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月の御影  作者:
9/30

9. 椿

今がどれだけ希少で泥濘に足を取られた不自由さに覆われていたとしても、

私は私に出来ることがどれだけ少なくて、迷わなくていい今を生きている事を理解したい。

未熟、なんて言葉は高みを望むものの誰もが経験すべき通過儀礼であって、それは私も例外ではなかった。

勿論百合の言っていた通り、そこにもまた例外というのは存在するのだろうけれど、

この手の会話で百合が優劣を引き出したことは一度たりともない。

だからこそ今この瞬間の選択一つ一つが『私』の本質と向き合う最初で最後の機会。

二度目はなくて、後悔はその選択を侮辱していることと同意。

なら私は今だけを見ていればいい、その先の未来へ時間が運んでくれるから。

その先がどれほど深くて昏い絶望であったとしても。


 ◇


私の朝は早い。勿論それにも例外はあるのだけど、今日は別の方向で例外だった。

外から窓を叩く無数の小さな音が重なり合って響く。


(...雨か)


桜の好きな天気。

家事全般を行う私にとってはあまり喜ばしい天気ではないけれど。

部屋干しは基本的にしないから今日は洗濯機を動かせない。

だから朝のランニングはなし。代わりにベッドと向かい側の壁一面に取り付けられた本棚から、

上から四段目、左から二列目の未読本エリアの中から最近購入した洋書を手に取る。

辞書ほどの厚みがあるのに驚くほど軽いそれは洋書ならでは。

ジャンルはダークファンタジー、邦書と違って一々”本格派”みたいな余計なものをつけないところに好感が持てる。

なにより読むのに時間がかかりそうだから空き時間を埋めるのに暫く困ることはないだろう。


この時間はまだ外が明るくなる少し手前で、私は机のテーブルライトを付けて椅子に腰掛ける。

ぼんやりと暗い部屋、手元のページを照らす光に、時折耳をすませば聞こえる雨の音。

全てがこの瞬間のために揃ったパズルのピースのように不安定で美しい。

風は穏やかで、雨粒は小さくて、けれどわずかに風はこちらに傾いている、そんなバランス。

ページをめくる音が幾度と響き、時計の秒針も等間隔に耳に届く。

何もかも聞こえすぎる私が穏やかに過ごせる数少ない時間の一つがここにある。

だから――


「...私も、雨は好きだよ」


独り言のように、けれど確かに桜へと呟く。

心の中の桜はやっぱり柔らかく微笑みかけてくれた。




誰かに何かを強いられることが無くなってからの私は自分の時間を手にすることができた。

これは私の意志だと思えただけでより大切なんだと思えるようにもなれた。

今は結果、私にとって決して悪いものではなかった。

そのおかげで私はここまで強くなれたのだから。

心は桜が支えてくれる。

多くの知識を身につけて、多くの物語を知って、桜を悦ばせてあげたい。

私の行動すべてが桜の為なんだよって。

涙と同じくらい無粋で劣悪な感情の副産物はあの時に一生分を置いてきた。

たったひとつ絶対のものだから信じられる、その存在を身近に感じることのできる幸せは誰にも侵させない。

守りきるための純粋さを持ってして私は変わり続けることを決めたから。

偏って見てしまっている自覚はある。大衆と随分とかけ離れた非常識に身を置いている自覚も。

悪いだなんて思わない。だって全ては桜の為なんだから、彷徨うことがあってもそれだけは見失わない。

女という特権、不自然な誕生、あらゆる要素が重なり合って今があるのだから、

私はきっとこの先の道を後悔することになっても迷わない自信がある。

だってこんなにも私は桜のことを愛しているのだから。


時計はもうすぐ六時を迎えようとしている。

私は開いているページに桜が私の誕生日のために作ってくれた栞を丁寧に挟んで、

ゆっくりと両手で閉じると、椅子から立ち上がり、引き出しから下着とシャツを取り出して部屋を出る。

ドアを出て右手に廊下を進んでリビングに入り、冷蔵庫へと向かう。

上段の右扉の麦茶を取り出してテーブルに置いてから食器棚からクローバーのプリントグラスを取り出す。

そこに半分ほど注ぎ込んで一気に喉を鳴らして飲み干す。

乾いた口内が潤いを得て若干の硬直が解れて流動する。喉を通過する刹那の音もはっきりと聞こえる。

骨振動の前、それが私の身体を私に伝える身体からの伝達手段として進化することなく残っている。

グラスを流し台においてリビングを出るとシャワールームへと歩く。

脱衣所に入るとシャツとパンツを洗濯籠に放り込んで下着と替えのシャツをバスケットに置いてシャワールームに入る。

朝に冷水を浴びるという行為は随分と昔から繰り返してきた習慣。

あの家にいた頃は桶で水を掬って浴びていたけれど。

禊、のようなものだろうか。あまり深く考えたことはないけれど、必要だと感じているから続けているのだろう。

昨日、そして夢による過去の追体験ににた景色と記憶、それら全てを私の中で一度リセットさせる。

そのための手段の一つがこれだったんだ。

私は桜の為に生きていて、私の成す事全てが桜に捧げるためのもの。

だから余計なものは簡単に捨ててしまえる。過去も枷になる前に流し落としてしまえ。

思考がシャワーヘッドから降り注ぐそれに流されていく。

頭から首筋を流れて胸元をすり抜け、腹部をなぞり足を伝って落ちる。

何度も何度も、じっと目を閉じて浴び続ける。体が冷えきる際まで、ずっと。



シャワーから上がるとバスタオルで全身を拭いて下着を着ける。

