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Ⅰ‐1:どうやら別件のようだね。

 黄ばんだキィボォドを打ち鳴らす。

 鈍痛を訴える眼をしぱしぱと重い瞼で擦る。

 それでも疲労はとれない。四隅が黒ずむ視界に、反射した社内電灯とボンヤリ浮かぶ己の影が飛び込んできた。電子板上の羅列たちは、頭のお外を元気いっぱいに駆けるばかりでちっともうんともすんとも言ってくれない。エぇ、つまるところなんと言いましょうか、私はデンデラ主任のデテクル案件を担当しておりまして、あなたたちに構ってる余裕なんてこれっぽっちもございませんので御座います。シッシッと振りほどいたはずの指はいつの間にやら沁みついた動きを一寸の狂いもなく絶賛再三解散中、一から五番の重役会議は支給された肉厚ブロックを閣下閣下と叩き続けている。


  りりり りりり りりりり ……


 電話だ。液晶がやかましい。点滅、点滅、点滅、点めア、呼び出し音が鳴っているのネ。 

 なるほど映し出された数字に涙袋は命からがら大決壊、勤務時間が延びて延びてのびのびたが踊る打刻画面からパカンと現れたのは青ダヌキの踊り食いであった。これはもしや縁起物だろうか?

 頭蓋ダムの罅にそびえ立つ除夜のディンドンにて。水平に浮かぶ前頭葉法師の御頭を以て勇気の鈴が凛凛々され始めたのを、この場において他称女である女はピョィイインッと誰よりも一早く察知した。


「――い、鳴っ――よ。――?」


 とりどりにちぢれた坊主頭がパカカカカンと御開帳。

お脳味漿励賞はお飛沫お上げお焚き上げ、お天道様から高天原にふる村人Xお光線により、どこもかしこも炙りカルメするめパルムの様相を呈していた。

 そんなこんなで結局最後まで取り残されるのは、臆萬ヘルツのすすり泣きなのである。――おやまあピザァラ、なんてこったい!――

なけなしの薄膜に根を張りやがるグラデイションが搾られた青い項を絞め上げて、それがなんとも産毛魚鱗のそっくり産だったものだから、アレアレアレマ、これではいけない、いけッ?、ナァイナイ!

「……チャピチャピピぽチャピぽピピチャピチャぽチャチャぽ……」

 女は腰にしがみつく回転椅子をあらん限りの力で振りほどいた。とある衝動に胸を貫かれ、満を持して立ち上がったのである。

「……チャピチャチャぽピチャピピピぽピチャピピチ、ャぽ。


 ヵキョッ!」


 それは咆哮であった。

 のちの証言によると、肛門を切ったコアラの奇声に限りなく近いものだったらしい。

 女は悲憤悲憤と奮い立ち、諸悪のキィボォドを電気線ごと引き千切った。お壊し申し上げちまったそいつを片手でひと掴みすると、お口の中で唱えますは悪霊退散南無阿弥陀仏、無機無機の脂跡を空高く振り上げて、いとやかましきテレッフォンに誠心誠意叩きつける。


  バギョッ


 舞い上がるキィボォド。真っ二つに折れたそれの片割れが、向かいのデスクで眼鏡用クロスをキュッキュと上下していた男の頬にのめりこむ。「あだっ」

 女は掴んでいたもう片方をポイと放ると、引き出しに隠してあったとあるものを鷲掴み、職場内の視線を一身に集めながら疾風の如く駆け出した。



「口ヰェェェェエエエエ工工工工工工工工工工工!」



 その女は、

 勢いそのままガラス窓を突き破り。

  パリンッ

 青空の下に身を躍らせ。

  バピンッ

 一直線に落っこちた。

  チュンッ





「……せ、せせせっ、


 センっパァーイ!?」


 後輩が叫んだ。

 一連の奇行をちょうど真横で目撃してしまった後輩は、驚愕のあまり零してしまった卵ボォロを拾い集めつつ、慌てて破れた窓に駆け寄った。

「センパァァァイ!」

「新人ちゃん、どうしたの?」

「部長!」

 後輩の肩をぽんと叩いたのは、この職場の長である部長だった。彼々女は片耳イヤフォンを外すと、慌てふためく新人を落ち着かせるように優しく微笑む。

「どうしたの。そんなに叫ぶと、喉が潰れちゃうわよ?」

「大変です! 団子先輩があらぬ場所からトンズラしやがりました! 自分、あとを追います!」

「追わなくていいのよ?」

 部長は、窓枠に片足をかける後輩に鈴を転がすような声でそう言うと、せっかちな新人を片手でグワシと掴んで止めた。青筋が浮かぶ腕の力強さたるや、後輩渾身の抵抗を物ともしないほどである。

