浜風町へ
5月20日、土曜日。
朝6時半頃、私の住むアパートの前に、白のコンパクトカーが停まった。
「春琉、おはよう」
助手席のドアを開けると、シュンが爽やかな笑顔を見せた。
「おはよう。おじゃまします」
シートに乗り込むと、ふわりとシトラス系の香りを感じる。彼の車には何度か乗せてもらった事があるけれど、私の車よりも広くてとても快適だ。
「昨日の今日で疲れてない?」
車をゆっくりと発進させながら、シュンが聞いてくる。
「うん大丈夫。ちょっと眠いけど」
アハハ、と笑いながら答えた。
「眠かったら、いつでも寝ててくれていいからね」
「大丈夫だよ。ちゃんと助手するから」
アハハ、と今度は彼が笑った。
シュンの首からは、昨日プレゼントしたネックレスがかけられている。彼のガッチリとした胸板の上で揺れるブラシノキと、お母さんの写真入りキーホルダー。
もちろん私の頭にも、3月にシュンからもらったキャスケットがしっかりと乗っかっている。
道南の浜風町までは、高速道路を使っても片道5時間ほどかかるらしい。インターチェンジが手前の町までしかなく、高速を降りてからしばらく一般道を走らなければならないとの事だ。シュンは2年前に一度、浜風町まで飛行船のお迎えに行っていると言う。
デートをする時、私達はその日ごとに車を出す方を入れ替えている。シュンは自分が毎回運転手でも良いと思っているらしいが、私が運転好きなのを知っている事もあり、交代制にしている。今日の行き先は私が一度も行った事のない場所なので、彼に運転手をしてもらう事になった。
「今日、青森から飛行船飛んでこれるといいなぁ」
「ね。風が強くないといいけど」
シュンの運転は、その人柄が出ていると思う。乗っているのが私だから気を付けてくれているのかもしれないが、速度もハンドルの回し方もとても優しい。
シュンと一緒に遠出をするのは、実は初。付き合いを始めて少ししてから、季節は冬に入ってしまったし、シュンの就活や試験もあったので。2人での初めての長距離ドライブが飛行船のお迎えだなんて、とても嬉しい。
「シュン、朝ご飯食べた?」
「いや、どっかで買って行こうかと思ってた」
「実は、いいものを持ってきたんだ!」
私は手に持っていた袋を見せる。中には、個装になった手作りパンが6種類入っている。
「お! それって、春琉の所の?」
「そう。ラビットの手作りパンだよ。焼きカレーパンと、ウインナーロールと、エビカツバーガーと、アップルオープンと、コーヒーロールと、しっとりメープルって言うやつがあるんだけど、どれ食べ」
「おおおめっちゃうまそうっ! 名前聞いただけでよだれが」
説明にかぶせるように大きな声を出す。彼のその反応に思わずまた笑ってしまった。
「今日車出してもらってるしね、私のおごり」
自分の職場の商品で朝ご飯。移動販売員をしている者の特権だ。こういう時にはとても役立つ。
焼きカレーパン、エビカツバーガー、アップルオープンの3つを選んだシュンは、うまいうまいと言ってあっという間に食べ切ってしまった。男の人は、パン3つくらいなら軽く食べてしまうんだなぁ。気持ち良いほどの食べっぷりに感心してしまう。
「何気に初めてラビットのパン食べたけど、超うまいね」
「イーストを使っていないから、ずっしり重くて食べ応えがあるよね。ファンも結構多いんだよ」
私はウインナーロールとコーヒーロールを朝ご飯にして、しっとりメープルは間食用にとっておく事にした。
札幌を出て隣町のインターチェンジから、高速道路に乗った。
誰かが運転する車で高速道路を走るのは、おそらく子供の頃に父の車に乗って以来ではないだろうか。昨年十勝の黒汐町に高速で行った時は自分で運転をしていたし、基本的に私は単独行動ばかりなので、滅多に人と遠出をすると言う事もない。友達が全くいないと言うわけではないけれど。
すごい速さで隣を駆け抜けて行く草木や山。自分が運転している時とは見え方が全く違って、何かとても貴重な映像を見ているかのように感じた。
はじめはワクワクでシュンとおしゃべりしていたけれど、私はいつの間にかついウトウトしてしまっていた。
はっと気がついた時は、まだ高速道路を走っているようだった。
「ごめん、寝ちゃってた……」
「あ、おはよう! 全っ然いいよ」
シュンは明るく答えてくれる。
あれから1時間近くも寝てしまったようだ。日々の疲労の蓄積だろうか。移動販売員は、実はかなりの体力仕事だから。
私はスマホで飛行船の公式SNSをチェックする。ちょっとでもシュンのサポートになる事をしなければ。
私は機械物やネットの事などにはとても弱い。SNSと言っても自分で発信もしないし、フォローしているSS号とシュンのアカウントしか見る事もない。タイムラインには、ずらっと過去のSS号の発言が表示されている。
その中の一番上にあるものが、今日の日付になっていた。
『5月20日、飛行船SS号は青森を出発し、北海道の浜風町に向けて移動フライトをしています』
「あ! シュン、飛行船飛んだって!」
「マジか! やったぁ!!」
私とシュンは片手でハイタッチをした。
これで、SS号をお迎え出来る事が決定した。1年ぶりに飛行船を見られるんだ!
