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トゼンサウ  作者: ナルサワパン
新巻鮭の章
169/3031

第161回 凍月夜(いてつくよ)

1月23日


白と黒に拡がる、無尽の荒野を進む。

目を放していた隙に生命の拍動は吹き荒ぶ風雪の前に消え、空の黒、地の白。つゆ、動くものなき此処は極地か、あるいは、月面か。

オレンジの雨合羽はさしずめ、宇宙服。

音のない真空の宇宙空間に浮かび、耳に響くのは、己の呼吸だけ。

コウ、コウ、と繰り返す息吹。宇宙服の中に充ちてゆき、やがて。僕自身がこの吐息に埋もれ、窒息するのでは、ないだろうか。

凍りついた空気、コォーン、コォーンと軋み、震動する。まるで自分以外の命あるすべてのものが、死に絶えてしまったのではないかという幻想。

ぎしり。と脚に伝わる、新雪を踏み締める触感。距離が十倍にも、百倍にも伸びたかのように、歩み遮る。

目的のバス停は何百年もの風雪に晒され、埋もれ、もはや用をなさぬかに見える。手を伸ばし、雪を払う。無機質な、アクリル板。印刷された時刻表。降り積もった雪の下からこのように、簡単に、見慣れた姿が出てくることにむしろ違和感を覚えているのは、何故なのか。

懐の携帯を取り出し、時刻を確認する。17時57分。バスの時刻まで、10分程。しかし、この状況。10分後にバスが現れることを期待は、できまい。

このまま10分、野晒し。あっという間もなく雪達磨、であろう。こんなところで来る保証もない一時間に一本のバスを待つよりは。表通りに出て、10分に一度のバスを待つ方が、賢明なのではないか。

だが、10分。その10分で、表通りまで辿り着けるものだろうか。表通りに、出たとして。また、待つのでは、結局は、同じ。むしろ、移動に時間を割かれない分。こちらの方が、ましなのではないか?

冷気が体温を下げ、血流を滞らせ、思考力を奪い、積極的な行動に移らせない。無駄と知りつつ10分程そこで立ち尽くしたのは、そこから動くことを頭脳が拒否し、僅かでもあるこれ以上動かなくてよい可能性を選択させたからだ。先程から足下を踏み固めているのは、こうでもしていないと、たちまちのうちに身体が氷雪に侵され。生ける人間である自分の領域を守っておかなくてはならない気がするからだ。

右半身に積もる雪、払い除け。吾れ未だ雪像に成らぬ、吾れ、人間為り。懐より携帯を取り出し、時刻を確認する。18時、13分。見事に無駄な時間を過ごしたようだ。

再び、白と、黒。拡がる一面、無尽の荒野を、進む。



歩調(ピッチ)を速めているのは、体温が下がりきっているからだ。身体を動かし続け、血を巡らせなければならない。現代日本でたかだか2㎞の家路を歩ききれず、凍死するなど、物笑いのタネにもならない。

しかし、ここは本当に、現代日本の世界なのだろうか。生けるもの全てが凍りつき、動かぬここは、青く岩石砂の輝く月面にも似て。雪面に僅か、遺る足跡。人ならざる兎が跳ねたか、鬼が駆けたか。

先程より、すれ違うバスの姿一向に見えず、やはり待つことは無駄と識り、月の凍てつく雪路を急ぐ。

ふと、一面に、広がる雪原、訝しむ。此処は?そうか。此処まで、もう来たか。思いの外に進みの速くなっていた自分の歩み、予想外に先まで行き着いて居り、驚かされる。

此処は、此処より先は。長らく休業中と札の出ていた、あの、ファッション・ホテルの敷地。管理する者も訪れようはずのない、荒雪の夜。此処だけは降り積もる雪の除けられることもなく、踏み荒らす者もなく。辛うじて未だその体裁を保っている生垣より内は、雪の積もり行くがままに、時さえ凍る。

無意識にその中へ歩を進めたのは、何故か。目の前に広がる、無尽の荒野、只白の地平。誰一人足を踏み入れなかった未開のフロンティア、一人行く僕は、さながら、白瀬矗隊長か。或いは、ルイ・アームストロング船長か。この雪原を大和雪原と名付けたり、この一歩が人類にとって、大いなる躍進だったり、したものなのだろうか。

濡れた靴。足の底からしんと冷えが拡がり、頭の先まで。思考力が奪われたまま、ふわふわと進む、生垣の迷図、中央に在する宮殿、目指す。吹き溜まった降雪の、自然に描く丘陵。乗り越えんと脚に込むる力、足下に落ちる視線の、その端。

不自然な。

その場に在るのが明らかに奇異(おか)しい、赤い靴、輝くエナメル。

丘の上、真正面。洋装の美しい、一人の少女。いや、幼女か?こちらを見下ろしている目が、合ってしまった。しまった、というのは、明らかにそれが、居るべきでない。見るべきではないものと、感じられるから。

黒衣の少女はついと背を向け、建物の中へ消えて行く。自然と後を追ってしまったのは、何故なのか。しまった、というのは、明らかにそれが。追うべきではない。関わるべきものではないと、感じられるから。