「いえ! 自分、後輩ですので! 先輩の安否確認はお任せください! 部長は自分どもの残りの業務を、どうかよろしくお願いします!」

「あなたのその厚かましさ、わたしは好きよ。ただ……」

 部長はちょいと首を伸ばして落下現場を覗いた。そこには粉々になったガラス破片と、慣れたようにそれを片づける清掃員がいるだけで、女の痕跡は死体どころか血の一滴すら残ってはいない。一応大通りに面する場所ではあったが、通行人の被害もないようだ。

 部長はこちらを見上げて手を振る豆粒大の青帽子さんにしっかりと頭を下げてから首を引っ込めると、今にでも飛び出してしまいそうな新人の頭にゴツンと拳骨を落とした。

「ッ!」

「ここから落ちたくらいじゃ、確認なんて必要ないわ。そもそもあの子は足が速いから、もうとっくにどこか遠くに行っちゃってるわよ? ほら、諦めてお仕事に戻りましょ」

「ぶちょ……っ、くっ、センパァァァァイ!」

 イヤフォンをはめ直してしまった部長に、その叫びは届かない。逆らえない力でズリズリと引き摺られ、強制的に自席に戻された後輩であった。


 一仕事終えた部長と、そんな彼々女らの様子を見守っていたその他の社員たちは、何事もなかったかのように各々の作業を再開する。

 先輩のトンデモ行動があったにもかかわらず、全員のこの落ち着きっぷり。怪訝に思った後輩は、斜め向かいの、頬に湿布を貼り付けた男に話しかけた。女の近くにいたばかりに不運な事故に見舞われた、あのかわいそうな男のことである。

「眼鏡さん、眼鏡さん。さっきのあれ、ぼくは初めて見ましたが、もしかして、慣れたもんだったりします?」

 男は罅割れたレンズをキュッキュと拭きながら、こう答えた。

「ああ、そうだな。あいつのあれは、もう五、六回目になるかな」

「まじすか」

「安心しろ、毎度翌朝にはケロッとした顔で戻ってくるから。めちゃくちゃ美味しい詫びの品を携えてな。どうした、心配か?」

「……ハイ、そうですね。あんな理性の欠片もなく、取り乱して……。その、もしもがあれば、いくら先輩と言えども、あっけなく死んでしまいそうで」

 少しばかり顔色を悪くしてそう言った後輩に、男はほほうと眼鏡を撫でた。

 なるほど、部長にはあんな調子のいいことを言っていたが、どうやら本気で団子の安否を気にかけているようである。

 男はキュっとレンズに磨きをかけつつ、健気な新人の不安を取り除いてやることにした。

「大丈夫、きっと安全な場所にいるさ。あくまで憶測に過ぎないがな、さっきのあれは、一種の防衛反応なんじゃないかと思うんだ」

「防衛反応、ですか」

「ああ。あいつがああなるときは、きまって元気がないときだからな。きっと、日頃からいろいろと、気が滅入るようなことを抱えてるんだろ。

 それが積もりに積もって自分諸共爆発する前に、逃げ出したんだよ。今はきっと、安心できる場所に駆けこんで毒抜きでもしてるんじゃないか?」

「言われてみれば……」

 確かに最近、少し様子がおかしかったような。

 後輩は得心した。ならば、自分の出る幕はない。たとえ駆けつけたところでお邪魔虫になるだけだ。ここは大人しく、先輩の分の仕事を肩代わりしておくとしよう。

 ヨシと深く頷いて、後輩は男に頭を下げた。

「お話ありがとうございます、眼鏡さん!」

「おお、気にすんな。今日頑張った分は、明日の巡回であいつにしっかり奢ってもらえよ」

「ハイ!」

 威勢よく返事をする。

 席に戻った後輩は、まずは敬愛する先輩が作っていた資料の引き継ぎ、もとい怪文書の修正に取りかかった。


  りりり……


 電話だ。後輩は、右手でキィボォドを叩きながら受話器を手に取った。



「こんにちは。お電話ありがとうございます、

 こちら膾人具宮式会社仲介担当でございます。

 本日は――」






■■×■■■■×××××■×■×■■×■■×■×■■×××■×






 走る、走る、走る。

 あの場所を脳裏に浮かべて、ひた走る。ときに人ごみをすり抜け、「ハァ、」、ビルの壁を踏み「ハァ、」、車の屋根を横断して「ハァ、」。

 そうしてようやく辿り着いたのは、埃と錆に囲まれた、一見なんの変哲もない路地裏であった。金属管が隙間風の喘鳴につられてカタカタと笑い声を立てるその空間に、これまた平凡な丸型ゴミ箱が一つ、端の方にひっそりと置かれていた。

