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月の御影  作者:
23/30

23. 椿

時系列としては、百合が一階に下りてくる10分前。

夕飯を二人分用意して食べたあと、ベランダに干したままだった洗濯物を取り込み、

リビングに戻ってテレビを見ながら畳んでいると、固定電話の呼び出し音が鳴った。

時間は20時50分くらい。

ライトが付いたディスプレイの表示を確認すると、登録されていない番号が載っていた。

携帯からだろうか。


「はい」


受話器を取って耳に当てると、小さく吐息が二つ、規則的な電子音、水滴の落ちる音が聴こえてきた。


「......」


相手からの声を待ったけれど、なかなか話してこない。

私の声が聞き取れなかったのだろうか。


「どちら様ですか」


先程よりも気持ちひとつ明確に伝わるよう語気を強める。

すると微かに聞こえる呼吸のリズムが変化したのを感じて、今度の声は相手に届いたのがわかった。


「神代さ...椿さん、ですね?」


ひと呼吸をおいてから声が聞こえた。女性の声だ。


「そうですが、あなたは?」


「...私っ?...ふふっ、そっかぁ...私かぁ、分からない、のね。ふふふっ...分からないんだ...?」


私の言葉に対し、心底可笑しいといった含み笑いに、逆に訊かれる。

知らない番号からかかってきた電話で、名乗りもしない相手のことなんて知るわけがない。

それに、分からないから私は貴女が誰だか訊いたんだということが伝わってないのだろうか。


「...それで、要件は?」


「ふふふっ、せっかちな人...私ね、神代さんに会いたいの...」


「戯言。切るよ」


そう言って電話を切ろうとした直後に。


「いいの...?今ね、あなたの妹さんと一緒にいるの...。会いに来てくれないと、どうにかしちゃいそう...ふふっ」


聞いた瞬間、頭の何処かで何かが切れる音がした。

頭に血が上っていく感覚といえばいいのだろうか、熱が下から上に昇り、その熱が全身に行き渡り目の奥が圧迫されたように血走り、視界が暗転する。点と点を結ぶ線が一度切れたように意識が途切れたかと思うと、瞬きの間もなく意識が鮮明になっていく。


気が付くと私は走り出していた。

家を出て、公園を抜け、歩道橋を渡って、桜が入院している病院の前まで全速力で駆けた。


病院について私は玄関前の柱の側でしゃがみ、内部を探ろうと試みる。


時間はもう21時前で、外来の受付は既に終了しているのでガラス越しに見える中はいくつか照明が消されていて暗い。エントランスはまだ開いている。

正面からでも病院内なら入れるだろう。だけど隔離病棟は決められた看護師の持つキー無しには侵入できない。暫し観察していれば今日の当番が誰だか分かるだろう。その後そいつからキーを盗んで侵入する。


(...いや、ダメだ)


観察するには病院内、ナースステーションに居る、あるいは近くに居る必要がある。その最中に見つからないようにするのはあまりに骨が折れる。小規模であろうと騒ぎは避けられそうもない。


隔離病棟へ続く渡り廊下を歩く看護師を確認してキーを奪う。

これも却下。確認方法として渡り廊下が見える場所にいること、かつ病棟内に入る前にキーを盗まなくてはならないこと。これを達成するためには私自身が渡り廊下に、つまり病院内に潜んでいる必要がある。

先に見つか確率の方がはるかに高いし、盗む際どうしても手荒になる。病棟のロックはキーで解除して中へ入った後自動でロックが掛かる。ここから盗まない選択肢はハイリスク過ぎて選べない。


他に方法を考えてみるも、気付かれないように、かつ騒ぎを起こさないように侵入するのは難しい。

どれも時間をかける方法ばかり。そんな悠長に待ってられない。


(どうせ気付かれるのなら、最短ルートで)


一度病院の敷地内から出て外から隔離病棟側に回る。

高い塀に囲まれてさらにその上に有刺鉄線まで。大抵の人間はここを越えて侵入、脱出はできないだろう。近くに目で確認できる監視カメラは二つ。その二つの死角に位置を変えてみても同じように別の監視カメラが設置されている。バレずに侵入は出来そうにない。それも覚悟の上だ。


