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Ⅰ‐2:ギャーッ!?



<ごいりょくのないあらすじ>


 なんかの会社のとある仕事中、ちょっといろいろとヤバくなった女は、なんとかゴミ箱の中の異次元ゲェト的なものを開き、いい感じに空を飛んだり押し潰されたりして、ようやく目的の場所へとたどりつく。そこで女を迎えたマスタァになんやかんやお世話になり、話の流れでなんか知らんがめちゃヤババな現状を詳しく聞いてもらうことになったのであった――



 




 ――その、なんと言いましょうか。昔っから私、ふとした瞬間に、誰かから見られてるって感じることがあって。

 それはたとえば、朝目が覚めたとき、砂場で遊んでいるとき、登校しているとき、飲み会に参加しているとき、果てには用を足しているときや風呂に入っているときでさえ。

 いつでもどこでも何をしていても、私を見透かすような視線が、頭のテッペンから足の裏まで、身体の隅々に突き刺さるんです。けれど、どんなに周囲を見回しても、そこにはなにもいない。

 一度、母が持っていた『人具』を借りて、視線の発生源に向けて振り回してみたりもしたんですが、手応えはなし。視線が消えることも、なんかしらの反応が生じることもありませんでした。


 ……それでもやっぱり、『妖』のせいだとしか考えられなくて。いつかに地元の『保安機関』窓口に相談してみたんですが、それらしき痕跡は見受けられないって、首を傾げられちゃいました。

 ちょうど通りかかった『査問官』さんにも詳しく話を聞いてもらえたんですが、「炎雨・散星、いずれも該当ナシっすね……。……すみません、きっとその案件、うちらではお力になれないっす」って謝られてしまいました。これ以上は相手方を困らせるだけだとわかってしまったので、あそこにはそれっきり行ってませんね。


 まあ、つまりどういうことかというと、妖退治の専門家に「おまえのそれは妖じゃないから手の打ちようがないぞ」と言われてしまったわけです。じゃあ、妖でもない『これ』は一体、何なのか。それは、今もまだ、よくわかっていません。


 ただ、これ、気味が悪いことには違いありませんが、今までは無視できていたんです。だって、正体がなんにせよ、対処できないのなら気にしていても仕方ないですから。


 ……けど。

 この仕事に就いてから、ですかね。その、私を見ている相手との距離が、なんだか、より近づいたような気がして。

 たとえるなら、そうですね……。今まで向こうの電柱の陰からコソコソ見られていたのが、今は、ぴったりと背中の後ろに張りついているような感じです。でも、相変わらず、直接干渉したりはしてこない。ただただ、何千万もの虚ろなまなこが、じっとこちらを覗き見て……。

 ……すみません、ありがとうございます。いえ、この程度、なんてことはありませんよ。


 そう、それでですね。幻覚だってのはわかっているんですが、最近は至るところであの目がうじゃうじゃと蠢いているような気がしてきて。

 それが四六時中続くものですから、せめて家でくらいこいつらを追い出したいと思いまして。試行錯誤の末できあがったのが、今の我が家の惨状ってわけです。



 まあともかく、こんな感じで、もうね、最近すっかり気が滅入っちゃいまして。


 ……せめて、あと、正体と目的と弱点さえわかれば。

 それさえわかれば、つもりに積もった恨みを晴らすべく、胸を張って『あれ』を殴り殺しに行くんですけどねぇ……――




「――それじゃあ僕は、田中さんが心置きなくそいつを殴り殺せるように、ちょっとしたお手伝いでもさせてもらおうか」


 女が一度お冷を口に含んだタイミングで、適度に相槌を打ちながら傾聴していたソレは突然そんなことを言い出した。

「どれ、手を出してくれるか」

「はい」

 躊躇いなく女の右手が差し出される。ソレはそれに両の指を添えると、醒めるほどに強い力で、包みこむようにその手を握った。

「……ヨシ、これで完璧」

 幼子の目元を撫でるように優しく、手袋越しに指の腹で薄皮のあたりを擦る。


「これで、この手には今、僕の、おまえさんを守りたいっつー想いが、たくさん詰めこまれたからな。

 もし、また変な目ん玉が出てきても、安心するといい。この無敵の手があれば、そんなやつらなんてへなちょこすぎて、すぐに気にすることさえバカらしくなるさ」

「……マスタァ」


 女の声は掠れていた。

 ソレは面を上げて女の目を真っ直ぐに見据えると、底抜けの自信に溢れた笑みを浮かべた。

「それでも怖くなったら、目を閉じてみるといい。想像するのは……そうだな、目玉野郎の正体を掴んだ日のことにしよう。

 いいか? 憎きそいつを前にしたおまえさんは、その拳で袈裟切り頸折り地獄吊りの三拍子を食らわせてやるんだ。原形なんてわからなくなるほど、そりゃもうコテンコテンのパッキパキにしてやろうぜ」

