月曜の上司達
私がしている手作りパンの移動販売員という仕事は、いわゆるキッチンカー的なものとは違う。販売員である私達がパンの入った番重を持ち、許可を受けている会社さんへと決まった時間にお邪魔する。そしてそこで働く人々を対象にパンを販売する、というスタイルだ。
週明けの夜。私は一日の仕事を終えて、販売員達の集まる職場の詰め所へと戻った。
商品保管用の大きな倉庫に隣接するプレハブのような建物の、1階が詰め所だ。玄関の扉の上に『手作りパンのラビット』とポップな赤文字で書かれた小さな看板がかかっている。
15畳ほどの広さの詰め所の中央には会議用の長テーブルが並べられており、販売員達はそこで一日の売上金の計算や、発注書作成などの事務作業を行っている。
「春琉、お帰り~」
私に声をかけてきたのは、石黒葵さん。ラビット札幌営業所の所長だ。そして、私の新人時代の育成担当でもある。年は私より2つ上の、28歳。ここで一番仲の良い販売員さんであり、先輩であり上司であり、そして姉のような存在でもある。
「葵さん、ただいま」
発注書を書いていた葵さんの隣の席に座り、私は売上金の入ったウエストポーチをテーブルの上にドサッと置いた。
私は、週末の出来事をどうしても誰かと共有したくて、葵さんにその話をした。
「えっ? 春琉、例の人とデートしてきたの?!」
「で、デートって。そんなんじゃないけどさ……」
葵さんは、どんな事でも話せる。とても豪快な性格で人を茶化すのも上手だけれど、それ以上に愛に溢れていて、私が話す事はいつだって嫌な顔ひとつせず聞いてくれる。シュンの存在は、以前にも彼女に話した事があるので知っていた。
ちなみに部下である私が葵さんに対してタメ口である理由は、それが彼女の希望だから。気を遣わずに気軽に話して、と。私が敬語を使おうものなら、むしろ怒られてしまう。それだけ仲良くしてくれていると言う事なのでありがたい。
「やっぱ最近のあんたはスゴイわ。ちょっと前までと全然違うね、ホント積極的」
私の顔を覗き込んで、ニヤッと笑う。これは彼女が人を茶化す時の顔だけど、今は決して私をからかっているわけではない事がわかる。
「私自身もびっくりしてるよ、こんな日が来るなんて」
「やっぱ飛行船に感謝だわ私。あの春琉をここまで変えてくれたんだもん」
私は元々、内気な人間だった。今年SS号と出会ってから、その性格はちょっとだけ変わったと私自身も感じている。
葵さん曰く、私には以前から“充実”が足りていなくて、今年5月からSS号を追いかけ始めた事で日々に充実が加わり、成長に繋がった、のだと言う。一番近くで私をずっと見て来た葵さんからの言葉には、説得力があると思う。
「でも、飛行船だけじゃないね、確実にその人の存在が大きい気がする」
「シュンさんの!?」
「え!? シュンさんっていうの? その人」
つい名前を言ってしまった。一気に恥ずかしくなり、顔を覆ってため息をつく。そんな私の様子を見て、葵さんはアハハハッとおかしそうに笑った。
やってしまった……。
実は私は、究極の間抜けだ。また、うっかりを発動させてしまった。今までにもこんな事は多々ある。
「……春琉はシュンさんの事が好きなんだね」
両手で覆った暗い視界の外側から、突拍子もない言葉が聞こえた。とても穏やかな声で。
「違う違う! そんなんじゃないよ」
両手をはずすと、頬に空気がひやりと冷たく感じた。私自身は考えた事もない話。即座に否定した。
「ふふっ、そっか。ごめんごめん。なんか嬉しくてね」
いつもならさらに私を茶化す流れなのに、葵さんは珍しくごめんなんて言って、穏やかな笑顔のまま発注書作成を再開し始めた。
正直に好きって言っちゃえー! だの、私にそんな嘘が通用するかー! だのと、絶対に言われると思ったのだけれど。予想と全く違った反応に、何だかちょっと拍子抜けしてしまった。別にそういう反応をしてほしいわけではないけれど。
「みんなぁ、来週から秋の新商品どんどん出るよ〜。試食試食~!」
玄関からのんきな声が聞こえ、1人の男性が入ってきた。
係長の、山上龍之介さん。彼は実質、このラビット札幌営業所を取り仕切っているトップだ。40歳で、綺麗な奥さんと7歳の息子さんがいる。彼は一度、係留地に家族を連れて飛行船を見に行っている。バッタリ会った時はとても嬉しかった。身近な人が飛行船を見に来ていたのだから。
