12章 青年と暴れるクジラ 13章 少年と少女 14章 おわりのはじまり
第12章 青年と暴れるクジラ
荒れ狂った海に、クジラと木製の簡素な船に乗った一人の青年が対峙しています。
クジラは何かを求め、暴れているようでした。
月明りは、これから起こるてんまつを見逃さないように、彼らをしっかりと照らしています。
少年は、青年の船に乗り込みました。
「あのクジラはいったいどうしたんですか?」
青年は、漁師としては似つかわしくない白い肌に、大きな目、筋の通った鼻を持っており、どこか高貴な出であることを思わせました。少年が急に話しかけても動じず
「それがわからないんだ。あんなに暴れるなんて・・・。彼は、体は大きいけどまだ子供なんだ。すごく心が優しくて、意味もなく暴れることなんかしないはずなんだけど」
青年は、クジラを真剣に見つめながら、透き通る声で言いました。
船は大波に翻弄され、少年は立っていられず、海に落とされないように船のヘリに必死にしがみつきました。
船にぶつかっては砕ける波のしぶきが顔にかかります。
そんな状況でも、青年は涼しい顔で揺れる船の上にバランスも崩さずに、静かに立っていました。
青年には、なんともいえない魅力がありました。彼の力になりたいと自然と思えるような、人を惹きつける雰囲気があります。
クジラは苦しそうな声で鳴きながら、大きな体を海に叩きつけています。
何かを訴えているようです。欲しいものが手に入らない・・・、何か痛みをこらえている・・・。
そうか。
少年はひらめきました。
少年は、暴れるクジラの口もとに目を凝らしました。ほんの少しですが、口の右側が腫れています。
「もしかして、クジラは虫歯じゃないですか?」
青年はハッとした顔をして、少年を見つめ、小さく何度もうなずきました。
少年の一見、トンチンカンな推理にも青年はちゃんと耳を傾けてくれました。
「そうだ、きっとそうに違いない」
青年はそういうと、一目散に海に飛び込み、タイミングを見計らって、クジラの口の中へ躊躇せず入っていきました。
どのくらいの時間がたったでしょうか。青年は、中々戻ってきません。
クジラは相変わらず暴れ続けています。少年は、さすがに心配になりました。
まさか飲み込まれてしまったのでしょうか。もしかしたら、クジラが暴れているのは、虫歯ではなくて、ほかの理由なのかもしれない。
そんな後ろ向きな考えが少年の頭の中を渦巻きました。
少年に出来ることは、青年が無事に帰ってくることを祈ることだけでした。
それからしばらくして、急に海がしずかになりました。大きな波はおさまり、クジラは月明りに照らされ、おとなしく海に浮かんでいます。
しかし、青年の姿はどこにもありませんでした。少年はなにか手掛かりがないか、海をくまなく探しました。
そのときです。
まるで少年に見せるかのようにクジラが大きな口を開けたのです。
よく見ると、下の歯のひとつに、青年が立っていて、少年に向かって大きく手を振っていました。
青年の肩には、青年の背とさほど変わらないクジラの大きな歯がありました。歯の先は黒く濁っています。
少年は、泣き顔で、青年に向かって腕がちぎれるくらいおおきく手を振り返しました。
舟に戻ってきた青年にどうして虫歯とわかったのかと聞かれ、子供にとって虫歯は避けては通れない道なんだと少年は答えました。
青年は、少年のいやに大人びた答え方に大きく口を開け、快活に笑いました。
「僕に思いつかない考えだ。君には助けられた」
と青年はさわやかに言いました。少年は、照れくさそうに笑いました。
「そうだ、クジラにあげたいものがあるんだ」
少年は、赤い実をクジラにあげることにしたのです。
虫歯の痛みや苦しみについては、少年は痛いほど知っています。そして、そのあとに食べる甘いもののおいしさも知っています。
少年は、痛みを知っているもの同士として、その頑張りに応えたかったのです。
