第1章 少年と少女 第2章 白い虎の言葉
はじめに
寝返りをうちながらわけのわからない寝言を言うお父さん。明日の遠足が楽しみで仕方ない子供たち。なかなか寝付けずに、なにやら考え事をしている女性。いたずらをし始めるヨークシャーテリア・・・。
思い思いの過ごし方で、それぞれの夜は過ぎていきます。
しんと静まり返った真夜中。耳をすませば、どこからか音が聞こえてきます。
そこは、高い天井に、白い壁、ピカピカに磨かれた床。
白い壁には、金の額縁に入った大きな絵が飾られています。小さな絵もあります。
まるで現実を写し取ったような精巧な絵や、色がつぎはぎのように重なっている絵、子供がクレヨンで書いたような絵もあります。
描かれているのは、食べ物だったり、風景だったり、人物だったり、何かわからないものだったり・・・。
どうやら、ここは、とある展覧会の会場のようです。
ささやきあうような話し声や、ガサガサという物音。その音はどうやら絵の中から聞こえてきます。太陽が沈み、人のいなくなった、静かな夜。彼らは解放されたかのように思い思いに動き出すのです。
第1章 少年と少女
「なんてかわいいんだろう」
少年が見つめる先には、ある少女の姿がありました。少女は絵の中で、机に片ひじをつき、物憂げな表情で窓の方を見ています。
窓の外は、晴れ渡っていて、時折入る風にカーテンが揺れています。少女がひじをついているテーブルには、深緑のテーブルクロスがかけられ、リンゴが入った籠に、倒れているブルーのボトル、何も入っていないコップがありました。
「心の声が漏れているぜ」
隣にいた太っちょの男の子が少年の肩に手を回しながら言いました。少年は、太っちょの男の子の顔をちらっと見てから、恥ずかしそうに下を向きました。
「確かにあの子はかわいいよ」
太っちょは言いました。少年は顔を上げ、太っちょの目を見ました。
「好きなのか?」
少年は、太っちょのストレートな問いかけに耳を赤くしてうなずきました。
いつも遠くから見るばかりで、当然、少年の片想いでした。想いを伝えることなんて夢のまた夢のように感じられました。
太っちょの男の子は、突然、何かを思いついたようです。少年の肩をたたき、満面の笑みで少年に言いました。
「彼女に振り向いてもらう方法を思いついたぜ」
それは少年にとって、思いがけない提案です。
「ここであれこれ考えても仕方ない。彼女の欲しいものを想像して、直接届ける。つまりサプライズってやつさ」太っちょは、にやりとしました。
会いに行く。
その手段がないわけではありませんでした。しかし、それを実行するにはよほどの覚悟が必要でした。
少年の頭の中では、いろいろな考えが飛び交いました。
彼女と直接会えるかもしれないという喜び、未知への挑戦に対する不安、それに僕を見てがっかりしないかなという心配もありました。
少年は白馬の王子様のような容姿も、困難に立ち向かう歴戦の勇者のような勇気も持ち合わせてはいません。
正直、自信はありませんでした。
けれど、少年は、少女に会いたいという気持ちがどんどん強くなっていることを感じました。少年は、太っちょの手を握り、
「ぼく、やってみるよ」
と力強く宣言しました。
先のことは、今は考えないことにしました。
考えてしまえば、不安はすぐにでも押し寄せてくるでしょう。太っちょは、少年の手を握り返し、「よしっ」と言い、大きくうなずきました。
でも、彼女の欲しいものって一体何なんでしょう?おいしい食べ物、めずらしい花、かわいらしい小動物?
「あの空のコップが見えるか?」
太っちょが言いました。
「あのコップがヒントじゃないかと俺は思う」
太っちょは、急に探偵のようにあごに手を添えました。
「コップ?」
「えぇ、彼女はずばり喉が渇いてるんです。あのコップに何かを注いでくれる人を待っている・・・」
太っちょは、話しぶりまで探偵のようになっていました。その推理に、いまいち納得できないと少年の顔に出ていたのでしょう。
「君は、女心がわかってないよ」
太っちょは、ため息をつきながら、あきれたような顔で少年を見ました。
「女の子は、甘くておいしい飲み物が大好きなんだ。そうだな、果物は必ずあるはずだ。それを絞ればいい。絞りたてが一番うまいんだ。リンゴとかイチゴとかがいいかな。彼女のところに行くまでに手に入れればいいよ」
太っちょは、確信に満ちた表情で言いました。
「そんなにうまい具合においしい果物なんかあるかな?」
少年は太っちょの提案に半信半疑でした。
「やっぱり花とかがいいんじゃない?」
少年は、別の案を提案しました。するとすぐに
「ダメだよ。そんなの誰でも考えることだし、驚きがない。大事なのは、驚かせることだ。飲み物をプレゼントするなんてダサいと思ってるんだろ?」
と太っちょは言い返しました。
「そこが狙いなんだよ。甘い飲み物をプレゼントに選ぶなんて、おかしな人って感じで、君に興味を持つに違いない」
少年は言いくるめられているような気もしましたが、太っちょの演説には妙に説得力がありました。
