6. 百合、桜
きっと誰にも理解されないだろうな、桜以外には。
物事の多くに例外があると椿に行ったのは私。
けれどそれは自分自身に言い聞かせるように言っていた事でもある。
廊下を歩くだけでも私の後ろが汚れていくこの感覚。
私のいるこの隔離病棟は夜の時間は非常灯以外に明かりらしい明かりがなくて昏い。
それにあまりの静けさに外から虫の鳴き声が聞こえて不気味な雰囲気が覆う。
夜勤でここを巡回するナースは気が滅入るだろうなと思いながら私は進む。
暗闇が好きな私には随分と落ち着く場所だけれど。
隔離病棟3階の西フロア303、見舞いの確認がされている意外で入るには鍵が必要で、
それでも内側からは開けることが出来る。
今は21時、本来入院患者の身内であれ部外者が病棟にいていい時間ではない。
私は担当医から借りた鍵をポケットから取り出して二度ノックをしてから鍵を開けてドアを開ける。
真っ暗な廊下とは打って変わって部屋の中は不思議と明るかった。
窓を見るとそこから月明かりが溢れてベッド一面を淡く照らし出している。
今日の天気は曇りだったはずだ。
「百合姉?」
囁くような声がベッドから聞こえた。掛けられた布団がひとりでに捲れていく。
軽く上半身を起こすようにしてベッドへ身を預けていたその姿を見て私は心が震えるのを実感した。
月明かりに照らされた横顔に憂いを持って、それでいて純粋無垢なその表情は綺麗だった。
以前訪れた時よりもさらに、その輝きは大きく、優しく見える。
「ええ、お邪魔だった?」
「ううん、ぼうっとしてただけだから」
「そう...」
桜を照らす月明かりにだけは、触れてはいけないと決めた。
その全てが桜のような気がしたから。
「ねぇ桜」
「なぁに?」
「私...」
(愛してる。どうしようもないくらい、愛してるの)
悲しいけれどそれが多分私の全てだ。
色々な事を見て聞いて触れて感じた今までの全てを幾度廻り、探し出しても。
これ以上はないくらい歪で偏って醜い心で紡ぐ言葉なんて。
この気持ちをどうすれば伝えられるのか分からないから、せめてその瞳を見つめたままで。
安っぽく聞こえるかもしれないけれど、真剣なんだってことを伝えたい。
何度だって、同じ言葉だって、それら全部が違う私の気持ちだから。
お決まりの台詞だとか、挨拶のようなものだとか、そんなふうに思われていたとしても。
私はただそれだけの為に生きているのだから。
きっと誰にも理解されないだろうな、桜以外には。
これが私の愛だって。
応えてくれなくてもいい。無視してくれたっていい。
聞かなかったことにしてくれても構わない。これが、私の愛。誰にも邪魔はさせない。
孤独で歪んだ想い。
受け入れてくれなくてもいいの。ただ知ってほしい。その上で私を見て欲しいから。
◇
それから一体どれだけの時間が経っただろうか。
お互い何も言わないままお互いの双眸を揺らし続けてる。
音も聞こえないくらい桜のことで一杯で少しでも触れてしまえば何かが崩れ落ちてしまいそうで。
私のそれはそのくらい不安定で脆いものなんだと改めて思う。
沈黙を破ったのは桜の方だった。
「...聞きたいことがあるの」
「なに?」
私から目を逸らして窓の向こう側を眺めて言う。
その横顔は何度見ても綺麗だ。
「私はいつまで生きられるかな?」
思わず唾を飲み込む。全身に緊張が走っていくのが分かった。
違和感はその言葉で全部理解できるくらい、桜の声が澄んで聞こえて輝いてる。
「...分からないわ」
「ふふっ...百合姉でも分からない事ってあるんだね」
「当たり前よ。むしろ分からない事のほうが遥かに多いわ」
「...私のことも?」
「...ええ」
「そっかぁ...」
桜が何を思って何を考えているのか分からない。それは本音。
分かることがあるとすれば桜は私と椿のことを誰よりも想ってくれているということ。
それだけは確信を持ってる。この世界で誰よりも私のことを必要としてくれてる。
言葉が足りないくらい。
「じゃあさ、百合姉が知ってること全部教えて?」
「全部って...そんな子供みたいなこと」
「子供だよ、私」
軽く微笑んでからかうようにそんなことを言う。
私はそれに呆れ顔で返す。けど内心凄く悦んでて、この上ないくらい幸せな気持ちでいっぱいになってる。
こんなやりとりが私の人生でどれだけ希少で大切な時間なのか。
本当に私のことを見てくれる人がいないこの世界で、唯一私を探し出してくれる桜だけ。
この時間が思い出になって、私の中で風化していくのを考えると胸が苦しくなる。
だからせめて桜が生きてくれる今だけは確かな気持ちとして感じていたい。
(やっぱり歪だなぁ...私)
「それじゃあ私、そろそろ帰るわ」
「うん、来てくれてありがと」
「こちらこそ。あんまり遅くまで起きてちゃダメよ?」
少し躍けて言うと私は踵を返してドアへと向かう―その時。
「...百合姉」
「ん、なあに?」
「おやすみ」
「...うん、おやすみなさい」
何か言いたげで、けれどそれを押し殺したようなその表情は、
いつもの柔らかい微笑みで上書きされた。だから私も不器用ながらに微笑み返す。
本当は桜の望んでることがなんなのか察しは付いているけれど、私はそれをしたくない。
それは私の為で、ただの自己満足に近い私だけの愛の為でもある。
病室を出て鍵を掛けると担当医のところへと向かう。
目的は鍵の返却と病院側が把握している桜の容態を聞き出すため。
私はジャケットの右ポケットに鍵をしまい、本棟へ歩く。
静かすぎる隔離病棟の廊下で、私の足音はよく響いて耳障りだ。