その男、愛をつくりて ~深夜、とあるマンションで表される愛の形~
カチリ、と四角く上を向いた矢印を押す。
グゥン、と不気味な音を立てて、分厚い扉の向こうで見えない四角が降りてくる。
羽田正俊は、チと舌を鳴らした。
いつものことだが、この音が嫌いだ。
いや、正確にはこの音が聞こえるこの静けさが嫌いなのだ。
深夜1時ちょうど。
終電から降りて、駅からやや離れたこのマンションにたどり着く時間だ。
エレベーターホールには、人影などなく、ただ数個の電球とそれに集まる小さな虫の羽音が、ひたすら闇と静寂に抵抗している。
ガチャン、と静寂に機械的な不協和音を投げ、エレベーターが開く。
羽田は、ゆっくりと開くドアを待たずに、体を横にしてスルリと乗り込むと、まだドアが開ききる前に、カチカチと「閉」のボタンを2度押した。
再び、ガチャン、と閉まるドアを見て、「4」がカチカチと2度押された。
-また遅くなってしまった
そう思うと、グッと胃が締め付けられる。
その痛みを楽にしよう、と思ったかどうか、羽田は少し緩んでいるネクタイを引っ張ってさらに弛ませ、白いワイシャツの第一ボタンを外した。
遅くなった言い訳を何か考えようとしたが、自分の息が酒臭いであろうことに気づき、額に手をやって目を閉じた。
「403 中山」と書かれた表札の前で、羽田はジャラジャラと鍵のたくさんついたキーホルダーを紺のスーツのポケットから取り出した。2、3個鍵を握り、探し出すとスッと音もなく鍵穴へと差込み、カチャとまわす。
電球型の蛍光灯が照らすエレベーターホールからの廊下とは対照的に、玄関の先、居間へと続く暗闇は、深夜1時を正確に体現している。
そしてそれはおそらく、先に寝ているであろう美恵子の羽田に対する思いも。
後ろ手にドアを閉め、ふぅっと再びため息をつくと、手探りで廊下の電気をつける。
40Wの電球一つを頼りに居間へと足を踏みいれ、その奥の寝室となっている和室の襖をスと開ける。
「寝てる、か」
40Wの光も届かないその部屋では、畳に敷かれた布団の中で美恵子が横たわっていた。
羽田は、寝息も聞こえない静寂と暗闇を振り払うように、部屋へと突っ込んだ頭を大げさに戻すと、音を立てぬよう襖を再び閉めた。
リビングの小さなテーブルと一脚の椅子へとかばんを放り投げ、その上へスーツの上着を投げる。
「さてと… 今日の夕飯は何だったかな」
羽田は弛んだネクタイをスーッと外しながら一人語ちた。
ワイシャツのボタンをさらに一つ外しながら、冷蔵庫を物色する。
綺麗にラップされた春巻きを見つけると、電子レンジへ入れ、タイマーをまわした。
レンジの隣にある1合炊きの電気ジャーからをカパっと開け、保温されていたご飯を茶碗へと移す。
インスタントの味噌汁を漆の器に搾り出し、ポットのお湯をかけた。
テーブルに無造作に置かれたリモコンのスイッチを押すと、バチッと大きな音を立ててTVに電源が入る。
静かな空間に雑音が生まれ、羽田はホッとしたようにふぅっと大きなため息をついた。
TVを眺めながら、食事を口に運ぶ。
しかし、TVも食事も、両方が上の空だった。
ちらりと寝室を見ると、もう一度深いため息をついた。
リビングにかかる時計が、2時をまわる頃、羽田は濡れた頭をタオルで拭きながら、再びTVを眺めつつ、ビールを飲んでいた。
政治家の汚職、連続婦女暴行殺人、警察官の自殺、タレントの結婚。
流れるニュースは耳から入るものの、どうしても目はTVを離れ、襖の奥、寝室の美恵子を見てしまう。
やがて2時半をまわりニュースが終わると、羽田は意を決したように寝室へと向かった。
静かに襖を開け、後ろ手で襖を閉めると、寝室は真っ暗闇になる。
四つんばいになって、手探りのまま、ゴソゴソと美恵子の寝ている布団に入っていった。
「なあ、そんなに怒るなよ」
ためらうように、美恵子の髪を撫で、そのままスッと手を前にまわして、美恵子を抱く。
「明日はもっと早く帰ってくるからさ」
反応のない美恵子の首筋に、軽くキスをする。
少し強く美恵子を抱く。
「美恵子の体、冷たくて気持ちいいね」
羽田は納得したように微笑む。
だが、美恵子の反応は無い。
美恵子は。
恐怖に目を見開いた表情で死んでいた。
硬くなった死体に抱きついたまま、羽田は息を荒くする。
暗闇に抗う虫のように、衣擦れと荒い吐息が寝室を支配する。
リビングでは付け放しのTVが、再びニュースを流しだしていた。