 そんな物騒なことを言うと、ソレは左の手のひらに拳を打ちつけながら、パチンと華麗なウインクを決めた。

 女は触れられていた手を呆然と見下ろした。何度もなんども、握っては開いてを繰り返し。

 そうして、再びソレとキラリと伝播した自信に目を輝かせた。意気揚々と拳を振るった。

「……ええ、そうです……そう、ですよね……!」

 女が次に顔を上げたとき、その目にはソレから伝播した自信が漲っていた。

「……マスタァ。心強いおまじない、ありがとうございます! ご加護付きの今の私なら、気味の悪い目玉なぞ、それこそ敵にすらなりませんね。この右手と一緒ならどんなヤツも、かのお米の国の大統領でさえ、わたしゃ見事にぶちのめしてみせますよ!」

「ちょっと待った、なんだいその愉快なところは」

「あまり詳しくはありませんが、海の向こうに実在するみたいですよ。鯨が大好きなんですって」

「ほほう。ふりかけにでもして食べるのか……?」

 二人で顔を見合わせ、揃ってさあ、と肩を竦める。思わず気の抜けた笑みが零れた。


 ソレはシャンとしていた格好を崩し、本日分最後の酒缶を空にするべく机上に手を伸ばした。女も食事を再開し、二人の間に穏やかな空気が戻る。

「あと、他に僕が力になれそうなことは……情報収集、くらいか。幸い、ここに来る連中は、おまえさんと同じ島出身のやつらばかりだからな。酔っ払いの戯言から掴めることもあるだろ」

「へぇ、皆さん日ノ本からいらっしゃるんですね。

 そういえば、当たり前すぎて気にしたことがありませんでしたけど。マスタァも、出会った当初から島ことばを使っていましたよね。かつての訪ね人たちから教えてもらったんですか?」

 女の質問に、ソレは一瞬だけ動きを止めた。しかし何事もなかったかのように杯の中身を乾すと、行儀悪く足を組んで頬杖をついた。

「いいや。このことばは、昔、『オーナァ様』に教えてもらったんだ」

「……、なるほど、そういうことでしたか。このお店の持ち主ですもん、只者ではないと常々思っていましたが。もしかしたら、オーナァ様とやらは日ノ本出身の方なのかもしれませんね。とすれば、街中ですれ違っていたり――」


  カラリン カラリン


 鐘が鳴った。


「――あれ、珍しい。同輩でしょうか……マスタァ?」

 突然椅子から立ち上がったソレに、女が声をかけた。しかし、返事はない。

 顔を仰ぐと、ソレの表情には色濃い緊迫が見て取れた。どこか遠くを見るかのような眼差しを玄関口に注ぎながら、譫言のように何事かをぽつぽつと呟いている。


  カラリン カラリンカラリン


「これは……声、か? なんだ、この……

 ……子どもの、」


 続きはなかった。

 ソレは鋭く息を呑むと、玄関扉の方へ、わき目もふらずに駆け出した。

 背後からの鋭い制止が耳に届くよりも早く、黒い指先が扉に触れようとした。


 そのとき。

 


××■××■××■■×■×■ ××■××■××■■×××■×――

 扉が開く。ひとりでに。


 