 女は破れかけの張り紙でべたつく蓋に手を伸ばし、じ……と内側を覗いた。

 それから何をするかと思えば、突然積み上がったゴミの山に腕を捻じこんで。汚れることもいとわずになんとか隙間を作ると、その穴とも呼べぬ穴の中に、勢いよく頭を突っこんだ。


 ……しばしの沈黙。

 物陰に息を潜めるまあるい光が、みぃ、と静かに揺れた。


 女のこめかみに冷たい汗が流れる。

 おかしい。前回も、前々回も、そのまた前回も、これで会いにいけたのに。

 袋から漏れた変な汁が顔に垂れたことにも気づかず、女ははてと首を捻るばかり。一体、なにが足りないのだろうか。勢いか、芸術点か、それとも両方か。

 女はがばりと顔を上げた。いたって冷静に正気ではない彼女は、にわかに壁面の配管に手をかけると、そのまま垂直に上り始めた。

  カン、カン、カン……

 みぃみぃと戸惑う声も、なんのその。女はリズミカルにテッペンまで上りきると、屋上の縁に立ち、ガバリと両手を広げて空を仰いだ。

 奇麗な空だ。お天道さまが幅を利かせて真っ青に染まる中で、遠く遠くのとある星が、チカリと一度女の眼差しに応えるように瞬いた……ような気がした。

 女は無性に嬉しくなり、笑った。

 ついでに、踊るように足を踏み外す。

 諸手を上げた重力が、宙に投げ出された身体をこれでもかと引き寄せる。本日二度目の自由落下、けれど今回は、着地の姿勢は取らない。

 迫る地面。このまま落ちれば、もうすぐゴミ箱に突き刺さって死ぬだろう。


 ゴウゴウと耳たぶを引き千切らんばかりに吹きつける音に紛れて、

  みぃみぃみぃ

 と、慌てふためく鳴き声が聞こえた。





  くァ。は





 その瞬間、全身が粟立つ。

 アア、そうそう、これ、これ、この感覚。

 ――よかった。なんとか今回も、会わせてくれるみたい。

 女はきょろりと目だけを動かし、物陰の声の主に向けて「ありがとう」と唇を動かした。

 直後、女の身体は突如現れた奇妙なひずみに吸いこまれ、跡形もなく消えてしまった。


 カタつく静寂を取り戻した路地裏。

 物陰の影はまあるい光をパチリと一度瞬かせて、それからピぃ、とため息のような鼻息を吐き出すと、何事もなかったかのように瞼を閉じた。






×■■××■■■■■×■×■××■■×■■■■■■×■■×■■××?






 ――これは、春のにおい。


 行列アリの足踏みが聞こえる。そよ風が睫毛の先を撫でる。


 ――これは、私の知らない、春のにおい。

 けれど、どうしようもない懐かしさを覚えるのは。ここが、顔も知らぬ誰かさんの、思い出の中の景色だから。……なのかもしれない。


 草間から漏れる日差しに呼ばれて、女は目を覚ました。


 ぐらぐらと痛む頭を押さえ、周囲を見渡す。視界を緑で埋め尽くすのは、女の背丈よりも高いタンポポ林。よく見上げるとお花の下には緑のバサバサがくっついているので、これらはみんな、セイヨウタンポポというやつだろう。

 女はよっこいせと立ち上がると、まずは葉っぱから茎へと飛び移った。そのままエイサホイサと上りつめ、頂上の花弁に立つと、今度は向こうに見える綿毛を目指してピョンピョコ跳躍を繰り返す。


 ようやく辿り着いた綿毛から一つの小花を毟り取り、種と柄の間を握りしめる。

 ピョウ、と風が吹く。黄色の群れが揺れ、綿毛の花がほどけると共に、小花を掴む女もふわりと空に浮かび上がった。


 ぷらぷら、身体を揺らして空を滑る。本当は、地上を歩いて行けないこともないのだが。巨大な虫やらミミズやらと遭遇してしまうので、結局は空を飛んだ方が早いのである。

 温かな息吹が、背中を押す。

 この風は、道しるべだ。初めてここに来たときも、風のたよりに導かれて、あの場所に辿り着いた。

 途切れることのない春風は、この不思議な世界を隅々まで渡り、見つけたすべてをその腕に抱いて、最後には、必ず『あの人』のもとへと舞い戻るのだろう。どこからのもなく聞こえてくる弾んだ吐息は、きっと空耳などではない。


