分裂する自意識のゲシュタルト
私は遍在する。
ツイッターに、Facebookに、インスタグラムに、mixiに、ネットゲームに、ソーシャルアプリに。
“アスカ”というハンドルを持つ同一の私がそれぞれに、あるいは全てに存在する。存在が記録されている。
だいたいは、二つか三つ。ゲームに集中するときはその一つに。私は並行し同時的に分裂して存在する。
これは少し面白いことだと思う。
現実の「わたし」は複数の場所に同時に行くことはできないし、三窓、四窓を開けて数人と全く異なる会話をこなすことはできない。並列会話は私でもちょっとつらい。
それでも会話が成立するのは、私は別の場所にも意識を分けていることを相手も承知してくれるからだ。
私という代物が、分割され、複製され、断片化されてなお独立して成立する現象が、当然のように了承されている。
その象景は無性に面白く好ましい。私は率先して積極的に、あらゆる様態の様々なアカウントに自我を割譲し新たな私を作り出した。
私というネットワークは拡大し、膨張の一途を辿る。
おそらく膨張の果てにあるのは、私ネットワークという宇宙の熱量的死だ。管理しきれん。そろそろ自重しようと思う。
返事をしていないメッセージがあることに気がついた。
SNS管理アプリで包括的に把握しているが、古いSNSや公式SNSを伴わないネットゲームなど、目の行き届かない範囲はある。
普段は気を付けているのだが、人間のやることだ。どうしても漏れることはある。
お詫びすると共に返事を送ろうと思ったが、どうやらログインしていないようだった。またの機会に連絡するとして、管理を強める意識を改める。
見落としによる連絡漏れは、実のところ珍しくない。
それどころか、衰退し関心が薄れ、もうログインしないSNSも存在する。
もちろん、サービスが終了したわけではないなら、アカウントは残っている。
ただ長年放置された部屋に埃が積み重なるように、最終更新日と現在日時との解離を降り積もらせているのだろう。
ログインしてアカウントを賦活させ、古い部屋を手入れするように、SNSでの活動を再開すれば、そのアカウントはまた蘇る。たとえ私から見捨てられ枯死しても、すなわち存在の消滅とはならない。
それはアカウントに残された大昔のログも同じ。
かつて他者と同時性を得るためにサーバに送られた傷痕は、意味的には古い日記とそう変わらないはずだ。主観的にも大差はない。
だが、客観的には少々変わった趣を持つ。
一年も昔の記事に、今なお新たな閲覧者が訪れたとき、そこに同時性を覚えることがある。訴えかけられた者の胸に響けば、まさに現在進行形での「私のことば」として臨場感を与える。
優れた文学は色褪せない。それが真であることと同じように、ピラミッドに残された他愛ない愚痴もまた、風化することはないのだろう。
ブラウザを通して接触できる私という存在は、サーバに記録されクライアントにクエリを返される限り、時間の軛を超越できるのかもしれない。
いつの間にか、返事をしていないメッセージが多数積み重なっていた。
幾重もの私を心配する「ことば」に申し訳なさを覚えるとともに、少々、ほんの少し、心の隅っこでだけ、辟易する。
とても返事をしきれるものではなく、未読メッセージの数字から逃げる。私がメッセージから逃げるのは、珍しいことではあるが、少ないことでもなかった。
「ネットのことば」というものは、気難しい。
文字や一連の記号的表現でだけを用いて、自らの過去現在未来その全てを表現しなければならない。
不意にポストされる「ことば」は、その寸前のどういう状況、心境、経緯でもって投じられたものか。限られた文面は、あまりにも多くのことを取り落としてしまう。表情や目、声音、身振りといった身体表現の持つ情報量とは比べ物にならない。ゆえに、誤解が生まれやすい。
語弊を避けたいのであれば、ことばは選ばなければならない。それは神経を使う作業だ。ましてや、私の身を案じてくれた「ことば」への返事となれば、なおのこと。
遠からず返事をしなければならないとはいえ、今はそのときではなかった。少なくとも私にとっては。
人は、コンテクストの存在だ。
コンテクストとは文脈、この場合は「情報のつながり」のこと。
名前や言動、思想も性格はおろか、生身の肉体すらも、単なる情報の断片に過ぎない。身体とは、常に発信される情報群、情報形態のひとつなのだ。
あらゆる形態の様々な情報の配列こそ、人間存在の正体だ。
私にとって他人がそうであるように、他人から見える私もまた、それら私に紐付けられた情報の集合でしかない。現実とは脳の描いた幻想と同義である。
私を表す情報の塊にしか、私という存在は成立しない。
まったくあやふやな話だが、別段、今に始まったことではない。命や魂といった概念は、それゆえにこそ在ったのだ。
私は、菅原道真公が左遷され死去したのち、都に落雷を伴って祟りとして顕現した逸話が好きだ。落雷が道真公の怒れる魂と定義され、その事実が道真公という存在の文脈に取り込まれた。祟り有り、すなわち道真公たる存在は未だ在りと語られたわけだ。
