Ex. [新春特別稿] 箱根八里
1.
新春、正月一日。
ひねもす、のたり、のたりと暮れ行くこの国。
多勢に漏れず、のたり、のたりと過ごしているのは江戸から来た旅のサムライ。ナンジャモンジャエモンである。
昨年の暮れ、旅の暮らしに疲れた体。ここらで一度、休めんと。里を離れて訪れし、山の秘湯の、寂れ宿。思いの外に居心地がよく。のたり、のたりと徒に、湯に浸かっては寝る暮らし。今日も今日とて湯に浸かり、流行り唄など、口ずさむ。
ぱ、ぱ、ぱーなそにっくとちっちゃいつーのーくっ、くっ。
ぱ、ぱ、ぱーなそにっくとちっちゃいつーのーくっ、くっ。
湯に浸かりて体を暖め、湯から出て体を冷ます。
その繰り返しから抜け出せず、のたり、のたりと日は暮れる。
何度めかの入浴、湯に浸かった、モンジャエモン。見上げる空に、満天の星。
―広い、空じゃのう。
改めて感心したように、空を眺めるモンジャエモン。或れは北斗、彼れは天狼。大空を割くは、天の川。
―どれ、一ツ、二ツ。
ふとした悪戯心に、数えきれぬ星を数える。百まで数え、上がる目論見。
―こうでもせねば、上がれぬわい。
まるで童のような己の行い、つい可笑しくなり、フッフと笑う。
―さて。三ツ、四ツ、五ツ。
童心に返りて星を数えるモンジャエモン。さて、遮るように、どやどやと。多数の足音、話し声。
―はて、面妖。
一人の良い気分、星数えを中断され。少々ムッとしたモンジャエモン、寂れ宿には自分より他、客のない不自然に気付き、これは何ぞと首を捻る。
湯煙の向こうに見ゆる姿、これは不可思議。犬、猿、兎、等々、山に棲む者、四ツ足ども。先客に気づいてか気づかいでか、次々勝手に湯に浸かる。
―やあ、とりどの。おつかれさまでありました。
犬が頭を下げる。廻りもあわせて、おつかれさまでありました。モンジャエモンも思わず、おつかれさまでありました。
―やあ、いぬどの。ことしはよろしく、おねがいしもうす。
鳥が頭を下げる。廻りもあわせて、おねがいしもうす。モンジャエモンも合わせて、おねがいしもうす。
どうやらこれは、四ツ足どもの、年賀の挨拶。ならば取り立て、邪魔はすまい。モンジャエモンは四ツ足どもを脅かさぬよう、湯煙に紛れ、岩影へ。四ツ足どもの会話を枕に、ひとり見上げる、星の空。一ツ、二ツと徒然に、再び始める、星数え。
―やあ、こよいはよいつきじゃ。がんたんそうそう、おめでたい。
猿満足げに、空を見上げる。
―せいようじんのことばで、せいらぁむーんという、そうだよ。
兎賢しげに、知識を披露。
―さて。にじかいは、どうします。カラオケですか、カラオケ。
犬嬉しげに、舌を出す。
―またまた、ヤマちゃんはすぐ、カラオケだ。おれオンチだし、まだのもうよ。
鳥愉しげに、頭振る。
―むう。集中できん。
四ツ足どもの会話に、聴くとはなしに引き込まれるモンジャエモン。さりとて黙れと、無下には言えず。やがて止まる、星数え。
―まあ、それもよかろう。
連日連夜占領し、一人楽しむこの湯船。今宵はこやつら四つ足どもに、譲って渡すが筋というもの。
モンジャエモン、今は静かに、四つ足どものとりとめない話、耳を傾ける。
―そういえば、ちかごろ。はこねのおやまに、へんなものがでるそうだよ。
―やあねえ。
―やあねえ。
四ツ足ども口々に、やあねえ。やあねえ。
―ほう。
モンジャエモン、それとはなく、聞き耳を立てる。
元旦の日の、夜は更ける。
2.