 その先に広がっていたのは、真っ青な空。

 女は己の目を疑った。玄関の向こうが、まったく別の場所に繋がっている。あきらかな異常事態に愕然としながらも、足は止めずにソレの後を追う。

 ようやく、追いついた。ソレの背中がぐらりと群青の広がる方へと傾いていく様が、やけにゆっくりと女の目に映った。


 ――引き戻さないと。


 女が右手を伸ばす。


 ――この距離なら、きっと――


 ピタリと指先が触れた。

 そのまま、力強く掴んだソレの背中を、




「――××■××■××■×■■×××××■■×」

 トン、と前に押し出した。




 視界からソレが消える。

 足場のない空に放り出され、真下に落ちていったのだ。



「………………エ?」



 混乱のあまり固まった女を閉め出すように、再び扉が動く。

 枠で切り取った空の青が、次第に細く削がれていく。

 ソレが落ちた扉の向こうは、狭まり、狭まって。

 最後に扉はカチャリと音を立てて、沈黙した。


「……え、エ、エえ、えっ、」


 ブレる。

 忙しなくキョロキョロ泳ぐ目玉のせいで、己のしたことのおぞましさに震えが止まらないせいで、見えているものすべてがブレる。


 女は扉に手を付き、力の入らない身体に鞭打ち立ち上がった。


 ――追わないと。

 ――マスタァを、追わないと。


 扉を開く。そこに広がっていたのは、女が辿ってきた道。

 扉を開く。そこに広がっていたのは、女が辿っ

 扉を開く。そこに広がってい

 扉を開く。そこ

 扉を開く。

 扉を開く、扉を開く、扉を開く、扉を開く、扉を開く、扉を開く、扉を開く、

 扉を、開く。

 そこに広がっていたのは、女が辿ってきた道だった。


 その場に崩れ落ちる。


 ――わたしは。わたし、は……、


 ガンガンガンと痛む脳味噌の重さに耐え兼ね、ただ、俯く。


 ――……マスタァは、どこに行った?


 あの現象だけ、なら。心当たりはある。

 なんてことない日常に、突然割り入る別界の光景。

 それは、星空の下で生きる万人に降りかかりうる災害。大いなる気まぐれ、あるいは定められた必然に絡み取られた者たちが迷いこむのは、異次元に浮かぶ世界。


 ――『箱庭』に、引き摺りこまれたのか。


 ありえない。


 ――『ここ』がもう、『箱庭』の中だというのに?


 女は頭を抱える。

 ……真実がどうであれ、そんなことは、どうでもいいのだ。

 マスタァは、無事だろうか。いや、無事でいられるはずがない。あの店から一歩も外に出たことがないというマスタァが。秩序やら律示やら住民やら、おっかないものが蔓延るあの世界で、身を守る術をなに一つ持たず、無事に帰って来られるワケが、


  ポチャン


 女の耳を、静かな水音が撫でた。

 俯いた彼女の視界の端に、人の影と、靴の爪先が割りこんだ。


 ――この、靴。見覚えが……


 弾かれたように顔を上げる。

 直後、その身を襲ったあまりの驚愕に、青い唇をわななかせた。



「……あ、なた、は……――」

 





×■×■■■■×■■×■■×■■■××××■×■■■×■■





 落ちて、落ちて、落ちていく。


 隙間なく青ざめた空が、その顔色を隠すおしろいの雲が、ソレの身体を置き去りにして、上へ上へと流れていく。

 ひゅるりとたおやかな桜の束が冷たい風にさらわれて、凝り固まった空に幾層もの彩光を反射した。

 枝垂れるように落ちゆくその様はさながら、羽をもとから捥がれた妖精のよう。


 一方当の本人はというと、わけのわからぬ現状に目を白黒させて、ついでにこみ上げる吐き気から蒼白になった顔面に脂汗を滲ませているところだった。

 まずい、これは非常にまずい。今にもアルコールで満ちみちた胃の腑がひっくり返りそうだ。このままでは悲鳴の主を探すどころではない、広いお空にゲロリときったねぇ虹を描く羽目になってしまう。

 一体全体、どうしてこんなことに。

 先の出来事を回想してみる。勝手に扉が開いて勢い余って落下しかけたところ、トドメの一撃を背後からドン。あの状況にあの手の感触、下手人は田中さんで間違いない。が、あのとき、彼女は妙なことばを口走っていた。突飛な発想ではあるが、あの犯行は彼女の皮を借りた別人だったと考えた方が、辻褄が合うだろう。ゆえに、田中さん本人が気にすることはこれっぽっちもないが……思いつめていそうでどうにも心ぱ――うぇっぷ。


 ソレは慌てて口元を押さえ、この地獄のような落下の終わりはどこだと目を凝らした。

 遥か下方に待ち受けるのは、地平線の彼方まで続く青紫の花畑。さざめく小さな青鈴たちに紛れるようにして、緑の小丘の頂上に根を張る小木がひとつ、ぽつねんとそこに生えていた。