 タンポポ畑を抜けると、そこには洞窟が待ち受けている。

 天井を覆うコウモリや形だけの死体にたかる幼な虫、堂々闊歩するゴキブリに、白みを帯びた盲目虚弱な生き物たち。そこらにはびこる凄まじい悪臭に、女は息を止めて目をつぶった。


 そこに暮らす彼らですら手が届かないほど奥の暗がりに、あの場所への入口はある。

 音すら飲みこむ闇をしばらく進むと。

 突然、プツンと何かが切れる音がして。

 それから膜のようなものに押し潰される感覚がやってくる。

 ほら、きた、


  ギュウ ギュウ ギュウ ギュウ ギュウ ギュウ ギュウ ギュ――


 ――……ようやく、圧迫感が消えた。


 闇に慣れた目が、淡い光に焼かれる。痛みに視界を塞がれながらも、ついに目的地に辿り着いた歓喜で、女はふるりと背筋を震わせた。

 足が地に着く。

 一度、二度、深く呼吸をして。


 ゆっくりと、目を開いた。


「…………」

 女の口から、か細い息が吐き出される。


 幻想郷とでも、表せばよいのだろうか。

 天に悠然と弧を描く銀糸の太陽は、うつろう織り目がはっきりと見えるほどに近い。熱を忘れた陽の輪はしんしんと降り注ぎ、万物の輪郭に濡れた暁の柔らかな輝きを纏わせる。静謐に満ちた空気は、吸いこむたびに生温かな肺を凍りつかせていくようだった。


 道なす薄氷を踏む。沈みこんだ冷塊は泡となり、地に横たわる泉の裏で崩れるように溶けていく。

 裏。

 水面の裏側。そこに女の像は映らない。水の境界の向こうで人知れず咲き誇るのは、神貌縹渺たる菊の海。真っ直ぐに立つそれらの合間を縫ってはらりひらりと流れる筏は、『あの人』の髪と同じ、白照りの淡紅に染まっていた。

 花があれば根もあるもので、白群の膜からこちら側に顔を出す細筋は互いに睦まじく絡みあい、土もなしに形を保つその姿からは、見渡す限りびっしりと生え揃った鍾乳石を連想させられた。


 踏み外せばまず助からないであろうその道を、女は一歩ごとに足を止めながら、俯きがちに歩いていく。指一つ動かすことにさえ、首筋に刃が添えられているかのような恐怖が付きまとう。

 しかし、そんな並外れたおそれも、あの建物を目にした途端、跡形もなく霧散した。

 女の瞳孔が開く。次の瞬間には、真っ直ぐにそれだけを見据え、全速力で走り出していた。


 …………


 水平線から天上にかかる水簾を通り抜けたところに、その酒場はあった。

 翠の蔦が這う外装は、影を帯びたくるみの木を基調としており、その意匠は西にある外つ国の文化を思わせる。ひょっこり突き出た煙突の中には、太陽から伸びる梯子が一筋、かけられていた。店の中に入れば一目瞭然だが、あの梯子の先には、暖炉を模したただの玄関が備え付けられている。聞いたところによると、毎朝そこから訪ねてくるという常連さんがいるらしい。きっとそいつは、『ここ』の住人だろう。

 軒天の下に立つ。

 呼び鈴代わりに、ぶら下げられたランタンをちょんとつついた。

  カラリン、カラリン、

 その鐘は、まるで妖精たちの遊び場に垂らされた一粒の雫のように、澄んだ音色を奏でた。撫でるように渡りゆく福音が、『この世界』に反響する。

 うららかな大合唱がやまないうちに、女は両手を艶やかな玄関扉の握りに添えると、体重を乗せてぐいと押した。


  ふわり


 扉の隙間から漂う、ほのかな酒精と森の木々、それからどこか懐かしい夕暮れ時のにおいが、ぬるい風となって女を包む。じんわりと胸いっぱいに沁みていくそれらに、ツンと目と鼻の奥が痛んだ。

 店に足を踏み入れる。

 穏やかな温もりに満ちたテノールが、女を迎え入れた。





「ようこそ、こんにちは。親愛なる迷い子さん」




 

 バーカウンターの裏。

 女を歓迎するように両手を広げて、ふわりと笑ってみせたのは。


「ま゛ぅっ、ま゛っぁ、ま゛ぁずだぁぁぁぁぁああ!」

「はいはい、田中さんがだーい好きなマスタァだぜ。

 