山上係長がテーブルの中央に新商品のパンを数種類バラまくと、販売員さん達は事務作業の手を止めて試食を開始する。これも私達の立派な仕事だ。構造や味がわからなければ、お客様に商品の説明が出来ないので。
「係長、春琉に春が来たよ〜」
葵さんがニヤニヤと言う。
「何? はるにはる?」
「いい感じの人がいるみたいよ〜」
そう言いながら、葵さんは私の肩に手を回して来た。やっぱり、からかうんじゃん……。
「へぇー。藤森さん、彼氏でも出来たの?」
「違いますよ。そんなんじゃないです」
「係長も前、飛行船見に行ったって言ってたよね? そん時に実はその人と会ってるかもよ」
葵さんがそんな事を言う。係長と係留地で会った時にシュンを見た記憶はない。けれど、当時はまだ彼の顔をちゃんと認識していなかったので、実際の所その可能性はゼロではない。
「え? 藤森さんの彼氏って飛行船が好きな人なの?」
「だから彼氏じゃないですってばぁ」
話がおかしな方向に曲がってきているような気がする……。
係長はポケットから缶コーヒーを取り出して、私の隣に座った。
「な~んか最近、生き生きしているなぁと思ってたら。そうだったのか」
プシュっと蓋を開けて、冷たいコーヒーをごくごく飲む。いつものお気に入りのメーカーのやつだ。と言っても、玄関横にある自販機で売っているものなのだけれど。
「藤森さん、飛行船見に行くようになってからちょっと変わったよね。前よりも明るくなったよなぁ」
「そ、そうですか?」
同じ事を、少し前に葵さんにも言われた事がある。
「飛行船って、見るとラッキーになれるのかもね。売上も爆上がりしたし、春琉、本当にいい事ずくめじゃん!」
見るとラッキーになれる。葵さんのその言葉には、ちょっと共感した。
「確かにそれはそうかも」
頷くと、葵さんはまた私の肩に手を回して来た。
「また進展あったら教えてよ。何かあればいつでも話聞くからね」
「俺にもね。進展あったら」
反対側から係長も声をかけてくる。
「もう……進展だなんて」
ニヤニヤと嬉しそうな2人の笑顔に挟まれて、私は苦笑しながら頬を摩った。
恋愛なんて、専門外だし――
これは今年7月、飛行船が北海道を去る前日の夜、葵さんと話していた時に私が言った言葉だ。飛行船の移動フライトの予定が急遽早まり、私は仕事のために見送りに行く事が出来なくなってしまって、世界の終わりかのように落ち込んでいた。そんな思いを、彼女が聞いてくれていた時の事。
「春琉は仕事は無難にこなすけれど、自分自身の充実が足りていなかった」と葵さんは言っていた(そして、飛行船との出会いで充実が見つかったから良かったね、という話に繋がっていくのだけれど)。
趣味でも恋愛でもいいから、何かひとつでも寝食を忘れるくらい夢中になれるものが見つかったら、きっと、もっと成長できると思っていた――
そんな事を言われて、私が答えた台詞。
実際、恋愛なんてした事がないに等しい。高校時代に一度だけそれらしい事はあったけれど、私から好きになったわけじゃない上に、すぐにフラれてしまって、全てが受け身の状態だった。当時の私がもっとちゃんとしていたら、相手から受けた告白にも誠意を持ってお断りが出来ていたと思うけれど。あまりにも私は幼く、あまりにも未熟だったから、結局は相手を幻滅させて終わる事になってしまった。
恋愛対象として誰かを好きになる、という感覚を、私はずっと知らないままで26年間生きて来た。だから、彼に対して抱いている気持ちも、そういうものだとは微塵も思っていなくて。
春琉はシュンさんの事が好きなんだね
詰め所で葵さんから言われた言葉が、帰宅してからも、頭の中で何度も繰り返し響いていた。
違和感、でしかないのが事実。
けれど、ふとした瞬間、何かの合間……振り返ってみると私は、いつも彼の事を考えていた気がする。
飛行船が大好きな事も、考えが似ている事も、知らないうちに何度か会っていた事も、そして、境遇が似ていた事も……
色々な“同じ”がある彼との出会いが、私には特別なものにしか思えなくて。
そして、少年のような純粋な瞳、優しい声。
彼にまた会いたい。いつも自然と、そう思っている自分がいる。
大きなため息が漏れた。
飛行船を好きになって、彼と知り合って。一気に“充実”が容赦なく私を襲ってくる。
あまりに平凡な日々に慣れ過ぎていた私には、受け止め切れずに持て余してしまいそうだった。