正月二日、早朝。
箱根の山に挑むは江戸から来たサムライ。ナンジャモンジャエモンである。
天下の険と名高い箱根山。目の前には万丈の山、聳え、この先はまた、千尋の谷か。
昨夜、怪異が出るとの四ツ足どもの話、捨て置けず。朝陽とともに、その前に立つ。
旅から旅の、その暮らし。自然、鍛えられし、モンジャエモンの健脚。さて、箱根の山に、通じるか、否か。
―このわたり、は、あぶないよ。
さて、不可思議面妖。人影見えぬ山の路、モンジャエモンに、かかる声。見れば一羽の雉鳩が、薮の中より小首を傾げ、モンジャエモンを眺め居る。
―む、これは鳩殿。いったい何が、危ないのでござるか。
鳩が話すは、流石に面妖。しかして魔の山、箱根山。鳩が話すくらいはおかしくあるまい、むしろ自然と、モンジャエモン。雉鳩へ向け、問いをかけるが。鳩殿は只、小首を傾げ、モンジャエモンを、見ているばかり。
―むぅ。
鳩殿が話すのが自然であれば、鳩殿が話さぬのはより自然。こうして見詰めていても、仕方あるまい。モンジャエモン、幾分納得のいかない心持ちながら。心を切り替え、山路を進む。
一刻程、歩いた頃。モンジャエモンの背後より、たったと響く、軽快な足音。この山路を可様に軽く、平地が如く、駆けるとは。現れしは鬼か魔か、はたまた天狗の、怪物か。
―や、なんと、奇っ怪な出で立ち。
振り返り、対手を認めるモンジャエモン、その異様さに、目を見開く。
背後より登りて来るはこの寒空に衣も着ずに、股まで上げた、短い下履き。上半身に纏うは袖のない、脇の大きく開いた襦袢。足元に、見たこともない、高鞋。
鉢巻を〆め、襷を掛けた威丈夫が、たった、たった、と駆けて来る。
豪気で知られるモンジャエモン、余りの事に暫し呆然、立ち尽くし。手を振り笑顔で駆けて行く、韋駄天の神、見送るのみ。
―モンジャエモン、あぶない。
ハッと気が付き振り向けば、モンジャエモンに迫る、黒い疾風。怒濤の如き唸りを上げて、駆け上がりたる、光る馬。
―むぅ!?
すんでのところで身をかわし、転がり込んだ、薮の中。モンジャエモンが眼前を、ブリブリブリと、音を立て。二足の馬が、滑り行く。股がる武者は、革鎧、全身隈なく、固めるも。その肩から先、首が無く、朱の鮮血、滴り落ちる。
―小田原の落武者の、亡霊。に、してもまた、奇っ怪この上なき身なり。
モンジャエモン、流石に理解が追い付かず、一人唸るは、山の路。
―ふむ。
不意に何かを思い立ち、踵を返して、下山の途へ。
―鳩殿、かたじけのうござった。
鳩殿に一礼、通り過ぎ行くモンジャエモン。
―明朝が、勝負じゃ。
さき出逢いたる二大の怪異、逃さぬものと腹に決め。
正月二日の、日は暮れぬ。
3.
正月3日。夜明けに光る、箱根山。
たった、たった、と山の神、ひた走りゆく、軽い足音。
その背後より、ブリブリブリと。爆音を上げ、迫る疾風。首無し武者の、真黒の頑馬。或ッと言う間も、有らばこそ。忽ち並び、山路を駆ける。互いに譲らぬ、睦月の宴。
パッ、と背後より、突然。
目映いヘッドライトが、走り続ける両者を照らす。その様、真昼の太陽が如し。
ドッド、ドッド、と震えるエンジン。腕組みをしたモンジャエモンが、仁王の様に背を反らす。
モンジャエモン、アクセルを捻る、一ツ、二ツ。その度、高らかに、空吹かしの爆音が吼える。
獲物を前に背をたわめる、獰猛な猫科の猛獣。
三ツ!モンジャエモンが、地を蹴った。溜めに溜めた力、解き放ち、遂に駆ける陸の帝王・ハーレー・ダビッドソン。
モンジャエモンのハーレーは暴風のように迫り、瞬く間に山の神、首無し武者に追い付き、追い抜き、無情に背後へ引き離し。ただ一直線に、山路を、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも駆けていく。
―さあ、風になろうぜ!
輝く朝陽の中、モンジャエモンが爽やかな笑みを浮かべた。