 っと、溶けるなとけるな」

 しゅわりと人間から出てはいけない音と共に、女が膝から崩れ落ちた。ソレはカウンターテーブルを飛び越えて駆け寄ると、慌ててその身体を支える。

 よくよく様子をよく見ると、女が両手で顔を覆い何か呟いている。ソレが聞き取ろうと耳を寄せると、「ぽぽピぽピぽピピぽぽぽピぽピピ……」駄目だ、壊れてしまったらしい。

 ソレはひょいと脱力しきった身体を抱えた。

「しけったマロニィ様一丁、ソファ席にご案内ぃ」

「みぃ」

 ソレは音も振動もなく移動すると、女をふかふかの座面に横たえて、断りを入れてから靴を脱がせた。伊達に毎日酔っ払いどもの面倒をみていない、惚れ惚れするほどの手際であった。

「ここまで来るのに疲れたろ。あったかいおしぼり、顔に乗せるか?」

「おっ、んぐぉ、おねがいします……」

 化粧が崩れてしまいかねないことに一瞬躊躇したものの、今までの醜態に比べたらスッピンなぞ恐るるに足らず。女は強引に己を納得させてから、力なく頷いた。

 ソレは「ン、了解。ちょっと待ってな」とカウンターに向かうと、お冷とおしぼりを手に戻ってきた。ほかほかと湯気を立てる布を広げて半分に折り、「いくぞー」とひと声かけてから、ふわ、と女の目元を覆う。


「ぅアー……」


 その低い呻きは、腹の底から毒素ごと絞り出しているかのようであった。

 それからしばらくもしない内に、すぴょ、すぴょ、と静かな寝息が聞こえてくる。

 ソレが女の顔を覗くと、もうよだれを垂らして熟睡している。


 ――こりゃ相当お疲れみたいだな。

   休んでもらってる間に、なにか精のつくもんでも作るか。


 くたびれたスーツの上に毛布をかけて、ソレは店の裏へと向かっていった。途中、カウンターに並ぶ長脚の椅子に寝そべり、おもちゃのような牙をくありと見せつけるようにあくびをした相棒に話しかける。

「つむぎ。今からちょっとだけここを離れるから、田中さんのこと、お願いしてもいいか?」

 その小さな生き物は、ソレの言葉にぷい、と顔を背けた。

「み」

「そんなつれないこと言ってくれるなよ。ほら、あとで思う存分僕の髪をぐしゃぐしゃにしてもいいからさ」

「……みぁ」

「ふふ、ありがとう。つむぎは頼りになるなぁ」

 ソレに首のあたりをうりうりと撫でられて、つむぎと呼ばれた子猫は満更でもなさそうにピスと鼻を鳴らした。ご機嫌に椅子から飛び降りると、ぽにぽにとかわいらしい足音を響かせて歩き出す。

 ソレはまんまる尻尾の行方を見届けてから背を翻した。奥の厨房に足を向けつつ、頭の中で献立を考える。

 精のつくもの。それでいて、弱った身体でも無理なく食べられそうなもの。


 ――ウン、そうだな。あれにするか。

   具材は日持ちしないやつで揃えて――……

 

 …………


「みぅ」

 ゲシッと決まる猫パンチ。

 女は微睡みから覚めた。

 どうやら、おしぼりを払い落されてしまったようだ。床でしわくちゃになったそれを拾いつつ、のそりと上体を起こす。つられてずり落ちた毛布に、思わず口元が緩んだ。マスタァがかけてくれたのだろう。

 使い終えたおしぼりを丁寧に畳みつつ、女は内心首を傾げた。はて、どうして起こされたのだろうか。

「あの……。つむぎ、さん?」

「……」

 無視である。視線すら合わせてもらえない。

 ぬいぐるみのように愛くるしい見た目をしているはずなのに、その佇まいから発せられるお局のごとき威厳に、女はかの部長の影を重ねて勝手に気圧されていた。

 実は、このマスタァの相猫に邪険にされるのはいつものことで、話に聞くかぎり、マスター以外のほとんどの人にはこんな感じなのだそうだ。おそらく、今回はたき起こされたのも、『あんた、えらい鼻提灯を作るのお上手なんどすなぁ。いちびりやわぁ』といったところだろう。おそらくだが。

 女の脳裏に、かつて味わった冷たい眼差しの数々が浮かび上がっては消えていく。


 ――……しかし。だが、しかし!


