オン・ザ・ショートケーキ
五十歳。独身。
課長として邁進してきた俺は、部下には「理想の上司」で、上司には「理想の部下」だろう。
会社にとって……いや、社会にとって重要な歯車。そう自負してきた。
部長にだってなれるところだったんだ。
――社内の昇進試験中に、過労でぶっ倒れさえしなければ。
甘い香りに俺は目を覚ます。
「ここは……」
俺はズキズキと痛む頭をさすろうと手を上げ、
「何だこれ」
べっとりとついた白いソレに首をかしげる。
「って! おゎっ?!」
俺の体はどんどんと白い海に沈んでいく。俺は慌てて足を引っこ抜いた。だが、地面がフワフワで、それ以上はどうにも体が動かない。
「いや、ちょっと、まっ……」
もがけばもがくほど、体中が真っ白け。
「あぁ! 腰が! 腰が死ぬ!」
――かつて、同僚は言っていた。
ぎっくり腰ほど恐ろしいものはない、と。
「俺は! こんなところで! 死にたくない!!」
部長にならなければならないのだ! 社会が! 俺にそう言っている! ……多分!
すると、俺の体がふわりと軽くなる。
「ふわふわふわ~り! エアリーフェアリー」
……意味がわからない。
ニチアサで絶賛放送中の『なにキュア』さながらな呪文が聞こえた気がする。
俺の頭がおかしくなったのか。まさか、ぎっくり腰より先に、幻覚と幻聴か。
ため息をつくと、目の前に羊がポヨンと現れた。
「ずわっ?!」
「おにいさ……じゃなかった、おじさん、生きてるぅ?」
「いや! お兄さんで良かったよ?!」
普通、おじさんと言いかけて、お兄さんと言うんじゃ?!
「生きてたぁ!」
羊はポヨポヨと空中を浮遊する。
「ごめんねぇ。ボク、おじさんが死んだと思って、間違えて、ここに連れてきちゃったの」
「はぁ」
部下に対して培ったスキルその一。
まずは、どんなことに対しても話を聞く。頭ごなしに否定しない。
ふっ……こんなところで俺の上司スキルが役に立つとはな。
「お詫びに、何を食べても健康な体と、いくら食べても胃もたれしない強靭な胃袋をあげるねぇ。みんな大好きチート能力だよぉ」
羊はモコモコな手で、俺のおでこのあたりをポン、と触る。
「あぁ……ありがとう」
なんのことだか全く分からないが、部下が失敗を詫び、なんとかしようと代替案を提示したのだ。まずは、その誠意を受け止めてやらねば。
「それじゃぁ、おじさん。元の世界にはそのうち戻れると思うから、頑張ってねぇ」
部下だと思っていたが、頑張ってね、ということは上司だったか。
「わかりました」
俺は習慣的に頭を下げる。羊はそれを了承ととったのか、ポヨン、と消えてしまった。
「しまった……。何も分からない」
再び白いフワフワの上に落されて、ズボリとはまった俺は呆然とした。
コミュニケーション不足は、業務遂行において最も危険な状態だ。上司の期待を裏切ることになるだけでなく、余計な仕事をして効率を下げ、軋轢を生む。仕事とは、コミュニケーションである。
「俺としたことが……」
こんなことでは、昇進試験にも合格できなかったに違いない。
「しかし、良い勉強になった」
失敗を悔やんでも仕方ない。人は失敗するもの。失敗から多くのことを学び、次に活かして成長していくのだ。
「よし」
俺は何とか気持ちを落ち着ける。
PDCAサイクルを回すために、とにかく現状把握だ、と周囲を見回した。
まず、この匂い。まるでケーキのような……。
俺はそこでハッと顔を上げる。自らの体にべたべたとついているこの白い物体はまさか。
「クリームか!」
とろけるような舌ざわり。もったりとした甘さ。それでいてくどくない……。
「ふむ、一流のパティシエが作ったに違いない」
気づけば俺は、子供のようにクリームをすくいとっては、無心で口へ運んだ。
「おい、あれはやばいんじゃないか……」
「誰か行ってよ」
「私は食べられちゃうと思いますよ!?」
「バカ! お前、声がでか……」
ひそひそと後ろから聞こえた声に、俺は我に返って振り返る。
良かった、一人じゃな……「えぇぇ」俺は、言葉を失った。
左から、ホイップクリーム、アラザン、イチゴ、コンペイトウ。……おそらく。
彼らの瞳がばっちりと俺の視線とぶつかると、瞬間、彼らの顔面は蒼白になった。
部下に対して培ったスキルその二。発動!
