小さな大冒険の終わり
翌朝、私達は7時半前にホテルをチェックアウトした。
同じ場所に泊まっていると言うクルーの人達の姿は、ロビーにはなかった。移動フライトなら彼らも今日、チェックアウトの予定のはずだ。まだいるのか、それとももう出た後なのか。
昨夜はあの後、部屋で2人で缶ビールを1本ずつ飲み、早めに就寝した。と言うよりは、寝落ちしてしまった。少し仮眠を取っていたとは言え睡眠不足に変わりはなく、アルコールが入ると私もシュンも、容赦なく襲い来る睡魔に勝てなかった。
寝落ちとは言え、快適なベッドでたっぷり眠る事が出来て、今朝は2人共スッキリと元気だ。
係留地には、まだクルー達の姿はなかった。
空の青と、十勝特有の美しい緑色に囲まれて、ふわふわと揺れる飛行船。シュンと並んで芝生に座り、眺める。岩水の係留地の、あの場所と同じように。今年は今日が、黒汐町で飛行船を見る最後の機会になる。少しでもゆっくりとこの時間を堪能したかった。
やがて、クルーのワゴンが到着した。敷地に入ってくるクルー達を、私達は立ち上がって迎えながら、挨拶を交わす。橋立さんは最後に入ってきた。あえてそうしていたようだ。
「おはようございます! 橋立さん、昨日はありがとうございました」
「ありがとうございました!」
2人で、頭を下げる。他のクルーさん達に気づかれる事のないよう、何についての話なのかは伏せたまま。
「シュンさん、春琉さん、おはようございます」
橋立さんは笑顔で挨拶を返してくれる。他のクルー達が飛行船に向かって歩いて行った事を確認し、さらに一歩私達に近づく。
「喜んで頂けましたかね」
「橋立さん、本当に……僕ら何てお礼を言ったらいいのか」
「クルーとして、と言うよりは、僕個人の気持ちです。橋立武志という、1人の人間からの贈り物だと思って頂けたら嬉しいです」
いつもよりも少し近い距離で、いつもよりも小さめの声でそう言う橋立さん。何だか、秘密のいたずらの相談をする子供のようだなと思った。
「橋立さん。私達、そのお気持ちに応えられるくらい、これからもたくさん飛行船を追いかけます。2人で一緒に」
私も、少しだけボリュームを抑えた声で言った。
「春琉さん、どうもありがとうございます。僕がこんな事をしたいと思ったのは、春琉さんとお話した事がきっかけだったんですよ」
「え?」
意外な返答。
「5月末頃だったか、春琉さんがお仕事帰りにお1人で係留地へいらした時……心打たれましてね。春琉さんの、シュンさんへの思いに」
橋立さんが言うと、私ではなくて、シュンがびっくりした顔をする。
「個人的に長いお付き合いであるシュンさんに、それほどまでの深い愛を持って関わってくれるお相手が出来たという事が、クルーとしてではなく1人の男として嬉しいと思ったんですよ。お2人に末長く思い出を作り続けて行ってもらいたいと、純粋にそう思ったもので」
昨日の夜と同じ顔をして、橋立さんは恥ずかしそうに頭を摩る。
「そんな……事が、あったの?」
シュンも、恥ずかしいのか片手で口元を隠したまま、私に聞いてくる。
「うん……そういえばシュンには、特に言ってなかったよね」
私も恥ずかしくなってしまって、帽子で顔を隠すように俯いた。
「ははは、そうなんですよ、シュンさん。春琉さんの強い思い、お聞かせ頂いていました。愛に溢れた素敵な彼女さんが出来て、本当に良かったですね」
橋立さんはにこやかにそう言って、シュンの肩をポンと強く叩いた。
「大事にしてあげて下さいね、春琉さんの事。では、行ってきますね」
彼は他のクルー達からだいぶ遅れて、飛行船の方へと向かって歩いて行った。
「……そうなの?」
シュンはもう一度私に同じように聞く。
「あはは……そうだよ。恥ずかしいね、何だか」
頬をポリポリと掻き、笑ってごまかす。
「へへへ。まいったな、マジかよ」
お馴染みのデレデレ顔になって、ガシガシと強く頭を摩っている。ボッサボサに乱れた髪のままで、シュンは飛行船を見つめた。
「後でさ、岩水に着いてクルーの作業が落ち着いてから、橋立さんに俺達の写真を撮ってもらおうよ。あのフォトフレームに最初に入れる写真は、橋立さんに撮ってほしいなって俺は思った」
「それ、いい考えだね! 私も橋立さんに撮ってもらいたい」
SS号は、8時半過ぎに係留地を飛び立った。
相変わらず見学客はおらず、今日は何と私達2人だけ。それでもパイロットさんは、私達のために低空飛行を見せてくれた。今までの中で一番贅沢なサービス。シュンと一緒に、大きく手を振った。
マストの撤収を見届け、ワゴンに乗り込む前の橋立さんに挨拶をする。その時にシュンが、岩水に着いたら写真を撮って欲しいとお願いをしてくれた。橋立さんは、もちろん喜んで! と快く承諾してくれた。
クルー達の出発を見送って、誰もいなくなった、何もなくなった緑地を眺める。
「はぁ、黒汐町も今年はこれで最後かぁ。ちょっと寂しいね」
「そうだな、今年はめちゃくちゃ楽しかったな」
「うん! まさか2泊3日もしちゃうなんて」
「へへへ、予想外だったよね。また来年も来れるといいなぁ」
シュンの突拍子もない、最高に楽しい提案のお陰で、今年は十勝で様々な思い出が出来た。帰りたくない気持ちを引きずり、私達は鮮やかな緑の係留地を後にする。
黒汐町、ありがとう! また来年!