少年は巾着袋に手を入れました。
しかし、あんなにあったはずの赤い実がどこをどう探しても一つしかありません。
少年は、残っていた赤い実を一つ手に取り、巾着袋を裏っ返しにしてみたところ、巾着袋の底には、小さな穴が開いていました。
それは、赤い実が落ちるには十分な大きさでした。
もし最後の一粒をあげてしまえば、それは、少女にプレゼントするものが何もなくなることを意味していました。
結局、少女が喜びそうなものは他に見つけることが出来なかったのです。少年は、自分のふがいなさに、肩を落としました。
少年は、最後の赤い実をクジラに向かって投げました。
魔女の言ったとおりになりました。赤い実はなくなってしまったのです。クジラは、赤い実を口にすると、あまりのおいしさに喜びの舞を踊りました。
一部始終を見ていた青年は、いたわるような目で少年を見て
「大丈夫かい?」
とやさしく尋ねました。少年は心の内を悟られないように、大げさに元気よくうなずきました。青年は微笑み、少年の肩を抱いて
「君は、やさしい子だ」
と言いました。
第13章 少年と少女
とうとう少女の絵にたどり着きました。
少年は、やっとの思いでこの場所に来たのに、急に弱気になってしまいました。帰りたくもなりました。
赤い実もありません。渡すものはなにもないのです。
物陰から見る彼女は窓の外を見つめ、向かいの絵の中から見ていたように物憂げな表情をしていました。
しかし、距離は大分近くなりました。あと何歩か歩けば、少女はすぐそこにいるのです。
少年の心臓の鼓動はどんどん早くなってきました。
ドキドキという音が、少女にも聞こえているのではと思い、心臓の部分を両手で覆いました。
不思議なものです。
遠く離れていたときは、少女をいつまでも見つめることができましたが、いざ目の前にすると、一秒たりとも彼女を直視することできないのです。
恥ずかしくて、顔が赤くなっていることが自分でもわかりました。
「誰かいるの?」
少年はギョッとして、とっさに物陰から飛び出し、思いがけず少女との対面を果たしました。
テーブルを挟んで、少年の目と少女の潤んだ瞳がばっちり合いました。
夢見たことが、今、現実になったのです。時間にすれば、ほんのわずかな時でしたが、少年にはずいぶん長く感じられました。
想像とは違い、ずいぶん不格好な出会いでしたが。
少年は、心の準備が出来ていなかったのも相まって、舞い上がってしまい、すぐに少女から顔をそらし、目をあちこちに泳がせ、もじもじとしていました。
少年は、何かを言おうとしましたが、どこをどう探しても、ふさわしい言葉が見つかりません。落ち着こうとすればするほど、落ち着かなくなる悪循環に陥りました。
しかし、何かを言わなければ、この空気に耐えられそうにありませんでした。
「その・・・僕は、君に会いに来たんだ」
少年は意を決して言いました。
想いを伝えたのです。心臓はバクバクです。
少女は、びっくりして、頬を赤く染めました。ほほ笑んで見えたのは、少年の気のせいでしょうか。少年の耳は信じられないほど真っ赤になっています。
勢いで言ったはいいものの、互いにどうすればよいかわからず、気まずい、沈黙の時間が流れました。
心臓の鼓動がやや落ち着いたころ、少年はゆっくりと話し始めました。
「僕は君の絵の向かいにあるあの絵から来たんだ」
少年は、自分が来た絵の方を指さしました。かすかに指先が震えています。
「あんなに遠くから?」
少女は、大きな目をさらに大きくしました。
「うん。ここに来るまでいろんなことがあったよ。白い虎ににらまれたり、リスに赤い実をわけてもらったり、魔女にたぶらかされそうになったり、クジラの虫歯をとったり・・・。わけがわからないよね。でもとにかくたくさんのことがあったんだ」
少年は、ときどき言葉に詰まりながら、言いました。少女は、やさしいまなざしで、少年の話を聞いています。
