岩水海岸公園係留地
たった1日と少しの出来事だったとは思えないほど、浜風町での事は私にとって大きな思い出となっていた。SS号との1年ぶりの再会、海岸線ドライブ、飛行船を見上げる町の人々の笑顔。それだけではなく、温泉に入れたり車中泊をしたりと、札幌を出る時には想像もしていなかった時間が待っていた。
全ては、シュンがいてくれたお陰。また浜風町に遊びに行こうねと、約束した。
初日からこんなに幸せで、これから飛行船が北海道に滞在する約2か月間、私は一体どうなってしまうのだろう。
飛行船を追いかけて、私達は岩水海岸公園へとやって来た。時刻は13時半を回ろうとしている。
早朝4時半から起きている私はさすがに睡魔に勝てず、車の中で2時間近くも寝てしまった。シュンだって眠いはずなのに、私が寝ていても嫌な顔をひとつもしない。申し訳なくて、ごめんねと言っても、何で謝るの気にしないでと彼は笑っている。どうしてそんなに優しいのだろう。
私達が着いた時にはクルーも既に到着していて、係留地の敷地にちょうどマストが立った頃だった。飛行船の姿はまだ見えない。浜風町からここに来るまでの間にも、飛行船を見かける事はなかった。
お迎えの見学客も集まり始めていた。去年の経験では、飛行船を見に来るお客さんは年配の人が多い印象だった。今年は、若い家族連れも多いような気がする。小さな子供達が緑地の中を走り回っている姿が見える。
私達は、去年いつも一緒に飛行船を見ていた辺りの芝生に座った。敷地の入口から右に曲がって進んだ、奥の方。私達の定位置だ。
「ここでいつも飛行船を眺めて、そしてここで俺達の付き合いが始まったんだよね」
照れくさそうな顔でシュンはこちらを見た。
「うん。思い出の場所だよ」
何でもないただの芝生の上だけれど、ここは私達にとって特別で大切な場所。
「それにしても、移動フライトが私達のお休みの日に当たってくれて良かったよね」
「うん。土日に当たってくれてラッキーだったね!」
そういえば、とシュンが言う。
「春琉って元々ラッキーガールだよね。去年も、何も知らずに黒汐町に行ったのにちょうど耐空検査終わりのハンガーアウト直後だったり。仕事で行けなくなったはずの移動フライトの見送りに急に行けるようになったり」
「あはは、確かに。ビギナーズラックってやつかなぁ」
思い返せば、去年は飛行船鑑賞に関してのタイミングがいつも幸運続きだった。
「2年くらい前だったかな、SS号が札幌に来てる時にローカルの情報番組で特集された事があって。その時にやってたけど、飛行船って『見た人に幸運をもたらす船』って言われているらしい」
「幸運をもたらす船?」
「うん。飛行船って、札幌とかじゃ風物詩的な見方もされてるけど、一般的にはレアものだからね」
私自身も、去年の5月までは、飛行船の飛んでいない空が当たり前だと思っていた。見つけた時は、たまたま上を見た時にそこにいた、という感じだった。
「春琉くらいの愛を持ってあれだけ追いかけていたら、そりゃラッキーにもなれるよなぁって。俺だって飛行船を見てラッキーになれたんだよ」
「そうなの?」
「うん。だって俺、春琉と出会えたから」
心から幸せそうな笑顔で言う。もう彼と付き合って7ヶ月も経つのに、私はこう言う時、どうしてもドキッとしてしまう。まるで告白された時みたいに反応してしまう心臓を、思わず押さえた。
「シュンってそういう事すごく素直に言うから、心臓がもたないよ、私」
「へへっ、俺は素直な人が好きだし、自分も素直でいたいから」
無邪気な少年の瞳。こんなに純粋で優しい人と、私は本当にお付き合いなんてさせてもらっていて良いのだろうか、と考えてしまう。7ヶ月経った今でも。
以前に葵さんが「飛行船って、見るとラッキーになれるのかもね」と言っていたの思い出した。私もその言葉には共感していたけれど、あれは本当の事だったのだ。
やがてクルーの人達が、敷地の奥の方へと歩き出した。はっとして空全体を見回すと、遠くに小さな船影が見えていた。
「シュン、飛行船が見えたよ」
「本当だ! 昨日は着陸見られなかったから、今年初だね」
少し前の方で見学する? と聞いてくるシュンに、ここで良いと私は答える。何となく、この場所で着陸を見たいと思った。
