕事の話なのかそうではないのか、全くと言っていいほど想像がつかない。
それぞれ今日の業務を全て終わらせた後、私と葵さんは詰め所の一番奥の方へと移動した。会議用テーブルの端の席、というわけでもなく、そのさらに奥の、何故か床。部屋の隅のカーペットの上で、壁にもたれるように座る。
葵さんは何だか妙に改まっていて、いつもとは何かが違う事を感じた。
「……どうしたの? なんかヘンなの」
私は少し笑いながら聞いた。
「へへ。本当は別にこんな端っこで話さなくてもいい事なんだけどね」
葵さんも笑う。どこか困ったような、何とも微妙な笑い。
「あのね、春琉。私ね、結婚するんだ」
「えっ!?」
思わず口を塞いだ。けれど、他の販売員さん達は私の大声にすらもう慣れているようで、あまり反応はなかった。
「け、けっけっ……こん? ホントぉ?」
ボリュームを抑えて言う。
「ホントなのよ、これが」
いつも私を茶化す笑顔が、今日は何だか照れくさそうに見えた。
「どうせみんなにも言うんだから、別にこんなとこでコソコソ話さなくても、なんだけどさ。一番に春琉に話したくてね」
「そ、そうだったんだ……! 葵さん、良かったね。おめでとう!」
「うん、ありがと!」
私にとっても、自分の事のように嬉しい報告。
葵さんに恋人がいる事は、私がラビットに入社して彼女の元で仕事を教えてもらっていた時から知っていた事。だから、いつかはそう言う日が来るのかな……と以前から漠然と心のどこかで考えていた気はする。その日は、突然やって来た。
「私も飛行船見に行ったら、本当にラッキーになれちゃったよ。春琉のお陰だね、ありがとう」
「あはは、そっかぁ。飛行船ってやっぱりすごいね! 見た人に幸運をもたらす、って本当の事なんだね」
早くこの事をシュンに話したいなぁ、と思った。
「春琉にね、もうひとつ言っておかなきゃならない事があって」
「何?」
「私さ……来月いっぱいで、ラビット退職するんだ」
「えぇっ!? 嘘!?」
さすがに今度は、視線が突き刺さった。さっきよりも数倍大きな、それも悲鳴のような声が出てしまった。いつものように、うるさくてごめんなさいと手を合わせる心の余裕すらない。
「ほ、本当に……?」
「うん。急でごめん。まぁ、結婚に伴って……ってわけなんだけど。よく言う寿退社ってやつかな」
喜びで舞い上がった気持ちが、急激に地面に叩きつけられたような感覚。
「結婚しても、続けられないの? ラビット」
「続けようと思えば続けられるんだけどね……たいちゃんと一緒に決めた事なんだ、そこは」
たいちゃん、とは葵さんの彼氏さんの事だ。会った事はないけれど、“たいすけ”さんという名前である事は知っている。
「今週中からルートの引き継ぎの準備も始まるし、所長も近々別の人に変わる事になると思う。急でホントに申し訳ないんだけどさ、新所長を支えてやって」
葵さんが、いなくなってしまう。もうそれだけが全てで、正直な所、それ以外の話が入って来なかった。嬉しい報告を受けていたはずだし、寿退社だっておめでたい事であるはずなのに。
大好きな人が選んだ幸せの道なのに、私は動揺を隠せない。
「春琉……ごめんごめん、いや、びっくりさせちゃったよね、ごめんね本当に」
私の胸の内を察したらしい葵さんは、困ったように笑いながら私の頭を優しく撫でた。小さな子供にそうするかのように。うっかり、泣きそうになってしまう。
「でもさ、別にどっか行っちゃうわけじゃないから。札幌にいるし、ずっと。これからも遊ぼーよ」
「うん……ごめん、すごくびっくりしちゃって。嬉しい事のはずなのに、ごめん」
「なんもだよ。そりゃそうなるよね、こんな急に言われたらさ。でも大丈夫! これからも私はずっと春琉と一緒だから、絶対に」
いつもの剽軽な顔でニヤッと微笑む。私も応えるように笑った。悲しい顔を見せたくない。正直な所、心の中はとても複雑ではあったけれど。それでも、彼女には笑顔を見せていたい。
薄暗くなり始めている係留地で、飛行船はマストにくっついて穏やかに揺れている。今日はメンテナンス日で、フライトは休止とSNSで発信されていた。
昨日の移動フライトの疲れを癒し、また明日からの飛行に向けて英気を養っているSS号。その姿を、私はまっすぐに見つめていた。
「お疲れ」
後ろから声がした。
「シュン……」
今日は行けそうだ、とメッセージをもらっていた。心底、良かったと思った。今日彼が来れて。
「……どうした? なんか元気ないね」
帽子を被っていない私の頭を、彼は優しく撫でてくれる。さっきの葵さんみたいに。
いつもの場所に座って飛行船を見ながら、葵さんの事をシュンに伝えた。