「それで、君に赤い実をプレゼントしようと思っていたんだけど・・・」
少年はそこまで言うと、肩を落としました。少年は、少女の目を見ることが出来ません。
「・・・がっかりした?」
少年は少女に聞きました。
「がっかり?」
「僕が情けないやつで、まともに話せないし、君にプレゼントするものだってない。何のためにここに来たかわからないよ」
うなだれている少年に少女はやさしく微笑み、
「情けない人がたくさんの危険を顧みず、冒険なんてする?ほかの人がどういうかわからないけど、わたしは君のこと、頼もしいって思うよ。それにわたしに会いに来てくれただけで、本当にうれしい」
少年は顔を上げることが出来ませんでした。
なぜなら泣きそうになっていたからです。泣いたら情けないやつに格下げだと思って、泣くのをこらえていましたが、涙は空気を読まずに零れ落ちました。少年の顔はもうぐしゃぐしゃです。
「おかしな人」
と少女は言って、くすっと笑いました。少女は少年より幾分大人びていました。
顔を上げた少年の顔は、涙や鼻水でそれはひどい顔でした。
「けど、私が欲しいものをあなたはもうくれたかも」
少女は、無邪気に笑いました。
少年は、感情が入り乱れて、泣いていいんだか、笑っていいんだが、驚いていいんだかよくわからず、ずいぶん間抜けな顔をしていました。
少女の口から出た言葉は、想像していないものだったからです。
「私が欲しいものは」
そこまで言うと、少女は窓の外を指さしました。
窓の外は晴れていて、気持ちのよい青空が見えます。それに心地よい風も吹いています。
「外の世界を見てみること」
「外の世界?」
「うん。私が窓の外をずっと見ていたのは、外の世界を見てみたいと思っていたから。けど勇気が出なくて、憧れるだけだった。そんなときにあなたが来て、外の世界のことを話してくれたでしょ」
少女は、恥ずかしさを隠すように髪を耳にかけ
「もっと、聞かせてくれる?」
と少年を見つめました。
少年はもちろんと言い、勢いよく何度もうなずきました。
少年は少女の隣に座り、旅をするなかで出会った人や見たこと、聞いたこと、たくさんの出来事について時間を忘れて話し始めました。
「飲み物?」
「・・・君が欲しいものを考えていたんだけど、その空のコップを満たす飲み物じゃないかって、友達が言うんだ。それで赤い実を絞って、甘いジュースを作ろうと」
少女はクスッと笑いました。
「いや、これはあくまで友達の意見で、僕は違うかなと」
少年は慌てて訂正しました。少女は声を出して笑いました。
「そんなにおいしかったんなら、赤い実のジュース飲んで見たかったな」
ふいに少女はそういたずらっぽく言いました。
「今度は、二人で行こうよ。リスたちはもう僕の友達だから」
少年は、胸を張って言いました。
「うん、約束だよ」
少女は微笑みました。
もうすぐ朝日がのぼります。けど、二人の話は、まだまだ終わりそうにありませんでした。
第14章 おわりのはじまり
管理室から持ってきたカギの束をジャラジャラいわせながら、誰かがあくびをしながら歩いてきます。
ある部屋の前に止まり、カギの束から一つのカギを見つけ、カギ穴に入れ、回しました。
スライドする扉を開け、電気のスイッチをつけます。暗かった部屋は、瞬く間に明るくなりました。
ピカピカに磨かれた床を、革靴の小気味良い音が響きます。
誰かは、一枚一枚の絵を歩きながら確認しているようです。すると、ある一枚の絵の前で、その足を止めました。首を傾げ、じっくりとその絵を見だしました。
しばらく見て、首を傾げる、このセットを何回か繰り返しました。ようやく、誰かはあきらめたようにその場を立ち去り、部屋を出ていきました。
誰かが見つめていた絵には、ある少女の姿がありました。
少女は絵の中で、机に片ひじをつき、ほほ笑みながら窓の方を見ていました。