心の中で叫んだ。
岩水海岸公園に到着したのは、13時を過ぎた頃だった。
クルーは私達より先に到着していて、マストの設営作業を行っている所だったが、飛行船の姿はまだ見えない。お迎えのお客さん達も集まり始めているけれど、主役が登場するのはまだ少しだけ先になりそうな雰囲気だ。
私とシュンはいつもの芝生の上に座り、昨日稲田部長がくれたお菓子をありがたくいただいた。個装になったクッキー。一箱分もあるのではというほどにたくさん入っている。スーパーなんかでも安く売っているようなものだけれど、こういうお菓子ほど何故だか私は特別なおいしさを感じる。甘い物好きのシュンも、とても喜んでいた。
移動フライトの日は、同じ行き先に向かって追いかけているはずでも、その道中では不思議なくらい飛行船を見かける事がない。その理由は、普段の宣伝飛行と違って様々な町の上空を飛ぶから、らしい。黒汐町からまっすぐに岩水まで向かっているというわけではないらしく、いつもはなかなか飛ぶ機会のない地域まで行っていたりするようだ。地上だと時間がかかるような距離でも、空からではあっという間に行けてしまうものらしい。
おそらくだけれど、私が子供の頃に実家の上空で初めて見た飛行船も、浜風町と岩水間の移動フライトの途中だったのではないかと思う。私の地元は、ちょうどその2つの町の間に位置しているので。
のんびりとクッキーを食べていると、クルー達が敷地の奥で整列を始めた。空を見渡してみると、西側に連なる山々の手前に、飛行船のシルエットが見えた。
浜風町からの移動フライトの時と同じように、私達は芝生に座ったままで着陸を見た。いつもの流れで、いつもどおりに飛行船が受け止められて、いつものようにマストに固定される。もちろんワクワクする事に変わりはないけれど、幾分か余裕を持って見られるようになった。
昨年と同じく、今年も黒汐町で見送った飛行船を、岩水でお迎えする事が出来た。
クルー達が着陸後の作業を終える頃に、私達は敷地の入口付近に停められているSmile Skyのトラックの方へと向かった。見学客達は続々と飛行船の方へ集まり出している。今日は風もかなり穏やかなので、この後ゴンドラの試乗会でも行われそうな雰囲気だ。
私達の姿に気づいてくれた橋立さんが、こちらへとやって来る。
「シュンさん、春琉さん、お疲れ様です! 遠い所をありがとうございます」
「お疲れ様です! 橋立さん、はい!」
シュンは、途中のコンビニで買っていた缶コーヒーを手渡した。
「いつもありがとうございます! シュンさんから頂くこのコーヒーは僕の元気の源ですよ」
橋立さんは嬉しそうに、両手で丁寧に缶コーヒーを受け取る。
「それじゃあ、お2人の写真をお撮りしましょうか」
「よろしくお願いします!」
私のスマホ、シュンのスマホそれぞれで、橋立さんは写真を撮ってくれた。
画像を確認すると、賑やかに見学客に囲まれる飛行船をバックに、私とシュンのツーショットが綺麗に写っていた。
「ちゃんと撮れていますでしょうかね」
「バッチリっす! いやぁ、嬉しいなぁ」
「橋立さん、どうもありがとうございます!」
私がお礼を言ってお辞儀をすると、橋立さんはまた少し照れくさそうな表情をして微笑んだ。
「あのフォトフレームに入れる最初の写真を僕が撮らせて頂けたなんて、とても光栄ですよ。今後も是非、どんどん素敵な思い出を更新していって下さいね」
温かい言葉に、じんと来た。1人の男として、と彼が言っていたのを思い出す。クルーとしてではない、橋立さん本人の優しく誠実な人柄が伝わる出来事だった。
やっぱりシュンの周りには、優しい人が集まるんだな……。
そう思った。
「話は変わりますが、今年も札幌の滞在はあと1週間ほどになりそうです」
飛行船と、嬉しそうにはしゃぐ見学客達を見つめながら、橋立さんが教えてくれた。
「今の所は、次の日曜日が浜風町への移動フライトの予定になっています。予報次第でまた変更になるかもしれませんけどね」
「そうですか、今年もあと1週間かぁ……早いな」
「早いね……なんかそう聞いちゃうとやっぱり寂しいね」
楽しかった2ヶ月間が、いよいよ終わってしまう。今年もお別れの時が近づいて来てしまった。
