29. 百合
痺れる右腕を誤魔化しながら、助手席のドアノブを掴んだまま私は幾重にも思考を巡らせ、
次に取るべき行動を決めていた。
私は何に変えても椿と桜を守りたい。
それこそが私の行動原理であり、その為ならば自らの生死も厭わない。
「…椿」
努めて冷静に、後部座席で桜を抱えたままの椿に声をかけた。
そのまま返事を待たずに淡々と決めた内容を口にする。
「――――――」
それから、振り返らずに運転席にいるもう一人にも。
ジャケットの左側から取り出した”それ”を投げ渡して。
「―雨宮さんは、私たちが車を降りると同時に見つからないようにこっそり逃げて。…あとはおねがいね」
「ちょっ―」
言い終えると同時に勢いよくドアを開いて車を降りる。
そして視線を変えないまま左手に持ってきた銃を掴んだまま目の前の光景に歩み寄る。
出てきた私を見て改めて手にする銃を構え直し、銃口を合わせられる。
向けられたそれはその気になれば今すぐにでも私の命なんて吹き飛んでしまうだろう。
その恐怖を押さえ込むように掴んだ銃を強く握り、まっすぐに見据える。
(大丈夫、必ず守ってみせる…!)
一度呼吸を整えるように小さく息を吐いて、口にする。
私たちを追ってきていた三台の内の一番奥に止まっている車に未だ出てくることもなくそこに座っている男に対して。
「出てきなさい、腰巾着」
皮肉たっぷりに、嘲る表情を意識して見つめる。
きっと聞こえたのだろう、ぴくりと眉を動かしたあと力強く車のドアを開き、叩きつけるように閉め、こちらへ歩いてくる。
恐れの気持ちが湧き上がりそうになるのを、足のつま先をギュッと握ることで堪える。
(大丈夫、こいつらは命令がない限り引き金は引かない…)
あくまで視線は今こちらに歩いてくる男に、
意識はその男と向けられている銃口の全て、そして後ろの妹二人に。
「腰巾着か、言ってくれるなァ」
粘り気のある語尾に、眼鏡越しでも変わることのない鷹のように鋭い目つき、暗い瞳。
私たちの母親である神代美月の付き人だった人物。
三年前、桜と椿を逃がした私を捕らえ、地下室に閉じ込めて見殺しにしようとした男。矢嶋毅。
「懐かしいな。最後に会った時はガリガリに痩せこけて死にかけだったお前が、三年経って立派な女になってよぉ」
「開口して初めに言うのがそれなの?ずいぶん気持ち悪くなったわね」
「あぁあ?昔の俺は気持ちよかったってか、ん?」
「あの頃はクズだと思ってたけど、ただの下衆だわ」
「おーおーこの状況で強がるねぇ」
そういうと卑下た薄ら笑いを浮かべながら視線を私の胸元に走らせている。
本当に気持ち悪い、その嫌悪感が少しだけこの状況に対する恐怖を誤魔化してくれた。
改めて矢嶋の顔をキッと睨み付ける。
「それで、この状況で俺を呼び出して、お前は何がしたいんだ?無駄話したいだけか?」
「私たちをどうするつもり?」
「知ってどうする」
「その内容によっては、あなたたちに要求がある―」
「左足」
言い終える前に短く男が呟くと、何の躊躇いもなく向けられた銃口のうちの2つが私に向けて発砲され、二発の銃弾が左大腿を貫いた。
「っ……っう゛ぅっ!」
その衝撃からわずかに遅れて激しい痛みが伝わってくる。
下唇を思いっきり噛んで声を出さないように、視線を男から逸らさないように踏ん張る。
「百合っ!」
後ろから椿が名前を叫ぶのを聞いてほとんど反射的に右腕を上げて、来ないでと伝える。
車を降りるときに話したことだけを考えて。
私が撃たれることなんて想定していたことで、目の前の男が容赦なんてないことも理解っていたことだ。
「――要求?阿呆か、お前この状況分かってて言ってんのか。お前らなんかいつでも殺せる、
お前らは殺される以外の選択肢なんてねぇだろうが」
既に矢嶋の表情からは笑みは消えてただ冷たく私を見下ろしている。
「…っへぇ、殺せる、って?あんたらごとき、に」
「右足」
再び発砲音。今度は右大腿と下腿を二箇所貫いた。
左足を撃たれたことで右足に重心を傾けていた私は、当然バランスを崩して右に倒れこむ。
しかし倒れると同時に左手で握りしめていた銃の先を自身の下腹部に押し当て、トリガーに指を掛ける。
その私の動作を見て初めて目の前の男が表情を変える。
やっぱりそうだ。
こいつらは私を殺せる、だけど傷つけられない場所がある。
「…なんのつもりだ」
「分からない?…っ、私の目が普通じゃないことはあんたも知ってるわよね」
「あぁ、静体動体視力がずば抜けて高い、それがなんだ」