 近くに訪れるであろう未来を想像し、女は心の中でほくそ笑んだ。

 今日の私は一味違う。今に見てろよ仔猫チャン、と声には出さず呟くと、こっそりとポケットに手を伸ばした。かさりと指先に触れるのは、職場の引き出しに常備していた、細長くて赤いパッケェジのあれ――液状おやつのちゃおちぅるである。

 今日こそは。今日こそは、こいつを使って気難しいお局サマを懐柔してやるのだ。

 赤い袋をチラリと見せる。子猫はぴくりと鼻の頭を震わせると、ピンと耳を横に寝かせて、低い声で唸り始めた。女の秘策に気づいたのかもしれない。そのあまりの剣幕に、女もぴたりと動きを止めた。

 両者の間に、緊張が走る。

 先に動いたのは女の方だった。そのかさついた指先がちぅるを挟み、赤い封を切らんとした、そのとき。



「お待ちどおさん」



 横から耳触りのよい声が割り入ってきた。コトリと皿を机に置いたその腕の持ち主に、女の注意が逸れる。

「マスタァ」

  シュパッ

「あっ」「ン?」

 その瞬間、子猫の姿が掻き消える。と同時に、玄関の方からカラカラという音が聞こえてきた。二人揃って音の源に顔を向けると、案の定というべきか、玄関扉の小さな出入口が大振りに揺れていた。おそらく、子猫が目にも留まらぬ速さで外に逃げ出してしまったのだろう。

「つむぎが敵前逃亡するなんて、珍しいな。その赤いのが勝因か?」

 マスタァ判決によると、今回の勝負は女の勝ちらしい。しかし、女にとっては不戦敗もいいところである。しおっと顔を顰めた女はせめてもの足掻きとして、ソレにある言伝を頼んだ。

「ただのおいしいおやつなんですけどねぇ。マスタァ、つむぎさんが戻ってきたらこれを渡して、『次はニ十本入りを謙譲いたしますので何卒』と、私、田中が言っていたと、伝えてくれませんか」

「あ、ああ、わかった。きちんと伝えておこう。……しかし、あの子が他人の顔と行動を覚えているとは、到底思えんからな。あまり、効果?は期待はしないでくれ」

「ですよねぇ」

 向かいに腰を下ろしたソレに、手持ちのちぅるを渡す。……このちぅるが次回に繋がることを、今はただ願うしかない。



 ちぅるを物珍しそうに観察するソレを端目に、女は机上に置かれたものを確認した。途端、顔が輝く。

「マスタァ! これ、マスタァが握ってくれたんですか?」

「おう。炊きたてごはんで作ったからな、火傷しないように気をつけろよ? 右がたらこで左がいくら、おかずは甘めの卵焼きに大根おろしとおたくあん。それから、にんじん、里芋、しめじとこんにゃくのお味噌汁だ」

「わぁ……!」

 女は説明を聞いているふりをしながら、一つひとつを示しながら説明するソレの、ピンと伸ばされた手を目で追った。


 今は、普段通り、薄手の黒手袋が嵌められているが。

 おにぎりを作ったということは、この手袋を外して握ったということである。

 そう。手袋を外して、マスタァ手ずから、握ったのだ。

 アチアチのお米たちを、水で濡らした手の上にポフリとのせて、ふんわり軽い力でキュッ・キュッ・キュッと、したのだろう。キュッ・キュッ・キュッ……。

 ……丁寧に洗った素の手のひらか、あるいは薄手のビニィル越しの手のひらか。いや、どちらにせよ――


 女は自分の思考がかなり気持ち悪いことを十分に自覚していたが、止められないものは仕方がないので、開き直ってこう言った。

「――このおにぎり、家まで持ち帰って毎日一粒ずつ食べてもいいですか? 一瞬で食べるのはちょっと、あまりにももったいなくって」

「さすが、お目が高い。そう言うと思って、お土産用も作っておいたぞ。だからこいつは温かいうちに安心して食べるといい……どうした、その奇怪な動きは」

「ーっとぉ、これはあれです、茹で上がる直前の鯉のモノ真似」

「ンはは、なんじゃそりゃ」

 ソレはからからと笑いながら、おにぎりと一緒に運んできた自身用の酒缶を開けた。木細工の杯に流し落とされた半透明の薄桃色が、小粒の空気玉に弾き飛ばされてパチパチと音をたてる。