入り口付近には続々と見学客が入ってくる。私は、浜風から岩水への移動フライトのお迎えをするのは今回が初めてだ。毎回そうなのかはわからないけれど、随分とお客さんが多いような気がして嬉しかった。もしかすると、SS号の知名度は去年よりも上がっているのだろうか。
段々と大きく見えて来た飛行船が、ゆっくりゆっくりと係留地に向かって下降してくる。8人のクルー達がV字型に整列して、パイロットに着陸地点を指示している。巨大な白い船は、すぅっと吸い込まれるように彼らの中に下りて行った。飛行船の先端部分から伸びるヨーラインという長い2本のロープを掴み取り、ゴンドラの部分を丁寧に手で受け止めるクルー達。
その様子を、私とシュンは芝生に座ったままで眺めた。
「着陸1年ぶりに見られて嬉しいね!」
「あぁ! 今年は春琉と一緒だから尚更嬉しい」
「うふふ、私もだよ」
肩を寄せ合って、飛行船のお迎え。今まで見た中で一番嬉しい着陸。
「去年も何度か一緒に見たけどさ、俺、着陸や離陸を見ている春琉を見るのがすごく好きだったんだよ」
「え?」
シュンの言葉に、思わず間抜けな声で反応してしまう。
「春琉は去年、飛行船に関する全ての事が初めてだったでしょ。着陸や離陸やローパスなんかを見て、ワクワクしてる春琉を見てるのが俺はすごく嬉しかったんだ。正直、飛行船見てるよりも嬉しかった」
首の後ろを摩りながら、あからさまに照れている様子のシュン。
「そうなの? あはは、そんなふうに思われてるなんて全然知らなかった」
「初々しくて、すごくかわいかったよ」
いたずらっぽい笑顔で照れをごまかそうとしている。かわいいと、いまだに言われ慣れない私はやっぱりどうして良いかわからなくて、ニヤニヤしながら俯いた。さぞかし気持ち悪い顔してるんだろうな……と思いながら。
飛行船はクルー達に囲まれて、ゆっくりとマストに近づけられて行く。マストのてっぺんには“マストマン”と呼ばれる、飛行船とマストの固定作業を行うクルーが待っている。飛行船の先端部分を的確にマストマンに引き継ぐ技術もすごい。
飛行船は、無事に係留された。
クルー達が飛行船を取り囲み、作業を行う。パイロットが2人、ゴンドラから降りてくるのが見えた。お客さん達も間近で見る大きな飛行船に歓喜している様子だ。
私達も、作業の邪魔にならない程度まで近づいて飛行船を見た。下から見上げる楕円形の巨大風船は、今にもはち切れてしまうのではと思うくらいにつるりと丸い。
1年前に笑顔と涙で見送ったSS号が、今また、目の前にいる。この岩水海岸公園係留地にまた、戻って来てくれた。
お帰りなさい。待ってたよ!
……と、私は心の中で言ったつもりだったのだけれど。
「あはは、俺も今同じ事を心の中で呟いてたよ」
シュンが楽しそうに言った。
「え!? 声に出てた……!? は、恥ずかしい」
「はははは! いいじゃん、全然。何もヘンなセリフじゃないし」
何故私はこんなに心の声が本当の声になってしまうのだろうか……。下手な事は考えられないなぁ、と思う。
私は去年まさにそれで、シュンの存在を知る事になったのだ。まだ知り合う前、私とシュンはこの岩水の係留地で、近距離で飛行船をそれぞれ見学していた。強風の日で、あまり近くまで飛行船に寄ってはいけない中、スマホで写真撮影をしていた。私が思わず、もっと近くで見れたらいいのに……と言った事を声に出して呟いてしまったのだが、後日ネット上に公開されていたとある飛行船の動画に、私のその声が収録されてしまっていた。その動画の投稿者こそが、シュンだった。
彼を知るきっかけとなった出来事なので、よかったと言えばよかったのかもしれないけれど、今思い出してもやっぱり恥ずかしい。
「シュンさん、春琉さん、こんにちは」
聞き慣れた声がして、振り返ると橋立さんがいた。
「橋立さん、お疲れ様です!」
シュンが元気に挨拶をする。私も真似をして、お疲れ様です! と声をかけた。
「お2人共大丈夫ですか? 遠い所追いかけて頂いて、お疲れではないですか」
「えぇ。僕は飛行船のためだったら徹夜も出来ますからね」
「私はさっき車の中でちょっと寝させてもらったので、元気です」