 ふいに、冷たい雫が頬を掠る。

 飛んできた方向に視線をやると、そこには点々と小さな粒が連なっていた。風に煽られ歪んだその道を辿ると、ひらひらとした赤いかたまりが目に入る。

 ……いや、あれは――


 ――子どもだ。

 まだ年端もいかぬ子どもがひとり、空を落ちながら、静かに泣いている。


 心臓が縮みあがる。パチパチと、耳の裏で奔流が騒ぎ出した。

 ソレは身を捩る。ピンと伸ばした身体をほぼ大地と垂直に傾け、一直線に空を裂いていく。巨大な空気が鞭のようにしなり、耳たぶを千切らんばかりに襲いかかってくる。それでもソレは一度も目を瞑ることなく、真っ直ぐに赤い幼子を見据えていた。


 ぐんぐん、ぐんぐん、距離が縮まっていく。


 伸ばした指が、少女のワンピースを掠め。

 ついに掴み取ると、ソレはそのちっぽけな身体をぐいと引いて、腕の中に閉じ込めた。






 ふわりと触れる、柔らかい温もり。

 それらが闇に沈んでいた少女の意識を包み、思考の海へ浮上させていく。

 ――なつかしい。

 ……なつかしい?

 どうしてだろう。もしかしたら、ずっとずっと昔、こうやって、まるで本物の宝物みたく、大切に抱きしめてもらえたことがあったのかもしれない。……もう、その腕の持ち主を思い出すことはできないけれど。


 少女は薄く目を開いた。チカリと光が弾ける。

 おもむろに顔を上げると、ボンヤリ霞んだフィルター越しに、燃える斜陽のような黄褐色が映りこむ。その言葉よりも雄弁な瞳が、天翔ける一矢のごとき凪いだ衝撃をもって、少女の脳天を射抜いた。


 ――きれいな、ひと。


 自然と溢れ出した涙が黄昏の輝きを映し取り、虚ろだった少女のまなこにきらりと光が灯る。

 今、強くこの身体を抱きしめ、優しく頭を撫でてくれるこの人が誰なのかは、わからないけれど。ただ、己を助けてくれたのだろうと、それだけははっきりと理解できた。

 少女はおずおずと腕を動かして、彼女にとって精一杯の力で抱き返した。それから、安堵に表情を緩めて目を閉じ、ソレの胸元に顔を埋めた。流れる涙がブラウンのシャツに色濃い染みを広げていく。


 その見知らぬ相手にするには大胆ともいえる行動に、ソレは驚いたように軽く目を見張った。しかし突然向けられた無条件の信頼に戸惑ったのはほんの一瞬で、ならばバッチリ応えてみせようじゃあないかと、己を奮い立たせるように口の端を持ち上げる。

 首を捻ると、花に埋没する地上がすぐそこに迫っていた。


 大丈夫。この身体は、いっとう丈夫だから。落下の衝撃で潰れて死んだりはしないはずだ。それに、万が一死んでしまったとしても構わない、少女の下敷きとしての機能さえ果たせれば、それでいい。……その瞬間は、できるだけ痛くないと嬉しいが、さて、どうだろう。


 少女の背中を優しく叩きながら、ソレはいずれ来る衝撃に思いを馳せて、ひそかに身を固くした。



××■××!


 ――?



 ふと、視線を感じた。

 出所を探る。先も見た、あの小丘が視界の端を掠めた。

 花園から小丘に向かって、一陣の風が駆け抜ける。揺れ動いた木の葉の隙間からちらりと、黒い影が、呆然とこちらを見上げていたような気がした。

 しかし、その正体を確かめる術もなく。


 落ちて、落ちて、落ちていく。


 ついに大口を開けた大地がその背中を捉えんとした、そのとき――


  ――パキン

 

  ぐわんっ

「……っ、!」 

 突如宙に現れたものが、ソレの背中を受け止めた。

 どうやら黒い糸で作られているらしいそれは、二人の落ちる勢いを殺しつつ、下向きに伸びていく。

 得体の知れぬ黒網は、バネのように地面すれすれまで伸びきると、今度は蓄えた力を解放するべく、捕らえた獲物をポヨンと上向きに跳ね飛ばした。

 ソレと少女はくるくるくるりと再び宙に投げ出される。ぴったりと影が重なるほどに密着した二人は、放物線を描きながら小丘の近辺まで飛んでいき。


 トスン、と。

 誰かの腕の中に収まった。

 