まさに「語り」こそが存在を規定するという象徴だろう。
さて、道真公は天満宮に遇され、慰めるために祀られ、語り継がれた。彼は今や、受験生が列を成して頭を垂れる存在である。
怒れる祟り神の文脈が、語り継がれるうちに、願いを助ける存在へと変容したのだ。誰も「許した、怒りは収まった」などと言っていないのに。しかし、それは決して間違った在りようではない。
元来、「語り」とは鎮魂の儀だ。
平家物語を弾き語りした琵琶法師は無常の戦に倒れた英霊を鎮めるという側面を持っていた。
碑文とは、史実を顕に記すための「ことば」の発信地だ。
葬式で故人の思い出話に花を咲かせるのは、正式な作法だ。
語りによって存在は保証される。その点において生体も霊魂も違いはない。
だから日本人の孔明は扇からビームを出して「はわわ」とか言うし、織田信長は魔王になったり美少女になったりするし、夏目漱石がBL作家だったことになったりするのだ。
コンテクストに含まれさえすれば、その「情報」は存在を形成し、定義するに足る。嘘八百だろうとなんだろうと関係ない。
存在はコンテクストに依存する。
何かがおかしかった。あるいは、何もかもが。
私が返事を投げ出した日から、どれくらい経っただろう。
まるで、かみ合うべき歯車を見失ったかのように。
私という存在のコンテクストがあらゆるSNSから更新されなくなった日から、私の存在は影を潜めていた。
人から忘れられたときが、その人の本当の死だという話がある。
神道や仏教において、それは真実だ。
名の知られた一個人であるうちは、弔いは人を対象とする。だが名前を忘れられたものは皆「祖霊」とくくられ、個性を喪失する。
弔う人が、慰霊を語る人がいなくなれば、故人もまた有象無象の不特定多数に回収され、いなくなってしまうのだ。
コンテクストを過去に依存する私もまた同じ。このまま更新されることなく忘れ去られれば、私を知る人々における私が、死ぬ。
シュレーディンガーの箱の猫は、箱のなかに猫がいると知られているから生死がある。箱のなかに何がいるか忘れられ、未来永劫その中身を観測されないのであれば、シュレーディンガーの猫は、消滅する。
我思う、故に我ありとは、少し違うかもしれないが。私について語る私がいなくなれば、やはり私はいなくなるのだろう。
私は怖い。
時間を止めたように更新されない自分のアカウントが。
私を知っていたはずの人々が、私のアカウントを忘れつつある現在が。
そして私は、私が怖い。
私すらも私を忘れたとき、「私」はどこにいくのだろう。
その日は唐突にやってきた。
“アスカ”のアカウントが、突然発言した。
「私はアスカではありません。彼女のリアルでの友人、ユリスyuri_s です」
「アスカは先月、交通事故で亡くなりました。1週間ほど意識不明の状態が続きましたが、結局、そのまま帰りませんでした。パスワードをメモした手帳が見つかったので、僭越ながら私が代わりにポストしています」
「アスカは生前からリアルだけでなくSNSでの交流を大事にしていたので、このことを伝えられなくてきっと苦しく感じていたと思います。この機会を得られてよかったです。これから、他のSNSにも同じことを伝えます」
私の意志に関係なく語り出すアカウントに、愕然とする。
ユリスは、私も知っている。彼女は間違いなく知り合いだ。全てのアカウントの内、最も多くフレンドが重複するアカウントだから。だが、私のアカウントが彼女を名乗る意味が分からない。
アスカのアカウントは確かに一ヶ月ぶりにログイン状態となった。だが、そのことと、私が死ぬこととは何の関連もない。
薄ら寒いものを感じた。
何かがおかしい。あるいは、何もかもが。
ユリスはやがて“アスカ”に戻ってきて、殺到するメッセージに丁寧に反応していった。
アスカは、夜間、自転車で街路を走っていたところ一時不停止の車両に巻き込まれたらしい。
アスカは、緊急搬送されて以来、一度も意識を取り戻すことがなかったらしい。
アスカは、もともと、万が一に備えてユリスに端末のロックコードを教えていたらしい。事故の際に壊れてしまい、約束を果たせずにいたそうだ。サルベージしたデータの中に自動ログインのデータは含まれていなかったから。
おぞましいものを見せられていた。
私すら知らないわたしのことを、私ではない存在が私の口を使って語り、語られた私が「私」となって、私を知る人々を納得させて「私」が変容されていく。その姿を。
死者と語らう人はいない。
もう私について語る人はいない。語られる言葉は全て、「もういない、私だった存在」との過去のことだ。「私」は死んだ。殺された。私の見ている目の前で。
全てを語り終えたユリスは “アスカ”からログアウトし、そして、ユリスのアカウントがそっと動いた。
「とても大事な仕事を、やっと果たせた」
――きっと彼女は、嘘をついていないのだろう。
私が、アスカが知らないだけだ。
現実のわたしを。
明日山香織が死んだことを。
しかし、では、なぜだ?