「そうかぁ……葵さん仕事辞めちゃうのか。結婚はおめでたい事だけど、春琉としてはかなり寂しいだろうねそれは」
シュンは私の気持ちを受け止めてくれる。そんな一言だけでも、少しだけ心の乱れが静かになって行くような気がした。
「葵さんは私が新人の時の育成担当だったから、本当に入社した当時からずっと一緒で……」
体育座りをした膝の上の、手の甲を見つめる。
「販売を終えて詰め所に戻ると必ず葵さんがいて、一緒に色んな話をしながら事務作業とかするのが当たり前だったけど……これからはそれがなくなっちゃうのかなって思ったらやっぱり、すごく寂しい」
「うん、そうだな。当たり前にそばにいた人が急にいなくなっちゃう、ってのはね、かなりキツイよ」
シュンは俯く私を優しい眼差しで見つめる。
「前にここで葵さんに会った時、初対面の俺や秀司にも割とすぐタメ口になったり、すごくフレンドリーでオープンな性格の人なんだなぁって思ってさ。春琉とは何だか全くタイプが違って、上司って言うけど、なんつぅか……豪快で爽快な人だよね、葵さんって」
シュンは何だか少し言いづらそうに、でも笑いながらそんな事を言う。
「あははは。そう、すごく豪快。すぐに誰とでも仲良くなっちゃう」
「もしかすると人によっては最初圧倒されちゃうのかもしれないけど、俺は全然そんな事なくて。めちゃくちゃ愛に溢れた素敵な人なんだなぁって思った」
「うん……そうなんだよ、シュンよくわかってるね」
私がそう言うと、シュンはへへへっといつものようにいたずらっぽく笑った。
シュンと葵さんは一度係留地で会っているけれど、その後に葵さんの事についてシュンと深く話した事は特にない。彼女の事をそういう印象で見てくれていた事が、私は嬉しく思った。
「葵さん、彼氏さんと付き合ってもう6年くらいになるんだ。その彼氏さんもね、元々ラビットで働いてたんだって。私が入社する前に辞めちゃったみたいだけど」
「へぇ、そうなの? じゃあ、葵さんの結婚相手って春琉の先輩になるのか」
「うん。私は会った事はないけど、たいすけさん、って言う名前でね。葵さんは、たいちゃんって呼んでる」
「たいちゃん。へへへ、なんかかわいいね」
こんな、シュンにとってはどうでも良いであろう情報も、彼は楽しそうに聞いてくれる。
「葵さんの結婚は私にとってもすごく嬉しい事なんだけどさ。辞めちゃうって聞いて、寂しい気持ちになっちゃうのが、なんか葵さんに申し訳ないなぁって思う」
目線をシュンから前に移す。まだ薄明るい青紫色の空をバックに、飛行船は穏やかに揺れている。ゴンドラの斜め後ろ辺りにくっついている白黒の縞模様のプロペラをじっと見つめた。
「変わらないものってないんだね」
ボソッと呟くように言う。
「葵さんがいつも一番近くにいる事がずっと当たり前で、それがこれからもずっと続いていくって思ってたけど……いつかはそういう当たり前も変わって行ってしまうんだなぁって」
シュンは静かに微笑んで、俯くとも頷くとも取れないような、どちらとも取れるような動きをする。
「そう思っちゃうよな。俺もね、時々そう言う事考えるんだ。俺の場合は逆の視点からになるのかもしれないけど、当たり前って、実はすごくありがたい事なんだよなぁって」
「うん……」
「葵さんの結婚を、祝福は出来ても、現実を受け入れるのには時間がかかるだろうな。でも、それでいいって俺は思うよ」
シュンはまた私の頭を大きな手で優しく包み込んでくれた。
「多分ね、葵さんが一番わかってると思う、春琉の気持ち。俺には下手な事は言えないけど……何があっても、俺はずっと春琉と一緒だからね、絶対に」
さっき詰め所で葵さんが言っていた言葉と全く同じ事をシュンが言ったので、思わずフフッと笑ってしまった。
「え? なんか俺、ヘンだった?」
シュンが笑いながら聞く。
「ううん、違うの。さっき職場でね、葵さんも全く同じ事言ってたからなんか面白くて。ずっと春琉と一緒だから、絶対に、って」
「ははは、そうなのか。春琉への思いが葵さんとシンクロしちゃったな」
私に対してそういう言葉をくれる人が2人もそばにいるという事が、とてもありがたくて幸せだと心から思った。一生大切にして行きたい、特別な2人。
「シュン、せっかく今日飛行船鑑賞に来れたのに、こんな話でごめん」
「何言ってんだよ、春琉の話なら、俺何だって聞きたいよ」
「ありがとう……シュンのお陰でちょっと元気になったかも」
「へへへ。作業療法士ってのはね、人の話を聞くプロでもあるんだよ。いつでも、どんな事でも気軽に話してよ」
何だか誇らしそうな笑顔で言うので、私はまたおかしくて笑ってしまった。