「……」

 ポカンと晒されたソレの阿呆面を、冴えた宵のごとき黒の虹彩が二つ、開いた瞳孔を携えて無感動に見下ろしていた。


 目が合う。


 しばしの沈黙。

 ソレを見る仏頂面の少年は、瞬きの一つすらしない。一度少女がもぞりと動いたが、漂う微妙な空気をなんとなく察したのか、再びソレの胸を枕に狸寝入りを決めこんだ。


 静寂を最初に破ったのは、ソレだった。喉元からせり上がるあれを押し戻すべく何度か唾を飲みつつ、見知らぬ相手に対して親愛をこめて話しかけた。

「なあ、おまえさん。僕に見惚れちまうその気持ちは、そりゃもう痛いほどよくわかるんだがな。そろそろ下ろし――」

 ソレを支えていた力がふっと消える。少年が手を離したのだ。

 二人分の体重を抱えて尻から地面に着地したソレは、堪らず「い゛ッ!?」と痛みに悶絶した。


 遠ざかる足音。慌てて立ち上がると、少年は既に踵を返し、この場を立ち去ろうとしていた。ソレは速やかに少女を抱っこして回収すると、全速力で少年の後を追う。

 土埃を上げて迫り来るソレにぎょっとしたのは少年の方である。まさか追いかけてくるとは思わなかったのだろう、ヒュッと息を呑み、次の瞬間には少年もまた逃げるように走り出していた。


「オーイ、そこの君ィ! そうそう、そこの、縮毛矯正したウニみたいなトゥルサラ髪が最高にイケてる君のこと! 止まれ、止まりなさーい! ほら、おチビも大きな声であいつに言ってやれ」

「ミアも? ……コホン。とまれぇ、とまりなさぁい!」

「……チッ」


 小丘のまわりを一周二周とぐるぐるぐるぐる、ぐーるぐる。しかしどれほど走れど少年との距離は一向に縮まない。

 終わりの見えない追いかけっこに終止符を打つべく、ソレは少女を右手に持ち変えると、カポッと脱いで浮かせた靴を左の手で掴み取った。革製のそいつを惚れぼれするほど完璧な動作で振りかぶり、少年の背中めがけて投げつける。

 シュッと美しいカーブを描いた靴はパコンと背中にぶち当たり、見事少年は前にのめってすっ転んだ。その隙を逃すソレではない。少女をちょこんと地面に下ろすと、素早く少年の上に飛び乗り動きを封じた。

「やっと追いついた。おまえさん、足速いなぁ」

「……」

「なに、しつこくして悪かったな。おまえさんに、言いたいことがあったんだ」

 少年はあれほどソレに向けていた視線を、今は寄越そうともしない。面倒そうに顎でしゃくり続きを促すだけである。

 その生意気な態度を特に気にしたそぶりもみせず、ソレはあくまで朗らかな面持ちで言葉を続けた。

「ほら、さっきのあれ、僕らを受け止めてくれたやつ。おまえさんがやってくれたんだろ? あれがなけりゃ、僕たちどうなっていたかわからなかったからな。

 世話になった分、ここで礼を言わせてほしいんだ。


 僕たちのことを助けてくれて、ありがと――


 ――うぷっ、」


 ソレが口元を押さえる。駆け寄ろうとした少女を片手で制した。再びぎょっと目を剥き、急いでソレの股下から抜け出そうとする少年に、あら、仏頂面以外もできるじゃん、とどうでもいいことを思いながら――



「――オロロロロロロロ」。



「「ギャーーーーッ!」」

 となりふり構わず叫んだ少年は、己の上で盛大にぶちまけやがったソレを、それはもう全力でぶん殴った。勢いよくメキョリと頭から地面に突き刺さったソレに、少女はまたしても「ギャーッ!?」と景気のよい叫び声を上げる。