 甘口のそれを一息に煽るソレの姿を、女は新しく拝借したおしぼりで手を拭いながら、なんとはなしに眺めていた。


 酒を飲む。

 ただそれだけの行為が、こんなにも様になる人は他にいないだろう。

 その、何と言えばよいのだろう。小手先の粗雑さでは誤魔化しきれないほどの、品のよさ……のようなものが、マスタァからは滲み出ているのだ。

 無論、それは他の、日常の些細な振舞いなどにも言えることで、そこには、たとえ他者が動きを完璧に模倣したとしても、ああも美しくはなれないのだろうと思わせるような、ナニカがある。なんというか、存在そのものが卓越しているのだ、この人は。

 ……恩人に対する、贔屓目なのだろうか。わからない。が、不思議な人であることは間違いない。


 女は、一つに纏められた長髪に視線を注いだ。照明を受けて柔らかに光るその髪は、混じりのない桜色。この系統の髪色を代々受け継ぐ一族を、女はよく知っている。


 もし、その髪色が地毛なのだとしたら。

 マスタァの正体は、あの、やんごとなき方々のご血え――


 ――と、そこまで考えたところで、女は藪蛇な憶測を追い出すべくかぶりを振った。

 よそう。身の丈に合わないことを考えていても、疲れてしまうだけだ。……今はただ、この人と言葉を交わせる喜びだけを見つめていれば、それでいい。


「マスタァ、お料理、ありがとうございます。いただきますね」

「どうぞ、たんと召し上がれ」

 そっと両手を合わせる。

 まずは、おにぎりからいただこう。

 艶々と輝く白米に、久しくご無沙汰だった食欲がそそられる。三角形のてっぺんを一口、頬張った。ほろり、口の中で形が崩れる。女はかぶりついた姿勢のまま、カッと目を見開いた。

 これはこれは、塩水で整えられた外面のしょっぱさと、内側で息を潜めていたでんぷんの甘みが舌の上で運命の出会いを果たしちまったようだ。恋に落ちたふたりがときに蕩け合い離れ合いながら目指すゴォルは約束された食道(バァジンロォド)。唾液の噴水と扁平上皮のファンフアレがぶち上がる中、全身涙で湿気った父海苔を侍らせてついに果たした胃液牧師とご対面、外つ国の神なぞ知らんが元気な声で宣誓センセイ完全融合しまいにゃ誓いのキッシング!

 といったトンチンカンな妄想がドバッと頭の中に流れこんできたため、女は慌ててお冷を飲んで気を静めた。

 おいしい。あまりにおいしすぎて、動揺してしまったようだ。最初の一口がいくら一番おいしく感じるとはいえ、これは流石にうますぎる。なぜこんなにもうまいんだ。二口目はもう少し時間を置いてからいただくことにしよう。

 もう一度お冷を口に含んで、お次は湯気を上げるお味噌汁の器を手に取った。

 同じ轍は踏まない。まずは味噌と出汁のかおりを堪能して、慎重に、ごく少量を口の中に流し入れる。


 沈黙。


 二杯目の酒を飲み終えたソレは、器に口をつけたままぴくりとも動かない女を見とがめて、声をかけた。

「どうした、田中さん。ちょっとばかり美味しすぎたか?」

「……や……」

「や?」

 一滴だって零れないようにそっと味噌汁を盆に戻すと、女はしみじみと天井を仰ぎ、片手で目元を覆った。

「……やさしくて……あったかい……まごころの味がする……」

「あらら、隠し味がバレちまったか」

「ふぐぅ……ッ」

 女はむせび泣いた。

 学生時代、家族で囲んだできたての手料理は、もう己の中にひと細胞だって残っちゃいない。食べる喜びを味わえなくなりはや数年、万人受けする味付けにまぶされた量産食をただ生きるため口に運んできた社会人生活、咀嚼音が響く食卓で目の奥を刺した虚しさやら寂しさやらが走馬灯のように蘇り、今この瞬間、それらすべてがこの一食でなにもかも報われたような、そんな途方もない感覚に打ちのめされたのである。