無人のロビーは橙色の灯りに薄暗く、照らされており。導くようにぽつり、ぽつり。廊下の先まで灯りが点る。

電気が、点いている。それに、暖房。長らく休業中の札の出ていた、ファッションホテル。このような荒雪の日を選んで営業するわけもなく。無人であるはずのこの建物の中だけが、人工的に整えられた環境だという。例えようもない、違和感。しかし、導かれるまま、廊下を歩む。

もとより、繁盛するとも思えぬ立地。長らく休業中の札の出ていたのもやむ無しと思わせる、古びた内装。だが、建物の構造そのものは意外にも趣のある、ロビー中心とした、H字型。その、一端、303号室。一階のはずが、303号室。全てが狂って、掛け違えているような、感覚。

部屋には、ソファー、文机。ベッド。簡素な、洋室。雪に埋もれた雨合羽を脱ぎ捨て、ソファーに腰を下ろす。よいのだろうか?今さらに、疑問を抱く。数十年に一度の荒天、記録的寒波、大雪。地上の景色の一変した夜とは言え。これは立派な、不法侵入、現代日本の法律に照らせば。

否。果たして此処は、本当に現代日本の世界なのだろうか?それ以前に、根本的な。生命の維持という本能が、この場に居続けることに疑問を抱かせようとする。

雨合羽の下、雪に濡れたはずもないが、じっとりとした衣服に包まれ、汗に湿った身体。ソファーに力なく預ける。

突如、目の前に居たそれ。目が、合ってしまった。

いつの間に、部屋の中。僕の正面、先程の少女。いや、幼女か?

透き通るように白い肌。深い闇のように底の見えない、黒目がちな瞳。美しい。が。この世に生きている者とは思えない。相当に不味い状況であると、心臓が早打つ。

「お名前は?」

平静を保って話し掛けたのは逆に、自分が平静を保っていないことを、識っていたから。この世ならざる者との、邂逅。恐怖。

「ゆきこ。」

雪子?幸子。由紀子、か。雪子でも幸子でもなく、由紀子と断じたのは、何故だろう。

しかし、下がりきった、体温。疲弊しきった、身体。暖かい部屋、ソファーに腰を掛け。彼女が何者であるにせよ、構うまい、もはやここから動くつもりもない。溜息をつき、懐より携帯を取り出す。画面の動きが重い。天気が悪いと、電波の入りが悪いのは、いつもの事。こちらの知識のなさに浸け込んで、強引に勧められ、購入した使い勝手の悪い、携帯。

由紀子の視線が、画面の文字をじっと、眺めている。検索候補。少女 巨乳。少女 レイプ。 輪姦。ハッと、慌てて画面を消す。

深い闇のように底の見えない、感情の読めない黒い瞳。美しい。が。年の頃、12、13。今、画面に映っていた言葉の意味は、もう理解できている年頃だろうか。背の低さに比して、発育の良く見える体。彼女は、この建物がどんなことを行うための施設か、理解しているのだろうか。

気づけば由紀子は、僕の胸に背を凭れさせ。寄りか掛かるように、座っている。



「いけませんわ。」

若干、熱を吐くように変わっていた由紀子の息遣い。その言葉にハッと我に返り、息を荒れさせながら夢中で彼女の胸をまさぐっていた手が止まる。

今、僕は何をしようとしていた。そう、今していたのは、相当に良くない事のはずだ。間違っても、年端もいかぬ、少女(こども)にすることではない。

彼女の言葉は若干、大人びた、マセた対応のようにも感じたが。この少女、いや、幼女か?彼女は果たして、今自分が何をされていたのか。正確に、理解できているのだろうか。

下がりきった、体温。疲弊しきった、身体。奪われる思考能力。

生命の維持という本能が、異性の肉体に生殖行動を求めてしまったのか。身体の中心に、まだじんと熱い感覚が残っている。血の昇った頭を冷やそうと、窓辺に立つ。

そうだ。いつまでも、ここにこうしては、おられない。帰らなくては。

天候の様子は、どうか、と望んだ窓の外、一寸先も見えぬ程に吹き荒れる、猛吹雪。

「そんな!?」

とても、帰るどころではない。確かに外は吹雪いていた。

だが、これは。空の黒は吹き荒ぶ氷雪の白に埋まり、地の白は闇に閉ざされ、どこまでも黒く、もはや見ることすら叶わない。天と地がひっくり返り、入れ替わってしまったのかと思う程に、荒れた天地。

「いけませんわ。」

背後(うしろ)から、由紀子の声。

「だって、貴方。死人(わたし)を、抱きしめてしまったんですもの。」

深い闇のように、底の見えない黒い瞳。窓の外、黒白(ネガ)の反転した、逆しまの世界。

そうだ。(あっち)の世界は、数十年に一度の、記録的な荒天。大雪と言っていた。ならば、次に(こっち)の雪が晴れ、記録的な好天となるのは。

数年後か?数十年後か?それまで果たして、僕は此処で、生きて居られるのだろうか?

(あっち)(こっち)地球(あっち)(こっち)(あっち)(こっち)。ぐるぐる、ぐるぐる。入れ換わり、立ち替わり。

ああ、あああ。あああああああ。


「ふふ。」

由紀子が、背後(うしろ)で笑ったように聴こえた。























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