浜風町の夜
岩水海岸公園でまたお会いしましょうと言葉を交わし、駐車場へと向かう橋立さんを見送った。
クルー達はワゴンに乗り込んで係留地を去り、他の見学客達もいつの間にか誰もいなくなっている。ここには今、私とシュンだけ。正確には、柵の中に当番のクルーさんも1人残っているとは思うけれど。
昨年同様で、私は目の前に飛行船がいるとその場から動けなくなってしまう。マストに繋がれた先端を軸にふわふわと浮く飛行船を、このままいくらでも眺めていられそうだ。そしてそれは、シュンも同じようだった。私達は並んで、柵にもたれながらひたすらSS号を見つめる。
「1年ぶりだからかな、なんかいつまでもここにいられそう」
隣で飛行船を見つめるシュンの横顔を見上げ、今の素直な気持ちを言ってみる。
「ホントだな。俺もここから離れたくないわ」
へへへっ、といつもの声で笑う。夕日に照らされる笑顔が眩しい。
「俺さ、前にここに来た時もそうだったんだ。それで、そん時は俺、車中泊して次の日の離陸も見たんだよ」
「えっ、そうなの?」
「たまたまその時も土日でさ。行き当たりばったりだったけど、すごく楽しかったよ」
シュンの言葉に私は、1年前の事を思い出していた。私も、黒汐町に行った日……シュンと出会ったあの日、札幌に帰る予定を急遽変更して、隣町の道の駅で車中泊をした。そうして、翌朝の移動フライトの離陸を見た。シュンと一緒に。
「シュンも車中泊してたんだね。ついつい、離れたくなくなっちゃうよね。もっと見たい、明日も見たいってなっちゃう」
「春琉も去年そうだったよね。ねぇ、もし春琉さえいいんだったら、今日もそうする?」
突拍子もない、と他の人にならきっと思われてしまいそうな事だと思うけれど。
「えっ、いいの!? シュンは明日特に何も用事とかない?」
「ないよ。俺、飛行船シーズンの土日は絶対空けてる。春琉と飛行船のためにね」
また、いたずら少年の顔でへへへと笑っている。何度見てもかわいい顔だなぁ、と思ってしまう。
「シュンがいいんだったら、明日の離陸も見て行きたい!」
「じゃあ、そうしようよ。急遽決定だね」
「わぁ、なんかワクワクするね!」
急遽、一泊する事が決まった。きっと普通に考えたら破茶滅茶な予定。でも、今の私達にとっては、これはごく自然な流れでもある。1年ぶりに再会出来た飛行船が目の前にいて、明日も2人共特に予定もなくて自由。それだけで十分な条件が揃っている。
シュンの車には、窓に貼る目隠し用のサンシェードや断熱シート等、車中泊用の道具がいくつか積まれていた。ブランケットと毛布が1枚ずつあったけれど、夜は冷えるのでもう1枚調達しておこうという事になった。
町の小さなホームセンターへ行き、アウトドア用のブランケットを購入する。私はお金を払おうとしたけれど、シュンに止められた。俺の車に積むものなのでお金は俺が出すよ、と。
浜風町は実は温泉町でもあるらしく、浜風エアポートから続く道をさらに奥に進んでいくと、小さな温泉街があった。シュンは2年前に来た時にもここを利用したらしい。
日帰り入浴が22時までやっているという比較的新しめな宿へ行き、温泉に浸かった。まさか飛行船を見に来て、温泉に入れるとは。入浴に必要なものもセットで安くレンタルされていて、手ぶらでも問題なく利用が出来た。
入浴後、待合スペースにあるソファに腰掛けて、シュンと一緒にビン入りのコーヒー牛乳を飲んだ。それから、館内にあるレストランに入って夕食を済ませた。浜風町は海の町だから、海鮮丼が名物らしい。新鮮な生魚が何種類も乗った見た目も鮮やかな丼がとてもおいしかった。飛行船を追いかけるのに夢中でお昼ご飯を食べていなかった私達は、あっという間に全てを食べ切ってしまった。
広間でテレビを見たり、マッサージチェアを利用してみたりとひたすら寛いで、温泉宿を出る頃にはもう日も暮れて真っ暗になっていた。
「シュンありがとう。飛行船を見に来て、こんないい思いが出来るなんて」
車に乗り込んでから、私は彼にお礼を伝えた。