 少年が服を見下ろすと、そこにはできたての汚物がべっとり。凄まじい形相で地に埋まるソレを睨みつけた。

「しん……っじられない! よくもまあゲロってくれましたね……! こんな、こんな……っ、親父にもゲロられたことないのに!」

「――プハっ、そいつぁこっちのセリフだボケ! 世界に一つだけの僕をグーで思いっきし殴りやがって!」

 スポンと愉快な音を立てて、ソレは地中から顔を引っこ抜いた。パラパラと土屑を落としつつ逆立ちからくるりと体勢を整えると、すっかり汚物を処分して奇麗になった少年の正面に立ちガンを飛ばす。

「だいたいおまえな、ゲロ吐かれたんなら自前のゲロを倍にして吐き返せよ。なに、上手におゲロりあそばす自信がなかったのか? そういうことだったんならしゃあないな。今度は僕が一から十まで手伝ってやるから、ホラ、腹ァ出せ」

「生憎、私があなたに差し出すものはなに一つだってございませんので。お引き取りください、さもなくばお次は骨が見えるまでサバ折りにしますよ」

「ア?」

「フン」

 少年は鼻を鳴らし、数センチほどの身長差を存分に生かしてメンチを切るソレをうざったそうに一瞥すると、顔も見たくないと言わんばかりに背を向けた。そのまま去ろうとする少年の襟首を、ソレがガシリと掴んで引き留める。

「……」

「……」

 互いに視線で牽制する。直後、合図もなしに、世にも醜い踏ん張り合いが幕を開けた。身体能力が似通っているらしい二人の戦いは、開始直後からかなりの間、拮抗した。この攻勢も劣勢もクソもない争いに一石を投じたのは、意外なことに、ここに来るまで事態を静観していた少女であった。

 小さなお手々が、ちょんとソレのベストを引っ張る。

 何やら話をしたそうな様子である。一度争いを中断すると、ソレは少女の背丈に合わせて膝を折った。その隙に逃げようとした少年を、すかさずくるりと地面に引き倒す。そのまま長い脚で拘束すると、その姿勢のまま少女に「ン、どうしたおチビ」とにこやかに問いかけた。

 少女は少しだけもじもじと組んだ指を遊ばせてから、ソレの耳元にしゃがんでこう言った。

「きもちわるいの、だいじょうぶ?」

 眉を寄せた少女のその言葉に、ソレは目を丸くする。

「おチビ……。僕のこと、心配してくれているのか?」

 少女はこくりと頷いた。

 その純粋な厚意に、ソレは思わず滲むような笑みを零した。それから大きく両手を広げると、にじり寄った少女を抱きしめ、わしゃわしゃと少し雑な手つきで頭を撫で回す。

「ありがとうなぁ。大丈夫、気持ち悪いのはぜーんぶこいつに向けて吐き出しちまったから、今はもう元気いっぱいだぜ。むしろ、絶好調なくらいだ」

「この……ッ! 放しなさい、小間野郎!」

 少年が何やら言っているが、ソレの耳には届いていないらしい。一切構うことなく、少女との心穏やかな対話を続けている。

「おチビは本当に、とんでもなくいい子だなぁ」

「……ミア、いいこ?」

「ああ、それはもう。爪の垢を煎じて飲ませてもらいたいくらいだ」

「……えへへ」

 少女は目元をくしゃりと緩める。それから、こっそりと踵を浮かせて、ソレの手のひらにすりすりと自分から頭を擦りつけた。


 そんな和やかな光景の裏で、ソレの脚により容赦なく締められている少年は、しかし幼い少女がソレの腕の中にいては思い切り殴って飛ばすこともできず、もどかしそうにもがいていた。

 その葛藤を見過ごすソレではない。少女に向けていたものとはかけ離れた、あくどい笑みでかんばせを彩ると、少年にある提案をした。

「僕ぁ性格が悪いんでね。今この状況がそりゃもう愉快なものだから、このまましばーらくは意地でも動くつもりはないぜ」

「殺してもいいですか?」

「だがまあ、今から言う条件を呑めば、すぐにでも解放してあげようじゃあないか。ふふん、僕が大変よくできた性格の持ち主でよかったな。ン?」

「戯言を。

 ……条件とは、一体なんです」

 ソレの陰から、ひょこりと少女が顔を出した。二人の会話が気になったのだろう。

 パチンと少年と目が合った。直後、ふ、と避けるように逸らされる。ガビンと衝撃を受けたらしい少女は、少しの間硬直し、それから何を決意したのかぐっと拳を握ると。

 なぜか、少年の顔が向く先を、しつこく追いかけ始めた。シュシュンと効果音を放ちながら残像を置いて、なんとか少年の視界に入ろうとするその動きは、さながら爆速の一人チウチウトレインといったところか。