「やぁ! 驚かせてすまないね。俺は、その、手違いでここに来た新人だ。見た目はちょっと……いや、かなり違うが、よろしく」
笑顔。笑顔! 笑顔!! とにかくこれに尽きる。
初対面で部下を怯えさせては、業務に支障が出る。今のご時世、なんでもパワハラだ。明日は我が身である。
「俺たちのこと、と、とって食ったりしないのか?!」
「コンペイトウ!」
「食べないよ」
俺は慌てて口周りについたクリームをふき取る。
「イチゴはどう思う?」
「わ、私は……だ、大丈夫だと思います」
「ホイップは?」
「イチゴちゃんがいいなら良いよ」
「アラザン」
「アタシは嫌よ!」
……駄目だ。完全に不審がられてる。
俺は何かないか、と頭をフル回転させ、社会人の基本を思い出す。
そうだ。挨拶。肝心の挨拶をしていなかったではないか! 不審がられて当然だ。
「自己紹介がまだだったね。俺は、甘味工業人事部研修課、課長の佐藤です。よろしく」
クリームまみれになってしまった名刺をスーツのポケットから取り出すと、コンペイトウはそれを不思議そうに見つめた。
「こ、これはもしかして!」
「どうしたの?」
アラザンがコンペイトウに駆け寄り、同じく名刺を見て
「これは!」
と声を上げた。
「まさか、お前、板チョコだったとは! 許してくれ!」
「ごめんなさい」
コンペイトウとアラザンがそろって頭を下げる。
板チョコ? 全くよく分からないが、どの世界でも、名刺一つで切り抜けられるらしい。
「いや、いいさ。君たちの方が先輩だし、色々と教えてくれ」
俺も頭を下げれば、彼らは一斉に喋りだす。
「板チョコに教えてやれることなんかねぇよ!」
「板チョコは一番人気……。僕たちは等分されるけど、君だけは特別。君をめぐって争いが起きるって噂だよ……」
「私、板チョコさんに憧れてるんです!」
「板チョコさんにリーダーを変わってもらわない? コンペイトウが仕切ってるのも変な話だし。アタシに紛れてこの場にいるだけなんだから」
「確かに……。イチゴちゃんはどう思う?」
「わ、私は……」
不穏な空気が辺りを包む。
まずい! このままでは部下たちが分裂してしまう!
俺は咄嗟に口をはさむ。
「いや! リーダーはコンペイトウがいいんじゃないかな。俺はまだ、この世界では新人だ」
「謙遜しないでよ。ショートケーキの上じゃ、あなたが一番だってみんな知ってるもの」
ショートケーキ?
「あぁ!」
俺が大きな声を出すと、全員びくりと動きを止めた。
なるほど。全てわかったぞ。
俺は、ショートケーキの世界に飛ばされてしまったらしい。多分、あの羊によって。
チート能力とやらはよくわからんが、俺がこのショートケーキの世界を食べて生きていくと思ったんだろう。確かに甘いものは好きだが……。
「何だよ! 急に」
「悪い、なんでもない。俺は今、ショートケーキの上にいるのか」
「えぇ、そうですよ」
「板チョコさんは、いろんなケーキの上にのっているもの。すぐに分からなくて当然よね。コンペイトウと違って」
「おい! アラザン、てめぇ!」
「俺のために争わないでくれ!」
俺の言葉に場が固まる。
ふっ……どうやら、板チョコ、というのはこの世界の絶対的王者らしいな……。
そして、彼らは四角くて文字の書いてある名刺を、板チョコと勘違いしているのだ。
「今日は随分とにぎやかだね」
新たな声が俺たちを呼びかける。
「サンタ!」
「どうして、季節限定のあんたがここに……」
ホイップたちはなぜか俺の後ろに隠れ、サンタ型の砂糖菓子を見つめる。
「ほっほっほ。板チョコ、と聞こえたものだからねぇ」
「気を付けてください、板チョコさん! サンタさんは、あなたをライバル視してるんです。クリスマスシーズン、ショートケーキを飾るのは、板チョコさんか、サンタさんか。毎年熾烈な争いが勃発しているんです!」
イチゴに耳打ちされて、俺は「はぁ」と首をひねる。
サンタはその間にもこちらににじり寄っていた。
「君が噂の新入りの板チョコさんかい? 今年は随分と、ワシに似た形になって……」
サンタのニコニコ顔が一瞬にして、子供たちギャン泣き間違いなしの鬼の形相になる。
「これ以上、ワシの地位を脅かすなら、貴様ら全員まとめてぶっ潰してやる!!」
これが、子供たちが夢を見るサンタ?
サタンの間違いでは……?
サンタは勢いよく突進。背負った袋の砂糖細工は、直撃すれば痛そうだ。
仕方あるまい。
社会人スキル、発動!!
理不尽なことには、たとえ上司に対しても、論理的かつ丁寧に反論すべし!!
「サンタさん! お気持ちは分かります! ですが! だからといって関係のないものを巻き込み、あげく、暴力をふるおうなどというのは、パワハラです!」
「訳の分からんことを抜かしおって! トナカイならば、文句ひとつ言わずに働くぞ!」
残念ながら、サンタには効き目がなかったようだ。
袋をブンッと振り上げ――ることは出来ないので、俺に向かってタックルを決める!
ブチン!
俺も、堪忍袋の緒が切れた。
「労働基準法も守れん奴に、雇用主の資格はない!!」
懐に飛び込んできたサンタをそのままつかみ上げ、クリームの海へと放り投げる。
決まったぁ! 佐藤選手の華麗な上手投げ!!
決着はついたが、いまだ頭が沸騰状態の俺はとどめの一撃を吐き捨てる。
「だいたい、サンタの砂糖菓子なんてただ甘いだけのお飾りはなぁ……あっつあつのコーヒーに入れられてドロドロにされる運命なんだよ!」
「ヒィッ……」
その言葉に震え上がったのは、誰であっただろうか。
「正当防衛とはいえ、部下の前で人を投げ飛ばすなど……やはり、俺はまだ、昇進試験には早かったか……」
俺はため息をついて、雪景色――ならぬクリーム景色を見つめた。
しかしその後、俺はなぜか、魔王に昇進していたのであった。