「君はどこで女心を学んだの?」
少年は最初から疑問に思っていたこと質問をしてみました。
「生まれつきさ」
太っちょは、ウインクしました。
「そうと分かったら、出発は早い方がいい。朝日がのぼるまでにここに帰ってこないとだめだからな」
太っちょは、手をたたいて、少年を急かしました。
絵から絵へ移動するときに守るべきことは2つあります。
朝日がのぼり、この部屋に誰かが来るまでに、自分の絵の中に帰ってくること。そして描かれたとおりの位置にすべてを戻すことです。
そうすれば何の問題もありません。しかし、旅に出るということは、彼らにとって、簡単なものではありません。
展覧会では、どういう絵が飾られるかは、その時によって変わっていきます。
行く先々でどんな困難が待ち受けているかは見当もつきません。つまり、何が描かれているかは、行ってみないとわからないのです。
険しい山を登らないといけないときもありますし、深い森で迷子になることもありますし、猛獣におそわれることだってあります。
それぞれの絵の中にも、ひとつの世界があって、部外者である少年に、必ずしも、好意的な反応を示してくれるとは限りません。
そんな苦労を買ってまで、絵に描かれる人や動物たちは、冒険をしないのです。
考えれば考えるほど、決心は鈍ってしまいます。
少年は、自分の気持ちが変わらないうちに、旅立つことにしました。
第2章 白い虎の言葉
初めての旅は、不安と期待が入りまじり、妙な高揚感がありました。
目に入るものすべてが、少年を驚かせました。狭く閉ざされた少年の世界は、ぐっと広がりをみせます。
しかし、旅は始まったばかり、道のりは長く険しいものです。少年がいた絵の向かいにある少女の絵にたどり着くまでには、何枚もの絵の中をいかなくてはなりません。
「私に何も言わずに通り過ぎるつもりかい?」
少年が4枚目の絵を通り抜けようとしたときです。
低く険しい声が少年の足を止めました。
振り向くと、大きな白い虎が少年を黄色く光る目でにらんでいました。少年は、身動きできず、唾をごくりと飲み込みました。
「私も退屈しているんだ。理由によっちゃ君を通さないことだってできるんだ」
白い虎は、少年から目を離しません。恐怖のあまり、少年は体がこわばってしまい、動くことができません。しかし、襲ってくるような気配はありませんでした。
「・・・僕は、旅の途中で」
少年は声を絞り出すようにして言いました。
「・・・」
白い虎は、ピクリとも動きません。心が折れそうになるのをなんとか必死で支えながら、少年は話を続けました。
「その・・・旅の目的が、ある人に会いに行くことで・・・その人に、プレゼント」
「プレゼント・・・」
白い虎は、その言葉に引っかかりを覚えたようでした。
少年は、白い虎が次の言葉をつなげるのではと思い、しばらく待ちましたが、白い虎の口は閉ざされたままでした。少年は、再び話し始めました。
「その人は、遠いところにいて、プレゼントを届けるために、僕はここで帰るわけにはいかないんです」
そう言い終えると、しばしの沈黙が流れました。少年の心臓の鼓動は、恐ろしく早まっていました。あまりの緊張で頭もくらくらしますし、のどもカラカラです。
「君は何をプレゼントするつもりなんだ?」
沈黙を破り、白い虎は、少年に聞きました
「・・・甘い・・・飲み物」
すこし間があって、白い虎は、引き締まっていた表情を途端に和らげて大きな声で笑い出しました。少年は呆気にとられました。
「気に入った、気に入った。こんなに笑ったのは久しぶりだ」
白い虎は、満足そうに言いました。少年は、何が白い虎に気に入られたのかわかりませんでした。
「許してくれ、面白くて笑ったわけじゃない。君の初々しさを懐かしく感じたんだ」
白い虎は、すっかり少年に友好的になりました。
近寄りがたい雰囲気はどこかへと飛んでいきました。白い虎は、その怖そうな見た目に反して、案外おしゃべりで、話し始めると止まりません。
少年が少女のことを話したときなんて、聞いてもいないのに、白い虎は、女の子の扱い方など恋愛に関する豊富な経験談を上機嫌で話し出しました。
白い虎は、しばらく一方的に話し、ふいに遠くを見るような目つきになりました。すると、一転、真面目な表情で
「わたしは、本当に好きな子には、好きになってもらえなくてね。あのとき、あぁしたらよかったという後悔はいつまでも残るものだよ」
とさみしそうにつぶやきました。少年は、何か大事なことを聞いたような気がしました。
「とにかく、わたしは君を尊敬するよ。気持ちがまず最初にあったら、それを見失わないようにすることが大事だよ。自分に嘘をついちゃいけない。そして後悔はしないように」
白い虎は、少年の中に昔の自分を見ているような目をして言いました。少年は、白い虎の言葉のひとつひとつを胸に刻みました。
「君の旅に幸運があらんことを」
白い虎は少年をいたわるようにいうと、満足そうに、大きな声で笑いだしました。少年が白い虎の絵から次の絵に移動しても、その楽しそうな笑い声はしばらくやみませんでした。