「あんたがそこに立ってるか”ら、立派な狙撃手のみなさんが困ってるわよ…っ?」
「なに――」
「動くなっ!……少しでも動く素振りを見せると、撃つわ…!」
本気だ。それが伝わったのだろう、男は私の持つ銃を見つめたまま動かなくなった。
…事此処に至って、改めて実感することがある。
力なき者にとって、知っていることと知らないことの間にある絶望的な差を。
想像力の有無を。
銃を持った複数人に対して、普通であれば"詰み"だろう。
狩猟者と獲物のそれに等しい、このあまりに一方的な力関係で獲物にできることは、
一縷の望みを懸けて逃亡を謀るか、命乞いをするか。
しかしことこの状況に限り、ある前提条件が変わることで理性ある獲物の取れる選択肢は増加する。
――生け捕り。
そこへさらに傷を付けてはならない、ある部分は無事なままで、
などの条件が重なればなお増える。
つまり、相手が守らなくてはならないものがある場合、それをこちらが脅かしてしまえれば力関係は拮抗する。
否、やはり私が圧倒的不利なのは変わらないだろう。
例えるなら屋外で警察に包囲された状態で、人質に銃口を向けて今にも発砲しそうな犯人。
犯人に選択肢や出来ることは少ない。
そこまで追い詰められて、たとえ犯人が何か要求したとしても、
警察には決して逃がさずに人質も傷つけない方法を探すだろう。
圧倒的有利な立場にいるから、背負うリスクを可能なまで下げる。
その心に、余裕が生まれる。
そしてそれは目の前の男も例外ではないはずだ。
「…それで、お前は何を考えてる?」
「苦しむのは当然ね…」
「はぁ?」
「なんでもないわ。…私が知りたいのは貴方達が何をしたいのか、それだけよ」
「既に死に体のお前に話す必要もないだろ」
「なら何故直ぐにでも殺して二人を捕まえないの?」
「…」
理由はすでに察してる。私がまだ銃を持っていて、かつ銃口を下腹部に当てているからだ。――ちょうど子宮のあたりに。
これではっきりした。こいつらが奪いたいものは私の子宮と桜だけだ。
(っ…、視界が、まだ駄目…)
両足から熱が外へ流れていく感覚。
流れ出た赤い液体がアスファルトに広がり、私の足を、下半身を濡らしていく。
すでに少なくない量の血が体から失われているのがわかる。
霞みかけた視界を振り切り、まだ終われないと自身を奮い立たせてまっすぐ前を見据える。
「限界だろ、いい加減くたばってろ」
「…ええ、そうね。もう十分――時間は稼げたはず」
矢嶋の後ろにいる男が被っているフルフェイスに、反射して私の背後が映っているのがずっと見えていた。そこに映る椿と桜の姿も。
例えそこに焦点を合わせていなくても意識を向けていれば私には見える。
そこに映る椿の頭がほんの少しだけ下を向いた。
それを見た私は左手を眼前に持ち上げる予備動作を開始する。
ドォン……ドォン………
少し離れたところから二回の銃声が響き渡った。
「なっ…どこからだ―」
――今だ。
すっかり重く感じる両腕を持ち上げ、ハンドガンの銃口を目の前に向け、引き金に指をかける。
血を流しすぎたせいだ、当然狙いは定まらない。
ならば頭は狙わない。この一発で致命傷を与えなければ桜と椿の脅威は消えない。
失血で力の入らない両の手にこめられるだけの力でもって引き金を引く。
(ああ…酷く時間がゆっくりと…圧縮されたみたいに…)
放たれた弾丸は呆れるほど正確に左胸へ飛んでいく。
矢嶋の胸を貫き、胸骨の間を擦り抜け、左心室を抉りそのまま左肺に穴を開けて致命傷を与える。
衝撃に状態を仰け反らせると倒れないように両足で踏ん張り、何が起きたのかと空いている左手で胸元に手を当てる。
「がっ?!…はっっごぷっ……」
矢嶋が苦しそうに咳き込むところまで見届けてから私は俯いた。
(…ふふっ…頭って、こんなに重かったんだ…なんて)
残る弾は一発。もう頭を持ち上げる力もない。
だけど、まだ、しなくちゃいけないことが残ってる。
殆ど力の入らない右手で銃身を持ち、左手でその銃口を自分のお腹に押し当て、
子宮を打ち抜くつもりで引き金に指をかける。
この私の子宮さえなければもう、この先本家神代の子は生まれない。
――もう、私達と同じ苦しみを誰にも。
襲い来る痛みに、流れ出る涙に、もはや躊躇いなどしない。
(…椿、桜、死んでも私は…貴女達を愛してる…いつまでも……)
最後の力を振り絞って私は引き金を引いた。
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