 少女の面妖な行動と、それに心の底から困惑しているらしい少年の姿に、ソレは「あッはははは! ゴホッ、ひぃ」と腹を抱えて笑った。途端に強まった抵抗に、拘束を強めて対抗する。

 二重の意味でぷるぷると震えながら、ソレは涙を拭いつつ少年に向けてこう言った。

「ああ、条件ってのはな。


 ボウズ。おまえ、僕たちの案内役になってくれないか」


「お断りします。

 そんなこと、より! この子の奇行を、早く、止めなさい!」

「ヨォシ、そのままやったれおチビ!」

「おまえ。め、あわせろ」

「く……ッ!」

 少年は少女の猛攻から逃れようと必死に首だけを動かしながらも、すげなくソレの提案を拒否した。まあそりゃそうだよなとひとり頷いたソレは、次の手として「こいつはあくまで独り言なんだが」といやにハッキリとした声で呟くことにした。

「もし断られたら、僕ってば悲しみのあまり、ボウズの半歩後ろを永遠にベッタリくっついていっちまうかもなぁ。この話、受けておいた方が絶対お得だと思うんだがなぁ」

「選択の、余地が、ないじゃ、ないですか……!」

「実はさっきのおまえの回答、耳クソが詰まっててよく聞き取れなくてな。いやぁ申し訳ないが、もう一度だけ、答えてもらってもいいか? 


 ボウズ。僕たちの案内役になってくれ」




「……………………いいでしょう。


 はぁー……。そんなにお困りなら、仕方ありませんね、引き受けてあげますよ、ええ。精々、誠心誠意、額を地に擦りつけて、心優しーい私に、感謝することですね」


 少年の言葉を受けて、ソレはあれほど頑なだった拘束をあっさりと解いた。そして、見るだけならば神秘的なその目をきらりと輝かせて、調子のいいことをぺらぺらと喋り出す。

「エッ! ちょマジぃ? いやぁ、本当に引き受けてもらえるとは思ってもみなかったわ。ココロやさしいボウズよ、この度はどうも、あ・り・が・と・な――」

「やかましい」

「――ガフッ」

 自由を得た少年の拳が炸裂する。見事に吹き飛んだソレを、少年は心の底から鼻で笑ってやった。

 パンパンと汚れを落とすように手をはたいていると、目の前で小さな子どもが大きく腕を振った。なにやら話しかけてもらいたそうなその仕草に、仕方なく声をかける。

「どうかしましたか、そこの」

「……おめめ、あった……!」

「…………案内する相手を、見失う訳にはいかないでしょう」

 少女はお間抜けな顔のまま、スッとソレが飛んでいった方向を指さした。

「ああ。あれは別に、いいんです。どうせあっちから私の視界に入ってくるに決まってますから」

「おう、よくわかってんな」

「ホラ」

「おお……!」

 少年がビッと親指で示した先に、本当にソレが現れた。あれほど派手に飛んでいったというのに、少し髪が乱れているくらいで、怪我は一つも見当たらない。

 少年は腹立たしそうに深い溜息を吐くと、ついでのようにポカリとソレを殴ってから「いでっ」、丘の頂上に身体を向けた。


「黙ってついてきなさい、そこの阿呆と赤ワンピース」


 そのままさくさく、と芝生を踏んで丘を登り始める。ソレと少女は顔を見合わせると、仲良くお手々を繋いでえっちらおっちらその背中を追いかけた。途中で振り返った少年が、少女の小さな歩幅で歩く二人に気づき、しばらく足を止めてから、今度はゆっくりと歩き出す。


  さくさく、さくさく


 三人の後ろに広がるのは、地の果てまで埋め尽くすブルーベルの群れだった。高らかにリンと鳴る彼女らが身に纏うのは、染み一つない青のマーメイドドレス。小指大ほどの花びらがささやくお喋りを、緑の観客たちが平行脈の席に並んで見守っている。