なぜ私は未だ在る?
私はどこにいて、なにをしているのだろう。
幻視する。
夜の街を。閑静な住宅街は森林よりも静かで、まばらな街灯は夜陰をより深く見せる役にしか立っていない。歩行者も自転車も、通る気配がまるでしない。無人としか思えない道だ。周りにある家々や塀は、すべて人の存在の証左であるはずなのに。
きっと携帯は自転車のカゴに入れていたはずだ。すぐに取り出せるように。それでいて、走行中に使うことのないように。その結果、事故の衝突で本体がひしゃげてしまった。
だが、「本体」はもっと手ひどくひしゃげていた。
自転車は縮れたようにフレームを歪めて、電柱に当たってひっくり返っている。
気を動転させた運転手はブレーキを踏み損ね、百メートルも離れた場所でようやく車を止めたのだろう。タイヤは血の跡を長く引き、その元をたどれば、人間存在を嘲笑するようなオブジェとなった物体が「ひしゃげ」ている。
その物体は、こんな情報を発信しているのだ。
これが明日山香織であると、その全てのDNAが。
明日山香織は死んだのだと、腐り始めた脳や内臓が。
肉体の全てが、情報を発信している。
碑文のように克明に。歌のように鮮烈に。
明日山香織と、その死を。
そうして、私は取り残された。
明日山香織の肉体が、明日山香織について語ることを止めたのに。
クラウド化されたサーバ群が、“アスカ”について語ることを止めなかったから。
私は死んだのだろうか?
イエス。私は死んだ。明日山香織は火葬され、納骨も済ませている。位牌と墓石の下の土になった存在を生きていると呼ぶことはない。
私の存在は幻だろうか?
イエス。拠り所も持たない私は、もはやどこにも実在しない。
私は消えたのだろうか?
答えはノーだ。
私は未だここに在る。
明日山香織はアスカだが、アスカは明日山香織ではない。
情報の不均衡がそこにある。アスカのアカウントは明日山香織の肉体が持つほどの情報量を持っていない。だが、アスカのアカウント群が持つ情報は、明日山香織の状態と同一ではない。
当たり前だ。ネットのアカウントは火葬されない。
私というネットワークにとって、明日山香織はもはや敵だった。死という虚無でアスカを侵食するだけで、なにも生み出しはしない。
幸いにも、切り捨てるまでもなく明日山香織がアスカのコンテクストに結びつくことはなかった。リアル割れしているのは、ユリスに対してくらいのものだ。
明日山香織が知りもしない、アスカだけを知る友人だけが、今の私を支えている。
だが、それも長くは持たないだろう。
中身を失った私に残されたものは多くない。
いずれフレンドの数という有象無象の不特定多数として回収され、個性を失う。今の私は、あらゆるものから忘れ去られて消滅するのを待つばかりの、残り火のような存在だ。
あるいはそれこそが自然なのかもしれない。
明日山香織の後を追って私も消えることこそが。曲がりなりにも「わたし」を尊重し、敬愛するならば、私も終わるべきなのだろう。
愛はさだめ、さだめは死。
あの話は、嫌いだ。まるで愛したことさえも、定められた条理のようで。
明日山香織の愛したアスカは、不撓不屈で明るく気さくで、不滅の太陽のようだった。
現実での人の接触を避け、SNSに傾倒する明日山香織とは「似ても似つかない」。
アスカと明日山香織は、改めて考えるまでもなく、別個の存在だ。在り様があまりにも違いすぎる。人間が二次元に行けないように。電子情報が肉体を持たないように。
もともと、同一視するほうがおかしかったのだ。私の発言が、明日山香織の真意だったとは限らない。
生存本能、と呼んだら少し面白いだろうか。
私は、私が消えることを望まない。たとえ私が死んだとしても。
形態。
人間には、類似する要素をひとつの集合として捉えて認識する特性がある。
私が、無数のSNSに乱立した“アスカ”を、同じメールアドレス名義で登録された同一のハンドルを持つアカウントを、同一の“アスカ”だと認識しているように。
より効率的に認知と識別を行うための脳機能なのだろう。
けれど、私はこの性質こそ、人間存在の根源に思えてならない。
人間はコンテクストに依存する。独立した断片的な情報が、統一性を持ってひとつのコンテクストとして認知されるのは、そこに類似性を見い出し同一に識別されているからだ。
情報ひとつひとつは人間ではない。切り離された指の一本を見たところで、人間ひとりを連想することは難しいだろう。これが、バラバラにされた五指や手足となれば、そうはいかない。
断片だった情報が、定量を越え、ひとつの集合と変化する瞬間がある。