私達の様子を見て橋立さんは、お元気そうで良かったです、と言って嬉しそうに微笑む。作業用の黒い大きな手袋を脱ぎ、額の汗を拭きながら。
「シュンさん、実は昨日から気になっていたんですが」
橋立さんは急にそんな事を言った。
「お母様の写真、ネックレスにされたのですね」
シュンの胸元のキーホルダーを見て、微笑んでいる。
「あっ、そうなんです。このネックレス、実は春琉が僕の誕生日にプレゼントしてくれて」
シュンはキーホルダーを触りながら答えた。何故か私は、ちょっとそわそわしてしまう。
「スカイ君につけたままで落っことしたら大変だからって、これに付けてくれて。僕の誕生花のペンダントも付いてて……へへへ、これ、オーダーメイドなんですよ」
キーホルダーとブラシノキのペンダントトップに、大きな手で包み込むように優しく触れる。彼はまた、ちょっとデレッとした顔になっている。
「へぇっ、そうですか! 春琉さんからのプレゼントだったとは。お優しいのですね」
橋立さんからそんな事を言われ、私は照れくさくてエヘヘと笑いながら俯いた。何がエヘヘよ気持ち悪い……と心の中で自分にツッコみながら。
橋立さんはクルーの中で唯一、シュンのお母さんの事情を知っているそうだ。シュンが橋立さんをどれだけ信頼しているかがわかる。
「ちなみに、これは僕が彼女の誕生日にプレゼントしました」
シュンは私のかぶっている帽子に触れる。
「あっ、そういう事でしたか。実は春琉さんの帽子も気になっていたんですよ」
「似合いますよね、これ」
「えぇ。春琉さん、よく似合いますね。とてもかわいいですよ」
橋立さんにまでかわいいと言われ、私は帽子の下でどうしていいかわからなくなっていた。俯く私の顔を、シュンが屈んで覗き込んでくる。
「へへへ。めっちゃ照れてる」
シュンは私の頭を大きな手で優しく包み込む。
幸せと恥ずかしいが入り混じる時って、カップルの女性の皆さんは一体どういう反応をしているのだろう、と思う。私にはどうしても、アハハとかエヘヘとか気持ち悪く笑いながら俯くしか出来ない。
「いやぁ、とても仲が良くて……お2人見てると、僕まで嬉しくなっちゃいます。顔がずっとこのままで」
橋立さんは笑顔のままで自分の頬を軽く叩く。
「へへ……なんか、惚気みたいで嫌っすね」
シュンは頭を掻いている。
「シュンさん、本当に良かったですね。僕はシュンさんの事を4年前から知っていますから……こんな日が来た事が本当に嬉しいですよ」
シュンを見つめる橋立さんの優しい眼差しはまるで、弟を見守る兄のようだ、と思った。
怒られちゃうので一旦仕事に戻りますね! と言って、橋立さんは作業に戻って行った。
「何だか、橋立さんってシュンのお兄さんみたい」
さっき感じた事をそのまま言葉にしてみたら、シュンはとても嬉しそうな顔をした。
「橋立さんみたいな兄貴がいたら、きっと幸せだろうなぁ」
ふと、今までには考えもしなかった事が頭の中に浮かんだ。
「そういえば、橋立さんって結婚とかしてるのかな」
「あぁ、実は橋立さんって既婚者なんだよ」
拍子抜けするほどすんなり知った事実。
「東京に奥さんがいるらしいよ。子供はいないみたいだけど」
「そうなんだ。旦那さんが飛行船のクルーだと、全然会えなくて寂しそう」
私は思わず奥さん側の気持ちを考えてしまう。
「確かにね。橋立さんの奥さんはすごく理解がある人で、安心してクルーの仕事が出来ているって前に話してたよ。休暇で帰った時には必ず2人で旅行に行くらしい」
「へぇ、橋立さんらしいね! すごく優しいもん。シュンと同じくらい優しいよね」
「へへへ、俺ってそんな優しい?」
「うん! すごく!」
そこは自信を持って言えるので、シュンの顔をまっすぐに見上げて力強く伝えた。彼は私の言葉を聞くと、また一気にデレッと表情を緩めて頭を掻いている。
「何だよもう……いちいちかわいいな、春琉は」
「なっ、何で……? 素直に答えただけなんだけど」
シュンに予想外の反応をされ、私はどうしていいかわからずに下を向いた。
周囲でワイワイと賑やかに飛行船鑑賞をしている見学客達と、忙しそうに作業を続けるクルー達と、優しい風に揺れるSS号と、お互いの事しか見えていない私とシュン。
飛行船を近くで見よう、とここに来たはずなのに、私達は一体何をしているんだろう……。