 少女が、ちらりと後ろを盗み見る。

「おチビ、どうかしたか?」

 少女は首を横に振った。


  さくさく、すたすた ……


 ――ぴたり。

 少年の足が止まる。

 隣に並んだ二人も、つられて足を止めた。


 各々が踏みしめる小丘の頂。そこには、一本の木が佇んでいる。

 それは、奇妙な造形をしていた。ところどころ曲がりくねった枝葉に加え、木の表面にぐるぐると歪な「うろ」がついているのだ。それも一つや二つではない、太い幹から細い枝先までを覆い尽くすほどのおびただしい数の「うろ」たちが、黒々と空いた穴の底から、余所者たちをじぃ、と観察している。

 それから、木の根元にも何かがあるようだ。手折られた見覚えのある青い花の束が供えられた、それは――

「石板?」

「……おはか、かも。おとしとおなまえ、かいてある」

「オハカ……」

 ソレは前に歩み出ると、膝を着いてそこに刻まれた記号を読んだ。


〈 EVIE HILL 1877‐1899 〉


 指の背を顎に当てて沈黙するソレの隣で、少年は無言のまま腰を落とし、冷たい石に手を伸ばす。そのまま何をするのかと思いきや、窪みに指を引っ掛けて、墓石をぐいと持ち上げた。ピシリと固まる少女をよそに、ソレと少年が中身を覗きこむ。

「こいつは、空洞……なの、か?」


 それは、「うろ」と同じ色の闇で満たされた、ほらあなだった。


 遅れて少女が恐るおそる墓の中を見下ろして、その中身が予想と違っていたのか、きょとりと不思議そうに首を傾げた。

 呆けたように顔を見合わせるソレと少女を一瞥してから、少年は一切の躊躇いなくその孔に片足を突っこんだ。

 そのまま全身を滑りこませようとしたところ、

「いやいや待ちやがれ」

 全力で妨害された。

 ガッと抱き着いてきたソレに顔を顰めた少年は、腰に巻きつく腕を掴み、力づくで引き剥がしにかかる。

「なんです、邪魔しないでください」

「せめて! この先に待ち受けているのは何なのかくらいは教えてほしいねぇ! ……危ないところじゃないのか?」

 少女も賛同するようにこくこくと頷いた。

「……はあ? 「危ない」? あなた、誰にものを言ってるんですか。この程度の箱庭、私の身に傷をつけることなどできやしませんよ。ゆえに、あなたたちが恐れるべきものもありません」

「ちょっと待て! 箱庭ってなんだ! それになボウズ、そのセリフは本当に強ぇヤツしか言っちゃいけないや――あだっ」

 息をするようにポカリと一発。一瞬だけソレの力が緩んだ隙に、少年はさっさと暗闇の中に下半身を突っこんでしまった。

「「ギャーッ!?」」

「うるさいですよ。ほら、さっさと入ったはいった」

 少年は、叫んだ二人を闇の中で見失うことがないように、その手首をグワシと掴むと、仲良く三人一緒に、墓あなの中へと飛びこんだ。


 こうして三人は、互いの名前も知らぬまま、出会いの花園を発つこととなったのである。




■■×■×■××■×■×××■××















 トプン、とソレの足先までが完全に暗い底に沈み、しばらく後のこと。

 あるとき、青い花々が一斉に、いっそう高い声でさざめいた。そんな彼女らの歌声は天を衝き、だんだん細く衰えていき、そして、道半ばで消え失せる。

 そこからさらに遠いところ、無音だけが周囲を支配する空の上には、キョロリ、大きなお目々のバケモノが息づいている。


 それは、己の世界によそものがいるに気づきながら、特に何をするでもなく。

 手が届かないあの場所の、ずらされた墓石と、その先の闇を、ただ静かに見下ろしていた。



 


・団子:マスタァ突き落としちゃったね。誰か目の前に立ってるね。これからどうしようね。今幕はこれにてクランクアップ。


・??:……。



<箱庭三人衆>


・××:私がゲロりました。人によって態度が変わりすぎることに定評アリ。ただし職業柄酔っ払いには等しく優しいので、優しくされたいあなたは酔い潰れるまで酒を飲もう。


・少女:よくわからん内になんかやべぇやつらと出会っちまって、とてもご満悦。赤いフリフリのおべべがキャワワのワ。


・少年:私がゲロられました。汚れたおべべはパキンと新しいやつを作ってなんとかした。本当に強ぇヤツなのかどうか、現時点ではまだ不明。



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