3. 桜、椿
間接照明で薄暗い病室のベッドで私は1時間くらい前に看護師さんが運んできてくれた病院食をつついていた。
聞き手の左腕は使えないから看護師さんにお箸じゃなくフォークとスプーンを用意してもらった。
プラスチックの、先の丸まった安全なフォーク。それを右手で不器用に持ってご飯を取る。
極力小さくしてからそれを口に運んでゆっくりと咀嚼する。
...なんの味もしない。
唯一分かるのは咀嚼する際の食感くらい。お肉もサラダもかなり柔らかめにして出されているのが分かる。
私が食べやすいようにという配慮なのだろうか、それとも病院食の決まりなのだろうか。
きっと後者だと思うけれど。
運ばれてきた時から冷めていたこれらはなんだか出来の悪い粘土に思える。
弾力があって、多少なりとも結合して、形を変えて。
もちろん食べ物で遊ぶつもりなんてないけれど、そんなことを考えていないとこの苦痛に耐えられそうもない。
だってまだ半分近く残ってる。
これでも少ないほうだと言われたらこれ以上食べないと迷惑がかかっちゃう。
椿姉にも、百合姉にも。それだけは絶対嫌だ。
私はスプーンに持ち替えてあと少しのポテトサラダを掬うとそれを口に運ぶ。
コンコンッ
ドアのノックで私の右手が止まる。もうそんな時間なんだ。
予想通りピンクの制服を着た看護師さんが部屋に入ってくると、ドアのすぐ傍のスイッチを押して部屋の明かりを少し強くする。
「ご飯...もうちょっと食べる?」
もう顔も覚えた彼女は砕けた口調で私の顔を覗き込む。
この人は私の中ではそこそこ「いい人」だと思っている。
私は小さく頷くと、彼女は「そっか」と言うと踵を翻してまた少ししたら見に来ると言って軽快に、
それでいて静かに部屋を去っていった。
必要最低限の会話と独特の雰囲気を纏って嫌な気がしないから気に入ってる。
この病院内での数少ないいい人。名前は知らないけれど。
(ああ、そういえば...)
私、百合姉と椿姉以外の人の名前って、覚えてないや。
それは単に私が他の人に興味も関心もないからだけど。
あの看護師さんが次に別の人に変わってもその役割が受け渡されたわけで、
その人の個性など私の中では酷く些細でどうでもいいことだ。
私は再び病院食を口に運ぶ。味のない、嘔吐を催す食感。
そのまま吐き出したくなる気持ちを抑えてなれく早く飲み込む。
椿姉によく噛んで食べるよう言われたからなるべく噛んで、少しずつ。少しずつ。
◇
シャワーから上がると、時計は既に8時を回っていた。
私もお腹が空いてるし、なるべくすぐに作れるもの、週末だから冷蔵庫の中はあまり充実していない。
一通り冷蔵庫の中を見てから、私は二人分で、なるべく直ぐに作れるものを考える。
(...簡単に野菜炒めにしようか、豚肉もあるし調味料があれば回鍋肉でもいいかな?
中華なら炒飯でもいいかも。ご飯、どのくらい残ってたかな...)
炊飯器を開いてみると二人分を作るには少しばかり少ない、茶碗で食べる分には十分な量が残っていた。
夕飯のあと3合くらい炊いておこうかな。
(...やっぱり野菜炒めでいいかな。使う野菜でそれなりにアレンジが効かせられるからあるもので十分出来る)
幸い今朝に作ったお弁当のおかずが残っているからレンジで温めてしまえばすぐに食べられる。
少々少ない気もするけれど案外ちょうどいいかも知れない。
献立が決まると私はまず手洗いの楽な薄いまな板を用意して包丁を取り出し、次に小鍋を引き出しから引っ張り出す。
そこにちょうど半分位水を入れてガスの元栓を開いてからキッチンで沸かす。
その間にフライパンも隣に置いて弱火で温めておく。次にもやしを取り出して小鍋に投入してキッチンタイマーを設定する。
その間にキャベツを適当な大きさに切り分けて籠に、人参は二本取り出して皮剥き器で薄く皮を剥いていく。
(...桜はもうご飯食べ終わってるかな?)
本当は百合なんかと一緒じゃなくて桜と一緒にご飯を食べたい。
あの病室で一人ゆっくりと病院食を食べる想像をして胸が苦しくなる。
あんなのよりもっと食べやすいものを私なら作ってあげられる。
桜の望むものを用意できる。私なら。...私なら。
手が震える。違う、逃げたんじゃない。
手が震える。嫌、逃げたんじゃないか。
手が震える。思い出す、数週間前の出来事を。
手が震える。手にしていた人参が流し台に落ちた。
シンクにぶつかる鈍い音で私は我に返る。
「...あ」
気が付くと流し台に人参が手から落ちていた。
それを掴むと少し水で洗ってから再び皮を剥いていく。
薄く長い皮を掴んで三角コーナーに捨てる。次にまな板と包丁を用意。同時にタイマーの電子音が鳴る。
私は小鍋の火を消して....
それから数十分程度かけて晩ご飯が出来た。きっかり二人分、余りはない。
リビングの電話で百合を呼び出す。ワンコールで切ると私はお皿をテーブルに並べていく。
お皿を持つ私の両手は震えていた気がした。