中編
ノアがこの前みたく潜入するのではなく、普通に学生として学園に通っていたのは、もう10年は前になる。あの頃と比べて、渋さが外見に出てきた辺り、ノアだって立派なおじ様なのだ。
精神は変わってないが。
というのは置いておいて。
学園は、だいたい12歳から18歳まで通うのが通常だ。
中等教育を3年間、高等教育を3年間、計6年間を学園という社会のミニチュアともいえる学園で、学力だけではなく、人との繋がりツテを持つ。それだけではなく、学力があるものは、飛び級が認められる。
しかし飛び級をするための試験は難関を極め、十年に一度、飛び級するものが居たらいいと、いわれる程であった。
さて、話は変わるが、ノアと陛下…いや当時は皇子であったか。2人の年齢差は実に5歳離れている。通常ならば、皇子の最後の年だけ共に学園に通えるという事になる。
しかし、当時から、猫可愛がりしていたノアと離れることに我慢できなかった皇子は、ノアに人生初の命令を下した。
“学園の飛び級の試験に合格して、同じ年から学園に通うように”
無謀だろと誰もが思った。さらに付け加えると、そういわれた当時のノアは、7歳であった。基礎教育が終わり、初等教育に手を出し始めたばかりであった。
しかも試験の半年前だった。
勉強が間に合わない。
滅多にわがままをいわない皇子の願いを叶えようと、大人達は努力しようとしたが、如何せん、時間が足らない。
とりあえずと、ノアに渡した教本の山は、捲られることなく埃と共に埋もれてしまうのだろう。
諦めモードだった大人達と打って変わって、ノアは張り切っていた。大好きな皇子の初めての命令を遂行するため、諦めモードの大人達を尻目に教本に目を滑らせていった。
結果、ノアは勉強が出来る子だと判明した。
「いやー、まさか、本当に合格するとは…」
呆れた声音と裏腹に、顔は満面の笑みを浮かべる皇子に、ノアは得意げに胸を張った。
「皇子の御命令だから」
屈託のない忠誠を向けられ、皇子は感極まってノアを抱き上げた。
子供の5歳の年齢差は、そのまま体格差に繋がる。
同い年の子供と比べても、ちんまりとしていた当時の子狼は、易々と皇子に抱えあげられることになった。
「偉いぞー、ノア!よくやった」
皇子の言葉に、ノアはおもちゃを貰った時以上に嬉しそうに顔を輝かせた。
「そうだな、よくやった。お兄ちゃんは嬉しいぞノア」
そう2人に爽やかな声がかかる。
白い歯を見せてニッカリと笑うのは、ノアの2番目の兄であるアルスである。その隣には、皇子とアルスと同い年で今年から学園に通うデジレの姿があった。
「なんだ。俺とノアの時間を邪魔するとは、無粋な奴だな」
「…俺、ノアの兄なんですが」
兄弟と言う割に、アルスとノアはさほど似ていない。
ノアが狼のような凛々しい顔立ちをしているのに対し、アベルはどこまでも爽やかな印象を与える面立ちをしている。
「笑止!俺とノアの絆に勝てるものか」
「やんのか、皇子?」
幼馴染でもある皇子とアルスの喧嘩に、デジレが呆れたようにため息を零した。
「全く、この人たちは…。ノア、こちらにいらっしゃい。ネクタイを直しましょうね」
「はい」
デジレにネクタイを直してもらっているノアに、聞こえないように皇子がそっとアルスの耳に囁いた。
「例の件の準備できてるか」
「バッチリですよ。あとは、ノアを皇子の寮の部屋に、連れていけばいいだけです」
例の件とは。
それがわかったのは、その日の夜だった。
「では、第3回怪談話大会を始める!」
わーと、まばらな拍手が起こる。
皇子の広い寮の寝室に集まったのは、計5人。
ノア、デジレ、アルスと1個上の学年であるアベルとマルコである。
「お、皇子ぃ…」