私は、昨年初めてSS号を見た日の事を思い出した。
あの日は仕事で札幌市内のルートを回っていて、大通公園近くの販売先へ行った時に飛行船が飛んでいるのを見つけた。夜の詰め所で興奮気味に葵さんにその話をしていた時に、山上係長が飛行船の事をスマホで調べてくれた。あの時係長は「飛行船SS号、5月20日北海道上陸」と言っていた。何故かはっきりと覚えている。
「飛行船、今年も5月20日に北海道上陸だね。去年と全く同じ」
「え、春琉、去年の上陸した日付覚えてるの? すごいね」
「去年初めて飛行船を見た日に、職場の上司がネットですぐ調べてくれて。その時にそう言ってたのを、何故か私はっきり覚えてるんだよね」
「そうか。春琉の中ですごく印象深い情報だったんだろうね。ファンになりたてで、あれだけアクティブに追いかけてたくらいだもんなぁ」
シュンは嬉しそうに微笑む。私の事も全て、自分の事であるかのように。
あれから1年。SS号を追いかけ始めてから今現在までの間には、本当にたくさん、色々な出来事があった。けれど、振り返ってみるとこの1年は、びっくりするくらいあっという間だった。
シュンとこんなふうになっていなかったら、きっと彼との再会のタイミングはまさに今時期だったはずなのだ。
1年後にまたここで会いましょう、という約束。去年、岩水海岸公園の駐車場で彼とお別れをした時、この約束が守られない未来はない、と確信し、それを希望にしてその日までまた日常を生きていこうと考えていた。
それなのに、実際にはその相手が今、自分の恋人として隣にいる。
飛行船を見送ったあの日から今までの間に、もしも彼と一度も会っていなかったとしたら……。そう考えると、私はかなりゾッとする。
今日は、何だか最高の一日になりそうな気がしてならない。
この後自分が見るであろう光景をあれこれと想像しながら、既に鼓動の速まりだした胸をぎゅっと押さえた。表情が勝手に緩んでしまうのを、私はもう止められない。
私が初めて飛行船を見たのは、小学1年生の頃。
土曜の午後、家の前の空き地で父とキャッチボールをして遊んでいた時に、それは突如現れた。
恐怖にも似たような歓喜。はち切れそうに膨らんだ風船のようだけれど、ラグビーボールみたいに横長で、下に四角い箱のようなものがくっついていて。それまでに見た事のない形の謎の飛行物体は、一気に私の心を鷲掴みにした。
飛行船をまた見たい!
溢れ出す思いを口にすると、父は大きく頷いてくれた。
春琉がそう願っていれば、いつか必ずまた会えるよ。
その言葉を強く信じて、私は願い続けた。そして、いつの日かまた一緒に飛行船を見に行こうねと、約束をした。
私が信じた父の言葉は本当の事だったけれど、交わした約束が果たされる事はなくなってしまった。
私が今飛行船を追いかけ続けているのは、飛行船が大好きだからだけれど、きっとその出来事が背景にある事も事実だと思う。