「私また去年みたいに、移動フライトの日まで平日でもここに来れる日は来ようかな……」
私は去年、飛行船の札幌滞在ラストの1週間は、毎日のように仕事が終わってからこの係留地に通った。当時はシュンもまだ学生で夏休み中だったので、ここに来れば必ず彼がいた。けれど、今年はその時とは違う。
「そうか、いいなぁ。俺はなんだかんだ遅くなっちゃうから、平日だとなかなか来れる日がなさそうだよ」
仕方ない事だけれど、ちょっとだけ寂しいなと思った。この場所に来ても彼がいないというのは。
「そういえば、平日中のどこかで、可能でしたらナイトフライトもするかもしれません」
橋立さんが教えてくれる。
「うわぁ、いいですね! ナイトフライトは何とか見れたら見たいなぁ。でも、どっちにしても情報をキャッチする手段がないな」
SNSでのフライト情報は、基本的に事後報告。当日の離陸後にその日の飛行予定地域が告知されるというスタイルだ。ナイトフライトをする、という情報も特に前もって告知される事はない。事前に知るためには、当日の日中に係留地で直接クルーに聞くしかない。
「シュンさん、これも秘密のお話になるんですが、もしよければ僕が直接ご連絡しましょうか?」
橋立さんはまた、少しだけ小さめの声でそんな事を言った。
「え? マジっすか」
「もし連絡先を教えて頂ければ、ナイトフライトの日の日中にメッセージでご連絡する事は可能ですよ」
「いいんですか!? 是非お願いしたいです」
「えぇ、全然オッケーです! 他の人には内緒ですよ」
橋立さんはまた、いたずらの相談をする少年みたいな顔をして笑っている。
シュンと橋立さんは飛行船の方に背を向け、こっそりとスマホを出して連絡先を交換する。ヒソヒソ話をする2人の大きないたずら坊主達。私はクスクスと笑ってしまった。
「あっ! 橋立さん、これ奥さんですか?」
「あはは、そうです、お恥ずかしい。そういえばそんな画像を使っていましたね」
「えっ、何?」
思わず私も反応すると、シュンがスマホを見せてくれた。メッセージアプリの、橋立さんのプロフィール背景画像に、彼と一緒に写る女性の姿があった。
「奥さんめっちゃ綺麗な人じゃないですか!」
「ははっ、そうですか? ありがとうございます。何だか恥ずかしいですねちょっと」
おそらく休暇で旅行へ行った時に撮ったものなのだろう。海をバックに、女性と頬を寄せ合って写っている橋立さんは、完全に“1人の男”の顔。幸福がこちらまで伝わってくるようだった。
「もしもナイトフライトをする事が決まったら、すぐにシュンさんにご連絡しますね。では片付けが少し残っているので一度失礼します、ごゆっくりどうぞ!」
橋立さんは軽く会釈をして、トラックの荷台へと入って行った。
本当に仕事が残っていたのだとは思うけれど。気恥ずかしさで、一旦この場から離れたかったのだろうなと思う。
「へへへ、橋立さんが恥ずかしがってんの、なんか新鮮だよね」
シュンが笑う。とても幸せそうに。
「橋立さん、奥さんの事すごく大事にしてるんだね。離れていても、アプリを開けばいつでも会えるようにしてるんだ」
「飛行船のクルーはなかなか家族にも会えなくて大変だよなぁ。俺だったらムリだよ、春琉に会えないの」
「あははは。私もだよ」
私達がワクワクし、楽しませてもらっているその裏側には、様々な苦労があることを忘れてはいけない。クルー達が家族と離れ離れで過ごしている事もそのひとつだ。橋立さんの写真を見て、改めてクルーの皆さんに感謝しなければという思いを強く抱く。
金曜日の夜から出ずっぱりなので、私とシュンはさすがに少し早めに解散をする事にした。気持ち的にはまだまだ一緒に飛行船を見ていたい所だったけれど、明日からのお互いの仕事に支障を出してしまってはいけない。
帰る前に、係留地の芝生の上で私はまた少しシュンの肩を揉んであげた。
シュンは、明日からの1週間、仕事終わりに係留地に行けそうな日があれば行く、と言っていた。毎日は難しいけれど、可能な限りは飛行船と春琉に会いに行くからね、と。
次にシュンに会えるのは何曜日になるだろう。
3日間の小さな大冒険を終えた私達は、それぞれの帰路に就いた。