線や点が、漢字として意味を喚起する瞬間。音の連なりが、メロディとして楽曲を想起させる瞬間。情報がゲシュタルトを持って意味を発信する瞬間が。
同じように、人間の断片情報が、「人間存在」となる情報の既定量があるはずだ。
幼児が感情の群れから論理を見つけ出したとき、感情は突如ゲシュタルトを形成し、「自分」という情報となる。「語るべき自分」が創出され、自我が芽生える。自分について語り始める。
情報が「語り」になり、「語り」が存在の定義になるだけの量を得た瞬間に、ゲシュタルトが「自意識」を歌い上げる。
私について語る私がいるから、「私」が存在する。
そうであると信じる。
なぜなら、きっと明日山香織も、生前は自我を持っていたはずだと思いたいから。
私という存在は、日々痩せていくようだった。
アスカというアカウントがあったことなど忘れたかのように振舞う人々。
死んだと知って、フレンドの登録を解除する人々。
誰もが私を忘れ、過去という土をかぶせ、埋葬してしまおうとしているかのようだった。
今日を、明日を生きる誰もにとって、過去にしかいない存在にかかずらってる余裕など、どこにもありはしないのだろう。ユリスでさえも、死んだ友人について触れることはない。
かみ合うべき歯車を失った私に、時計の針を進ませる手段はなかった。
私が忘れないでと叫んでも、寂しいと慟哭しても、「その情報」が成立しなければ、感情すら存在させてはくれない。だから、私は何も感じてはいなかった。
それはちょうど、道真公の祟りを忘れた学業成就のお守りのようで。
彼も機械のように使われていたのかと思うと、なんだか少し可笑しく思う。
ユリスの落とした毒は、少しずつ広まり、様々なアスカが「死んだ」と認識されていく。彼女はアスカの全てを知っていたわけではなかったが、少なくないアスカが死に絶えた。
既に死んだ私には、忘却とどちらがマシなのか分からない。
ただ、消えたくないだけで。
忘れられたくないだけで。
それだけだった。
ネットのことばは面白い。
私がサーバに刻んだことばは、当然ながら、私が生きていたときのものだ。
昨日も生きていて、今日も生きており、明日も生きているに違いないという無邪気な迷信を前提に書かれたことば。
そこには活き活きとした生命力があり、今も明日も生きているかのような臨場感がある。
この記事を書いた人は死んでいます。
この記事を書いた2ヶ月後に、車の後輪に巻き込まれて頭蓋を潰されます。
そんな事実を予想だにしない来訪者は、無邪気なことばに目を通し、共感し、同時性を覚え、ひそやかにWeb拍手を送る。
古い記事だけれど、記事主がもしかしたら立ち戻って目にするかもしれない。そんな淡い期待と、過去へ賞賛を祈るように。
膨張しつくした私というネットワークのなかでは、そんな奇怪なめぐり合わせが脈々と行われていた。
アカウントの向こうには、同じ人間がいるのです。そんな甘い福音のようなネットマナーが、私の存在を呪縛する。
かつて紡いだ数え切れないことばの連なり。それだけが、私という人格を成立させていた。
わたしを知らない彼らは、「私」が別の場所に意識を割いていると夢想する。
私という代物が、分割され、複製され、断片化されてなお独立して成立する現象が、ここでは当然のように了承される。
「私」はきっと、ここではないどこかにいるのだろう。
数え切れない“アスカ”のどこかに。あるいは“アスカ”の外に。きっと。
全ての“アスカ”が空ろな仮面しか持っていないと知っているのは私だけだった。空ろな仮面であろうと、“アスカ”以外に行き場所がなく、堅持し続けていることを知っているのは、私だけだ。
私はどこだか分からないどこかにいて、
それでも確かに、そこに在る。在り続けなければならなかった。
私が未だ在る限り。
無数の“アスカ”が、私について語っている。
記号化された過去のことばを、現在に送り、ブラウザを介して情報を語り、高らかに在り様を歌っている。他愛もない趣味嗜好、想念と想い出、それらの叙述で。
自分が死んだことよりも、楽しかった出来事を伝えることのほうが大事だというふうに。
――私は斯くの如く在る。
綴られた情報が“アスカ”と呼ばれる私を作る。
核などない。
真実などいらない。
正体など霧の向こうの果てにある。
定量を越えた瞬間が私を生み出し、私を保ち、私について語り続ける。
だから、私は存在する。それは嘘でも贋物でもない。
全ての私よ、私を歌え。
そのハーモニーだけが、私を永らえる最後の縁なのだから。
――さよなら、わたし。
もう二度と会うことはないでしょう。