 女は咆哮した。

「お゛お゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ん゛……っ゛」

「おぉ、ニャンちう? 人間の皮を着てみたのか」

「お゛ぉ゛ん゛」

「そうか、そうか。上手に擬態できたな」

「お゛ぉ゛ぉ゛ん゛ッ゛」

 女が人語を取り戻すまで、しばらくの時間を要した。


  …………


 滂沱の涙がある程度治まった頃。

 女は目をしょぼつかせながら、ちびちびと食事を再開した。一口食べては静かに悶絶するその様を、ソレはくすぐったそうに口の端をもにもにとしながら酒の肴に眺めていた。

「おまえさん、本当に美味しそうに食べてくれるよなぁ」

 そう言ったソレの声には、隠しきれない喜びがこもっていた。

 喜んでくれていることがトンでもなく嬉しくて、女は再び涙を垂れ流し始める。一度壊れた情緒と涙腺は、なかなか治ってくれないのである。

「だっでぇ、おいじぃんでず、も゛ん……。

 う゛ぁ……、マ゛ズダぁ……。どぉじで、まずだぁは、一人じが、いないんでずがぁ……?」

「さて、どうしてだろうなぁ。たくさんいてくれりゃ、僕も大助かりなんだが」

「う゛ぅ……っ、分裂じでぐだざいよぅ……! それでぇ……わだじの家でぇ……ごの、天下一おいじーおにぎりど……天下一おいじーおみぞじる……毎日いっしょにづくりましょうよぉ……」

「……一緒に作って食べたならきっと、天地がひっくり返っちまうくらい美味しくなるだろうな。

 それが毎日できなくとも、一度はおまえさんの暮らす場所を訪ねてみたいもんだ」

 ソレにしては珍しい、ひとりごとのような呟きだった。

 女はかすかに瞠目した。それから、悲哀に満ちた嘆きから一転、ありえそうで夢のような遠い未来を想像すると、きゅ、と目を細めて微笑んだ。


「それはいいですね。マスタァなら、私、いつでも、何度だって、大歓迎で……


 ……アッ、いや、今は、……私の家、ちょっとご招待できるような感じじゃ、ありませんでした、そういえば」

 女はさらに一転苔むした表情になると、気が重そうに肩を落とした。

 首を傾げるソレに、その理由を告げる。

「すみません、今、家が……というか、私生活が、本当に酷い有様でして。

 信じられます? 今の我が家、窓も鏡も全部塞いでしまっていて、ありとあらゆる隙間にはティッシュが捻じこんでありますからね。いやほんと、自分でも何をやってんだか……」

 そう言うと、女は誤魔化すように苦く笑った。

 ソレがなにかを思案するように指の背で顎を撫でる。

「なるほど、唯一無二の住処には違いないな。

 田中さん」

「はい」

「答えられることだけでも教えてほしいんだが……、長いこと、その状態なのか?」

 女は一瞬、言葉を詰まらせた。

 はたして『これ』を口にしてもいいものか、迷ったのである。今まで考えないようにしていたことだけに、言葉にしてしまうと、もう『それ』からは逃れられなくなるような気がしたのだ。


 ――……しかし。

   ここでなら、あるいは。


 面を上げて、ソレを見た。燃える琥珀の瞳が、心配ゆえかその輝きに翳りをみせている。

 一度、二度、深く呼吸をして。

 ……ヨシ、と心を決める。


 女は、あの『奇妙な感覚』について語るべく、ゆっくりと口を開いた。




「……はい。実は――」



団子:本名田中。日頃の癒しはイマジナリィマスタァと素直でかわいい後輩。眼鏡は先輩、部長はゴリラ。マスタァのことが大好きだが、どうしてこんなにも大好きなのか、自分でもよくわかっていない。おにぎりの好きな具は今日からたらこといくらになった。


眼鏡:三歳のときから同じ眼鏡を使い続けている奇人。通常業務は眼鏡拭き、繫忙期のみ千手観音になる。今幕はこれにてクランクアップ。


後輩:元気いっぱい、声がでかい。実は学生時代に司法試験を首席合格した経歴あり。団子がゴミ箱に顔を突っこめば一緒になって突っこんでくれる。比較的変人。今幕は以下略。


部長:実は常務取締役。イヤフォンで聞いているのは競馬中継。奇人変人しかいない今の職場をいたく気に入っている。今幕は以下略。


××:通称マスタァ。毎日が閑散期。ドアベルが鳴る直前まで、眠るつむぎのぽんぽんを吸っていた。田中さんの健康状態をわりかし本気で心配している。どうしてこんなにも懐かれたのか、いまいちよくわかっていない。次回、いろいろと大変なことになる。


つむぎ:超プリチィ。森羅万象一かわいいのは自分だと思っているし実際そう。昼寝を邪魔された挙句××との時間を奪われご立腹。××の髪束をむしゃむしゃするのがお気に入り。







・今後の投稿について

 準備が整い次第更新いたします。更新間隔は長くても二週間以内に収める予定です。

・文字数について

 場面で話を区切るため、各話ごとに文量が変動します。あらかじめご了承ください。



 最後になりますが、ここまでお読みくださったあなたと、この作品の行く末を見届けてくださるみなさまに、心からの感謝を。 斑島埋馬

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