「へへへ、2年前に来て学習してたからよかったよ。春琉にも喜んでもらえて嬉しい」
シュンはエンジンをかけながら、あ、と言った。
「浜風エアポートの前をどうせ通るから、ちょっと寄ってってみるかい? まだゲート開いてるはずだから」
「うん! 見たい見たい」
私達は夜の飛行船を見に行く事にした。
温泉街から浜風エアポートまでは、車で10分もしないくらいだ。あっという間に着いてしまった。
時刻は20時半過ぎ。駐車場には、当番クルーのワゴン以外車は1台も停まっていない。案内看板によればこの場所は22時までゲートが開いているようで、それまでは出入りは自由らしい。
車を降りて、柵がある方へと進む。街灯などが一切なく真っ暗なので、シュンは私と手を繋いで少し前を歩いてくれた。繋いでいない方の手でスマホを持って、ライトを照らしている。その小さな光は意味がないようにも思われるほど暗いけれど、何もないよりは良い。私も自分のスマホのライトをつけて、協力するように前を照らした。真っ暗闇でもシュンが一緒だと何も不安はなかった。
飛行船は白く淡い光を放ちながら、そこで待っていてくれた。マストにくっついて、穏やかな風に揺られて。
「あぁ、1年ぶりだな、この姿も」
柵に手をついて、シュンは嬉しそうに言う。
「私も嬉しい! 飛んでいる所も係留されている所も、夜の飛行船も、今日1日で全部見られて」
飛行船は夜の間はずっと、船体部分のライトがつけられたままだ。暗闇の中に浮かび上がるその白い楕円形を見ると、私は1年前に初めて岩水で見た夜の飛行船を思い出す。仕事中に札幌の街中でSS号を初めて見つけ、思いを抑えきれずにその日の夜に係留地までわざわざ見に行ったのだった。当時の私は岩水海岸公園を知らなくて、道順を山上係長に教えてもらった。
その日の行動が、私の飛行船ライフの第一歩だった。
「そういえばシュン、今年って動画の撮影してないんだね」
シュンは、動画投稿サイトに飛行船関連のチャンネルを持っている。北海道内で撮影したSS号の姿をネット上で公開するという活動を、2年前からしている。私が最初に彼を知ったきっかけも、そのチャンネルだった。
「うん。動画撮影は、とりあえずもういいかなって」
「えっ? そうなの?」
「うん。俺の目的はあくまで、飛行船を知らないたった1人の人にでも知ってもらえたら、って事だからね。2年間投稿して、そのための動画はもう十分数が揃ってると思うし」
彼の答えを聞いて、ほんの少しだけ寂しいような気もしたけれど。
「何より、今年は春琉と一緒に飛行船を見る事に集中したい。本当はそれが一番の理由だよ」
暗くてよく見えないけれど、シュンは私にいつものいたずらっぽい笑顔を向けている事を感じた。
「そっか……えへへ、そんな事言われたら嬉しいね。でも、本当にいいの? 撮影やめちゃって」
「全然いいんだよ。俺のチャンネルには特にファンもいないしね」
大きな手が、私の頭を優しく包み込んだ。
「撮影よりも、春琉と飛行船見る時間の方が俺には大事だ」
「……ありがとう、シュン」
今はタイミング的に合っているのではないか、と思い、私は勢いで彼の体にギュッと抱きついてみた。でもやっぱり恥ずかしくなってしまって、すぐに離れたけれど。シュンにはそんな私の気持ちが見透かされているようで、ハハハッと笑われる。
「そんな恥ずかしがらなくても。もう俺達7ヶ月も経つんだよ?」
「そうだけどさ……」
もう一回やってよ、なんて言う。私は、無言でもう一度彼にギュッとしてみた。シュンの匂い。服越しでも伝わる彼の体の逞しさ。暗くてよく見えない分、視覚以外で感じる情報をより強くキャッチしている気がする。
「あー、めっちゃ幸せな飛行船鑑賞だなぁ」
「……私もだよ」
シュンにくっついたままで飛行船を見た。静かな夜の中、耳に響いてくるシュンの鼓動がドクドクと速い。
そっちだって、こんな私相手に7ヶ月経っても緊張してるんじゃん!
と、心の中で呟いて、フフッとこっそり笑った。