8. 桜
桜は二人を天秤にかけられるほど軽い想いで愛していないということが伝わればいいなと思います。
私の知ってることが特別とか、希少だとか、そういうのはあまり関係がない。
幾度となく体験した夢の一部は私の記憶と経験がばらばらになることなく反映されていて、
そこから全貌を探し出すことが出来たなら、それは私にとって夢じゃなくてただの過去なんだよ。
何度も繰り返し経験して感じたものはほんの少しずつだけど形を変えて、
気付いた頃には全くの別物になっている。
私はそれが辛くて堪らない。
いつか二人の顔が別の誰かの顔になって私の前に現れたら、
そんな恐怖を日常的に抱えているのは異常なのだと思う。
だってそんなことあるはずないから。誰もそんなことをわざわざ意識しないから。
だけど私はしてしまう。
この狭い病室の中で、異常な時間を過ごし続けながら考えてしまう。
どうにか考えないように強がっては見ているけれど、それも結局は強がりでしかないから。
私は膝下のスケッチブックに手を置いて思う。
真っ先に浮かぶのは百合姉と椿姉の顔。
おしゃべりであまり笑わない百合姉と、静かにいつも微笑みかけてくれる椿姉。
―変わりたくない。無くしたくない。
そう思えば思うほど思い出は形を変えてしまいそうで嫌になる。
生きたいと叫びながら自らの首を絞めているような矛盾に対する嫌悪に似た思い。
それほどまでに大切なのに、守る方法が分からない。
百合姉なら手段を選ばない。椿姉なら迷わない。それぞれの護り方を覚えてる。
私にできるのはこうしてスケッチブックに夢の内容を書き留めて形が変わらないように願うことだけ。
ゆっくりと、けれど確実に終わりは近づいてくる。
それを今になって実感して色んな欲が湧き出てくる。百合姉と椿姉のこと。
(...また、三人で過ごしたいな...)
極限まで純化して残ったのはそんな願いだ。
私と椿姉と百合姉と。三人で笑って過ごす時間を。それが叶わないならせめて、二人が笑顔で過ごせる未来を。
強い目眩と眠気が襲い、私は目を閉じて意識を手放した。
◇
目が覚めるとちょうど最近付くようになった看護師さんが私の様子を見に来ていた。
「あ、起こしちゃったかな?」
少し申し訳なさそうな顔でそう言う彼女に私は小さく首を振る。
窓さから差し込む光から少し早めに目が覚めたんだと気付く。光の入る角度が少し低いから。
「後でまた朝ごはん持って来ますからねー」
この新しい看護師さんは前と違って随分と明るいというか、よく笑う人だ。
私のいるここがどういう場所かは私自身分かっているつもりだけれど、この人からは嫌な感情が一切漏れてこない。
不思議な人だ。出来ることならそのままでいて欲しい。
私は椿姉、百合姉が私に内緒でしていることを知ってるから。
二人を少しでも怒らせるとこの人もただじゃ済まされない、前の人と同じように。
そこまでする二人のことが私はどうしようもないくらい好きなのだけれど、出来ることなら穏やかにいて欲しい。
二人が怒れば私は辛いし、二人が悲しめば私はもっと悲しい。
部屋から出ていく看護師さんの背中を見て、何も起こさないでと小さく願う。
その笑顔は何も知らないってことでいいんだよね?
何もしない時間に思うことは二人のことだけ。
失いたくない。たとえ離れていても、忘れないでいて欲しい。
その細い背中に、その大きくて広い背中に、私はしがみついて離さないよ。
そんな我が儘を許してくれるから好き。私の全部を貪りつこうとする椿姉が好き。
私のことを盲目なまでに愛してくれる百合姉が好き。大好き。大好きなの。
二人が私のことを見てくれなくなったら私、本当に死んじゃうよ。
小さく萎んでいく風船を見てる時の、常温で溶けていく氷を見てる時の感情がそのまま私に向けられて欲しくてたまらない。
焦れったくて、けど早くすることも遅くすることもできない崩壊を目の前にして何も見えなくなる。
ただそれのことだけを考えて、それだけを見てくれる。
私って本当に我が儘で卑怯だなぁって、心からそう思った。
今日も朝食は半分程度しか食べられなかった。
栄養補給なんて点滴だけで済めばいいのに、
苦しい思いをしながら下げに来る看護師さんに罪悪感を募らせなくちゃいけない。
担当のお医者さんから話は聞いているのか、特に私に対して何も言わないけれど、その目は訴える。
なのに私も何も言わないから困った顔で部屋から出ていく。
その瞬間に部屋に入る風が不快で。そのまま引き出しから私はスケッチブックとペンケースを取り出す。
膝の上に置いて両手を被せると目を閉じて今日の夢を思い出す。
正確じゃなくてもその断片から少しずつ手繰り寄せて、ゆっくり引き出していく。
ペンケースから鉛筆を一つ取り出して、日記の昨日書いた次のページを開くと、少しずつ書き始める。
『雨上がりの湿った空気が頬を撫でていく。
腕が振り落とされる。
重くて、暗くて、静かで、大きな何か。
私のすぐ横を目掛けて振り下ろされる。
逃げたいとは思わなかった。怖くもなかった。
それは私に当たることなく過ぎて、けれど私の身体は後ろに倒されていく。
青く澄んだ空の下で一人横になる。
両手は持ち上がらない。体も動かない。目だけは開いて青を見続けた。
ただ綺麗だったと思う。
時々小さな光が漂うのを見て、私は手を伸ばせなかった。
その手に何かがあったから。代わりに拳を突き出すようにその手を差し出す。
指は決して広げちゃいけないと思った。それほどに大切な何か。
離せば瞬く間に霧散してしまう。
いつもの孤独な世界。大切なものなんて私以外に何があるの。
気が付けば地面から蔦が伸びて私の身体を絡めて縛ろうとしていた。
いつか私を肥料に綺麗な花を咲かせて欲しい。
あるいは穏やかで逞しく生きる草花を。
次第に全身が蔦を覆う。首も、顔も、胸も、締め付ける力は強くなっていく。
空は幾度となく雲を引き連れて去っていった。』
ここまで書き進めてから一度見返してみる。
この日記に意味を与えようとは思わない、私が書きたくて書いているだけなんだから。
けれど時々思ってしまう。私が見た夢と、ここに書き留める日記、これは一体何だろう。
全く同じ光景をそのまま文章に出来ているはずがないのだから、この日記はいわば私の空想の景色と遜色ない。
ならばこれは私の願い、つまりそうあって欲しいという願望、
あるいは私自身に起こっている何かを示唆しているのかもしれない。
そう考えるとこのスケッチブックがまるで分身のように感じられて愛おしさがこみ上げる。
再び私は鉛筆を手に取り続きを綴る。
日が落ちるのを見送ることなくそれだけに没頭する。きっと書き終わる頃には椿姉が来てくれるから。
信じたい。そう願ってる。そうあって欲しい。変わらないで。
ここへ来て、私を愛して。
点滴の音も心電図の電子音も、窓を叩く風の音も、秒針の刻む音も全部忘れてしまえ。
私もまた見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞き、いらないものだけを無意識に捨ててしまえるのだから。