その上に薄手のシャツを被り、ドライヤーで髪を乾かしたあと化粧水を軽く顔に塗してから自室へと向かう。

素足で廊下を歩いて困るのは掃除をする私くらいだから気にしない。

部屋に戻ると軽くストレッチをした後クローゼットからカッターシャツとスカートだけ取り出して身に付ける。

ネクタイは出る前に付けることにしている。ご飯を作るときに邪魔だから。


リビングに戻るとキッチンに向かう。二人分の朝食と弁当を用意しなくちゃいけない。

といっても既に米は洗って炊飯器に用意してある。あとは炊飯ボタンを押せば終わり。

それと三つあるコンロの右に置かれた鍋には昨日の夕食のあと前の私が作った煮物がいっぱいに拵えている。

日持ちがするから一日と食べられて助かる。

私が用意するのは味噌汁、魚に目玉焼き、あとお弁当に入れるおかず少々と白米に振りかけるそぼろくらい。

まず炊飯器を動かす。炊き終わるのは三十分前後だからその間に先ずは朝食。

冷蔵庫から卵と鰯、味噌を取り出す。

今まで幾度と繰り返してきた手順を私はただなぞるだけ。

フライパンの上で油の弾ける音が大きくなっても、雨の音ははっきりと聴こえる。


 ◇


今週は風紀週間とやらで校門の前で風紀委員と生徒会員が早くに集まって皆の服装検査を行う。

着崩してないか、ネクタイはちゃんと結べているか、スカートの長さは規定以上か。

それほど厳しいものじゃないし、ここに通う生徒は大抵がいわゆるお嬢様のような品性を取り繕いたがる人ばかりだから、

風紀委員が先導して行う朝の挨拶のようなもの。

そしてその光景を見て生徒の真面目さを再確認して品定めを定期的に行う、

共通認識を利用した規律維持でしかない。

しかもそれを望んでいるのはここに勤める教員や職員ではなく生徒一人一人なのだから笑えない。

真面目さとは思考停止の一種だという可能性すら思考停止してしまう彼女たち。

だからこうしてたとえ雨の日でも変わらず傘をさしながら私は生徒会長の隣で立っている。

相変わらずしきりに私の方をちらちらと横目に見てくる。

私といえばそれに気付かないふりをしながら雨の音を一つ一つ拾い続けては聞き流す。


(桜も今頃あの部屋の窓からこの雨を眺めているのかな...)


容易に想像できる姿。だけどその心の内は透き通りすぎて読めない。

儚くて暖かい、陽光のよう。生きる意味と同時に私という自己の中心を置いた存在。

私の心は桜の心を守る要塞。覚悟と陶酔感で固められた頑強な盾。

側に居たい、守りたいというのは裏を返せば逃がさないという執着とも取れる狂気に似た感情だ。


「あの...神代さん?」


ふと隣から声が掛けられる。振り向くと上目遣いで生徒会長がこちらを見ていた。


「なに?」


「えと、今日の放課後...少し仕事手伝ってくれる?」


相変わらず変に遠慮がちな態度で依頼をする。

その程度のことなら昼にでも言えばいいのに、生徒会長が体裁を気にしなくてもいいのだろうか。


「その話は昼休みに」


だから私は生徒会長にしか聞こえない程度の声で言う。

私の意図を察したのか、落胆、自責の感情が音で伝わって来る。


「...ごめんなさい」


生徒会長もまた私にしか聞こえないようにそう呟いた。

こんな雨の中でも私達を確認した生徒達は会釈を忘れずに挨拶をする。

簡単な点検をし終わると再度会釈をして傘をしまって校舎へと歩く。

皆が皆同じような動作を行うそれは、

大量生産を行う工場で見たベルトコンベアに運ばれていく商品とそれを欠陥がないかをチェックする社員の図に似ている。

それぞれに役割を与え、各々がその会社の商品だと自覚する。

なるほど、校則の理念がしっかりと反映されてるわけだ。

基本的に生徒会員は立っているだけ、それと視線と挨拶を向けられるとそれに応える。

そんな不毛な時間が予鈴が鳴るまで続けられる。

秒針が0から1にシフトする間隔を意識から放り捨てて、ただ桜のことを想い続けた。




この学園で私に声をかける人は教職員も含めてほんのひと握りしかいない。

午前の授業が終わるまで、教室に居る間私は誰にも邪魔されずに自分の時間を過ごせた。

そしていつも通り昼休みにカバンを持って生徒会室へと足を運ぶ。

おそらく生徒会長はもう部屋にいるだろうけれど、常に例外の存在を忘れない。

だけど今日もまた生徒会室では、一人デスクに向かって何かしらの書類と睨めっこをしている生徒会長がいた。


「あ...あの、神代さん...」


案の定朝の件で申し訳なさそうにした表情で声を掛けてくる。その声には妙な緊張も混じっているようだけれど。


「今日の放課後、だっけ」


「え?...え、ええ、その、私一人じゃ、終わりそうもなくて...」


何故か動揺した様子で、まるで私の顔色を伺うような目で依頼を口にする。

それほど仕事の量に追い詰められているのだろうか。なら、副会長の役目は一つだ。


「いいよ、詳細は後で話してくれる?」


その不安を解消させて目の前のそれに集中できるようにアシストする。

誰にも頼ることが許されない生徒会長の唯一の例外が私だから。


「あ、ありがとう...」


私じゃなきゃ聞き取れないような声で感謝を口にすると再び目の前の書類の山に向かう。

それを見て私は自分の席についてカバンから弁当箱を取り出し、昼食を摂る。

窓の外は雨で、ここからの景色は霞んでよく見えない。

いつものペースで昼食を摂る私と時折独り言を呟きながら一枚一枚よく分からない書類を片付けていく生徒会長。

雨の音は午後になった今でも止むことはない。


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