話が始まる前から半泣きなノアは、皇子の膝の上にいわれるがまま、チョコンと収まっていた。
円を描く配置になった一同は、皇子プラスノアから時計回りに、アベル、デジレ、マルコ、アルスの順に座っている。
「大丈夫だ。怖かったら、しがみついてていいんだぞ」
「うん」
そうキュッと服を握り直したノアに、ニマニマと笑みが隠しきれない皇子。ノアの周りにはSしか居ないのか。
それはさておき、初めの語り部は、じゃんけんでアベルに決まった。
「それは、暗い帰り道を歩いている時のことでした…」
そんな出だしから始まる話は、ありふれたものであった。
暗い夜道を歩く男は、仕事が長引いたことを恨みながら、早足で家に向かっていた。
すると、自分の足音とは違った、もう1つの足音が聞こえてきたのだ。その足音は、男の真後ろにピッタリとくっついて離れない。男が止まったら、その足音も止む。
不気味に思った男は、振り返ろうとした。
しかし、男は“夜道を振り返ったら、悪魔に食われる”という伝承を思い出してしまって、振り替えれなくなった。
不気味さと恐怖に固まった男の耳に、生暖かい吐息がかかった。
それに弾かれたかのように、男は家までの長いような短いような距離を走って駆け抜けた。
家の門の前まで辿り着いた男は、謎の足音が無くなっていることに気がついた。安堵から気が抜けた男は、大きく息を吐き出した。
そしてやっぱり気の所為だったのかなと、振り返った。
そう、振り返ってしまったのだ。
いただきまーす。そんな言葉と共に、男の視界は歯が並んだ男の身の丈程ある口に塗りつぶされた。悲鳴をあげる暇もなかった。
「翌日、その男の妻が、帰ってこない夫を心配して門の外を見てみると、赤いペンキをぶちまけたかのように、血が飛び散ってましたとさ」
アベルが意気揚々と締めくくる頃には、ノアはガタガタと震えながら、皇子にしっかりとしがみついていた。
「なかなか良い話じゃないか」
「ありがとうございます。“怪奇実録”という本に載っていたのを見たので」
秀才なアベルが、図書館の常連となっているのは、勉強のためだと認識していたが、どうやらそうでもなく、純粋に本を楽しむという目的があるようだ。
意外な一面を発見しつつも、皇子は次の話を促した。
「次は、俺だな」
ニヤリと笑ったマルコは、とてもとても意地の悪い顔をしていた。
「俺が話すのは、人から聞いた話だ。」
マルコが話したのは、生々しい話だった。
墓守をしている男がいた。
ある日、墓守が夜中に目を覚ますと、墓の方から物音がした。
墓守は野良犬が死体を掘り起こしているのかと思い、銃を持って墓へでた。
しかし、墓を見回しても犬らしき影は見当たらない。
おかしいと首を傾げた墓守の足を、地中から伸びた手ががっしりと掴んだ。
墓守が手の先を見るとそこには腐って、ドロドロになった体を引きずっている女の死体があった。
「ほほう。それで?」
「墓守は銃をぶっぱなして、無我夢中で逃げたんだそうだ。その後、墓には誰も近寄らなくなった」
やけに詳しく語られたドロドロに腐った死体が、頭に過ぎり、ノアは顔を真っ青にした。
「大丈夫か、ノア」
「あらあら、1回休憩しましようか。お茶をご用意致しますわ」
デジレが部屋を出ると、アベルは心配そうにノアの頭を撫でた。
「おいおい、王の盾となり剣となるルティグル家の三男坊が、そんなんで大丈夫なのか」
「ノアはお前と違って、繊細なんだ。一緒にするな」
バチリとアベルとマルコが火花を散らしているのを、ぼんやりと見つめていたノアは、ふと顔を上げた。
「どうした」
皇子の不思議そうな声に隠しきれなかった、微かな物音を動物並みの聴覚を持つノアは、拾った。
そう、屋根の上から聞こえる、カタンという物音を…。