7. 百合
こんな遅い時間にいるという非常識を理解しながら私は明かりのついた部屋のドアを雑にノックする。
「どうぞ」
うんざりとした様子を取り繕うことなく声が聞こえてきてドアを開けて部屋に踏み入れる。
そこでは白衣を着た中年の女医がデスクに置かれたPCのスクリーンと睨めっこをしていた。
竹井青華。桜の担当医で、私の実家と少なからず縁がある人物。
当然この病院に桜が入院することになる前から私とこの人はお互いを知っていた。
そして私の過去、表沙汰にされていない事実の一部を知っている数少ない人間。
本当なら今すぐにでも消してしまいたいけれどそうはいかない。
私はポケットから鍵を取り出すとそれをデスクに置いて、ドアのすぐ側で立ったまま問いかける。
「あれから桜に変化は?」
「...食事の摂取量が先週の朝食から著しく減ってる。食べるペースがかなり落ちてる。
一時間近くで半分ほどしか食べていないそう。それ以外に特に変化はないね」
(...現段階でそこまで進んでるのね)
「あと三日前から新しい看護師の子がついてる。...これでいい?」
「...その看護師の名前は?」
「はぁ...更科椛。あの子に必要以上に接触はしないよう言ってある」
「分かったわ、それじゃあまた来るときには連絡するわ」
それだけ言って竹井に背を向けると竹井は私に聞こえるように舌打ちをする。
それを無視して私はスライドドアを抜けて正面玄関を避けて非常出口から病院を出ると、一度大きく息を吐く。
いつものことながら息の詰まるこの場所はまだ慣れない。
◇
夏が顔を出し始めたこの季節は、夜風がひんやりとして気持ちいい。
病院から家までの距離は徒歩で20分程度で、公園を迂回すると倍くらい掛かる。
私は自転車なんて持ってないし車だと色々と面倒だ。だからこうして雨の日でも歩く。
夜に強姦魔がでるという公園は舗装された道が背の高い樹々で覆われていて、
明るい時間帯だと外からでもよく見えるこの道が、夜は殆ど見えない。
それにここを抜ける中央の道の脇にはホームレスの人々がちらほら伺える。
今軽く目をやっても私を見ている人達が4人見える。
値踏みするようなその視線はもう慣れたが、不快に変わりない。
小さく溜息を吐いてからそれらを無視して上を見上げ、木々の隙間から空を探す。
そこにあるのは来る時と同じ、分厚い雲に覆われた空だった。
私は桜の病室に溢れていた月明かりを思い出す。なんとか月を探してみてもどこにも見当たらない。
偶然あの時に月が顔を出してあの場所を照らしていた、というのはなんだか不自然に思える。
(...あのまま桜まで消えてしまいそうなくらい綺麗だった)
会うたびにその純白は綺麗になっていく。誰にも汚させはしない。そんな存在は全て淘汰してみせる。
先程竹井が言っていた新しく桜についたという看護師のことも。
以前の看護師は桜に対して悪態をついて死期が遠くないことを桜に諭させてしまった。
それは当然許されるようなことじゃない。もしかしたらその時に桜が自殺を試みかねないようなことを言った奴だ。
だから消した。
あの苦痛と恐怖に歪んだ表情、体のあらゆるところから流れ出る液体、言葉の代わりに漏れる嗚咽、
絶望に染まった瞳から流れ出る何か。私の左手に握られたそれから視線を外せない双眸。
全て鮮明に思い出せる。忘れない。それら全部が私なのだから。
(更科椛...貴女もまた例外じゃないわ)
だけど私だって出来ることならばそんなことはしたくない。
少なからずも桜が悲しむかも知れないなら、その存在はなるべくそのままで。
偏っていて、歪で凸凹な私の愛の為に。
ふと土の上に落ちた葉を踏みつける音が聞こえる。
続いて四方八方から同じ音が鳴り出す。
周囲にいた人達が私に歩み寄ってきている。一人が動いて周りもつられて...という感じだろうか。
値踏みが終わって私はその価値があると判断したのだろう。
一人がついに舗装されたアスファルトの道まで近寄って来ている。
「...くふっ...ふ...」
よく分からない声を漏らしながらいやらしい笑みを浮かべて滲み夜その姿はひどく弱々しく見える。
口元が手入れのされていない髭で覆われていて大抵の人が汚い、という印象を抱く容姿。
その中で私を見据える双眸はぎらぎらとしていて、理性を遠くへと追いやっている感じ。
きっとほかの人達も同じような姿なのだろう。
私をどうするつもりかは知らないけれどそれが人間の欲だということは分かった。
醜くて歪な至極当然な欲望。男の抱える、女に向けられる欲望。
素敵すぎて思わず吐息を漏らしそうになる。
この人はどのようにして私を陵辱するのだろう?暴力で怯えさせて征服欲を満たしたい?
それとも、抵抗する私を押さえつけて興奮を剥き出しにして襲いかかりたい?
そんな劣情に穢されるのを想像して私は気付かれないように身震いする。
ああ、普段の私ならそれに応えたかもしれないけれど、でも残念。
(今はそんな気分じゃないの)
私は左ポケットからそれを取り出して一番近くの人に突き付ける。
一瞬それがなんなのか理解できなかったのか、少し間を置いてからその男が目を開いて後ずさる。
真っ直ぐに見据えてその人の急所を狙う。
周りもそれに気付いたのかそれ以上近づくことを止める。
理解出来たのだと思う、そのことに安堵を感じながらもこんな牽制しか出来ないことに申し訳無さが浮かぶ。
「...ごめんなさいね」
目の前の男は私からさらに離れる。それを確認してから私はそれを左ポケットにしまう。
再び歩き始めるとその周りの人達も私から距離を取る。
彼らは何も言わずに私の歩く道を開けてくれる。
そのひとりひとりの目には怯えが見えるけれど、不快感を覚えている人はいない。
むしろ大抵の女が嫌悪の眼差しを向けるであろう自分達を全く異質に扱う私に戸惑いを覚えている。
こういう場所にいる人達が理性的になった時は案外聡明だ。
権力に自分の中心を置き、自らの醜くて汚れて腐った部分を取り繕う男達よりも。
必要以上に何かをしなくて済むのはそのおかげなのだと解ってるから。
多分、彼らが今考えていることも。
おそらくここにいる全員が一斉に本気で襲いかかってくればいくらこれがあっても私はただでは済まない。
なのに彼らがそれをしないのは彼ら一人一人が自分以外のための犠牲になんてなりたくないと思うから。
私の歩みを妨げないように一人が闇の中に歩いていくと、それに続いて次第に周囲もそれぞれ闇に帰っていく。
全員が帰るとまるでそこで何もなかったかのように元通り。
公園を抜けて再び空を見上げるとやはり一面雲に覆われていて月は見当たらなかった。
カバンに入れてあるスマートフォンが振動しているのに気付いて取り出すと着信が来ていた。
昨日私を抱いた男から。
その着信を無視して電源を切るとそれをカバンの中に戻す。
今は桜のことを考えてるの。だから今はあの時間に感じたことに浸らせて。
感想、指摘等いただけると嬉しいです。