幸せ
翌日、日曜日。私とシュンはまた、岩水海岸公園へと向かった。改めて2人で飛行船を見に行こうという、彼からの誘いだ。
風が強く、今日のフライトは中止。空は曇っており、雨でも降り出して来そうな雰囲気だ。
いつもの場所に座って、風に躍る飛行船を眺める。シュンは久しぶりに赤いウインドブレーカーを着ていた。主に悪天候の日の飛行船鑑賞で着用すると言うこの上着は、去年、私がシュンを初めて認識した事に繋がったものだったりする。正確に言うと黒とのツートンカラーなのだけれど、まだ知り合う前、彼がこのよく目立つ赤い服を着ていた事で私の記憶に残り、最初のニアミスがわかったのだった。
「昨日は春琉の上司さん達に会えて良かったよ。葵さんの事はずっと春琉から聞いてたし、係長さんは俺、去年係留地で会ってるんだもんね」
昨日シュンが挨拶をした時に、係長とその話をしたらしい。
「まさかここで本人に会うとはね。係長、なんか言ってた?」
「シュン君は自分にとっても勝手に運命的な人のように感じている、って。たまたま記憶に残っていた青年がまさか自分の部下の彼氏になるなんて、ってさ」
「ホントだよね。私もその話聞いた時はびっくりした」
話しながら前を見ると、2人のクルーが、風に暴れて舞い上がる飛行船のゴンドラを下ろそうと奮闘していた。男性2人で掴んでもゴンドラが上昇して行ってしまうほどの強風。大変だなぁ、と思う。
「葵さんと係長さんって、去年移動フライトの日に春琉と仕事代わってくれたっていう人達だよね?」
「うん。葵さんが係長にお願いしてくれて、係長が私の代わりに販売に行ってくれたんだよ」
「そうか。2人には俺も心から感謝してるんだ。お陰で春琉と一緒に飛行船の見送りが出来たわけだからさ」
穏やかに微笑むシュン。
「あの日から1年経つんだよね。正確にはまだ10か月くらいとかかな?」
「うん。あの日の朝、春琉がここに突然来た時は面食らったよ。奇跡が起きた、って本気で思ったからね」
「私も奇跡だと思ったよ。本当なら仕事していたはずなのに、隣にシュンがいて、目の前に飛行船がいて……」
去年の北海道ラストフライトの日。
元々は日曜日に移動の予定だった所が、天候の都合で金曜日に急遽変更となり、私は仕事のために最後の見送りに行けなくなってしまった。その時に、私は葵さんと係長の優しさのお陰で、平日にも関わらず見送りに行く事が出来るようになったのだった。
『内気だった春琉が、飛行船を追いかけて積極的に動いている姿を見て嬉しかった。ここまでやったのなら最後まで見届けて来てほしい』
『藤森さんのお陰で息子にいい経験をさせてやれた。何も気にする事はないから行っておいで』
あの日の朝、葵さんと係長はそんな事を言って私を笑顔で送り出してくれた。
「飛行船の見送りを一緒に出来た事はすごく嬉しかったけど……あの日俺、春琉とお別れするのが本当は怖かったんだ」
シュンは頭を掻きながら、何となく言いづらそうに言う。
「でもさ、飛行船もいないのに、一緒にいる理由もなかったからね、あの時の俺達は。本当は離れたくなかったけど、そんな事は言えなかった」
胸の中が強く波打った。それは、あの時の私と全く同じ気持ち。
「じゃあまた、って無理やり春琉から離れて、一回も振り返らないで自分の車まで歩いたんだ。振り返っちゃったらそこからもう動けなくなるって思ったから。正直、かなり辛かったな」
シュンは苦笑する。
あのお別れの時の記憶は、私の中にも強く濃く残っている。心の壁にこびりつくように。
「私もあの時、シュンの後ろ姿を見てられなかったの。もうちょっとで、シュンさん、って呼び止めてしまいそうだった。でもそんな事しちゃダメだって、シュンを困らせるだけだって思ったから、耐えたけどね」
「……そうだったのか」
シュンは微笑んでいたけれど、何かを悔やんでいるような表情にも見えた。
「だから、その1か月後くらいにシュンが連絡くれた時は、本当に物凄く嬉しかったんだ。あの連絡がもしなかったら……って考えたら、ちょっと私、怖いさ」
頬を掻きながら私は少し笑った。帽子をかぶった頭が、大きく温かな手に包み込まれる。シュンは私を見て優しく微笑んでいた。
「別れる時に、また来年ここで飛行船を一緒に見ようって約束したじゃん。でも俺、正直1年も待てる自信なんてなかったんだ。勇気を持って連絡して本当に良かったよ。それも秀司が背中を押してくれたお陰なんだけどね」
「うん。秀司君にも感謝してる。あの最後の日にあんな気持ちで別れたのが嘘みたい。今こうやってシュンが隣にいてくれてるんだもん」
「俺も同じ気持ちだよ。また会ってくれただけじゃなくて、まさか彼女になってくれるなんて」
シュンはさらに頭をワシャワシャと摩って、照れ笑いをしている。私も、ニヤニヤしながら帽子で顔を隠した。気持ち悪い顔してるなぁ、とまた自分で思いながら。
「……私、こんなに幸せでいいのかな、って最近よく思うんだ」
呟くようにそんな事を言ってみる。
「シュンだけじゃなくて、私の周りには温かい人達がたくさんいてくれて。昨日だって、まさかあのメンバーで飛行船を見られるなんて思っていなくて。大切な人達に囲まれて飛行船を見る事が出来て、とっても幸せだった」
昨日抱いた素直な気持ちを、少しずつ言葉にして伝える。シュンは微笑みを絶やす事なく、うん、と優しく頷いてくれる。
「今だって、こうしてシュンと一緒に飛行船を見る事が出来て、本当にすごく幸せ。シュン、ありがとう」
“幸せ”という言葉では足りなくて、今の自分の気持ちを的確に伝えるための表現が見つからない、と思った。
シュンは、飛行船の所にいる2名のクルーと、敷地の入口の方にチラリと目をやる。誰もこちらを見ていない事を確認すると、私の頬に軽くキスをしてくれた。照れくさそうな顔をしている。
「俺の方がありがとうだよ。春琉が幸せだと、俺も幸せだ」
耳元で響く低く優しい声に、思わず涙が出そうになる。
「……ずっと、飛んでいてほしいね」
「ん?」
「私達を繋いでくれたSS号。一生ずーっと飛び続けててほしいなぁって思う」
私がそう言うと、はははっ、とシュンは笑った。
「そうだね。俺、Smile Skyの社長になろうかな。そうすれば、誰が何と言おうと、俺が一生SS号を飛ばし続けるんだけどね」
広大な係留地の片隅で響く2つの笑い声は、きっとこの風にかき消されて誰にも聞こえてはいない。今が幸せで嬉しくて、私は思いっきり笑った。