堂々と塀の正面に立ち、左手の指に力を入れる。それを真っ直ぐ塀に突き立てて穴を開けた。その穴を引っかかりに体を持ち上げ跳躍する。有刺鉄線の高さまで来ると右手で正面の鉄線を掴み、下へ引き伸ばす。その際更に体を上へ持ち上げて左足を塀の上まで届かせるとそのまま飛び越えた。侵入成功。


すぐさま桜のいる病室の真下まで移動して見上げる。改めて見ると随分と物々しい外観をしている。

壁を手で触れてみると、随分と固くて先ほどの塀のように穴を開けることは難しそうだ。

別の手段を探すべく周辺を見回してみると、室外機、脆そうなパイプ、上に登るのに使えそうなものは見当たらない。再び上に視線を変えてみると、各界の病室に付けられた窓の上の庇が目に付いた。私の体重は50kg。あのひさしだけでは私の体重に耐えられないだろう。すぐ側に細いパイプ。

パイプを片手で掴んでみると少し拉げる程度、軽く引っ張ってみると思ったより微動だにしなかった。


それを確認したところで私は垂直に跳躍する。最高到達点で庇に手をかけてさらに上へ。

その際に側のパイプを掴んで掛かる重さを分断させる。同時に壁を足場にして上へ駆けるように蹴る。

壁から離れないようにパイプに負荷をかけながら。三度目で桜のいる病室の窓まで上がることができた。耳を澄ませて窓の側に桜がいないこと、呼吸は二つ、ベッド側から聴こえるのがわかった。窓の縁に右手をかけて左手で窓を割り、鍵を開けて片側を開き、病室に体を滑り込ませた。


「...桜っ!」


すぐさまベッドの方を向くと、上体を起こして目を閉じて微笑んでいる桜。

その隣りに馴れ馴れしそうに桜にくっついてニヤついている女がいた。

再び頭に血が上り、歪な嫉妬で体が動く。

瞬間割れた窓ガラスの破片を拾い、その女の頭の位置目掛けて投げつける。容赦なく殺意を込めて投げたそれはまっすぐ額に刺さり、女は少し退けっぞったが、表情は私を見てニヤついたままだ。


「...ふふふっ、素敵な、あいさつ...ね。...私、神代さんにキズモノ、にされちゃった...ぁはっ」


女は額に刺さったそれを引き抜き、付着した自分の血液を舐めとると、破片を放り投げた。


「安心して...?私は妹さんに手を出さないわ...。私、神代さん、と、...お話がしたかったの。きいて、くれるよね?」


さらに半歩ほど桜に近寄り、しかし視線は私に向けたまま脅しにしか聞こえない言葉を口にする。

ニヤついた表情は変わらない。目の前の女の感情は私には一切分からないが、

その顔を見て私がある種の不快感を覚えているのは分かった。私はこの女は嫌いだ、と。


「あんたが桜から離れてくれるなら」


「ふふっ、優しいのね...ありがとう」


半ば聞き入れないだろうと思った言葉を、目の前の女は躊躇いもなく聞き入れ、確かにベッドから離れてドアの近くまで歩いた。その間でさえも首をひねり顔だけは私の方に向けられている。

その女が十分な距離を桜からとったことを確認すると、私はベッドに近づき、上体を起こしてはいるが目も口も閉じたままの桜の右手を取った。感じられる体温は私よりも冷たい。心音を聴けばひどく衰弱しているのが分かる。そのことに私は胸を締め付けられるような気持ちになった。


「...やっぱり、神代さんにとって妹さんはとても大切な人なのね」


「...だったらなに」


「いいなぁ...って、ずっと思ってたの。愛し愛されることは人にとって至上の幸福だから...。

 それがどんなに澱んでいても、愛とは素敵なもの...」


狂ってる。声も、瞳も、挙動も、何もかもがアンバランスで捉え難い。

私の目では薄暗いこの部屋でそいつの瞳が何を映しているか見えないが、私を視ていないことは分かる。

そいつの目的が何か分からないが、今は桜をここから連れ出し、何処か遠くへ離れなくては。


(...どうして?)


咄嗟に考えついた事柄に疑問を抱く。なぜ遠くに行かなくてはと思ったのか。

そういえばこの情景どこかで――


ふと左手を握り返す感触を覚えた。桜の右手だった。

ひんやりとした体温、だけどこの世の何よりも優しく温かな手。

桜の顔が私を向いているのに気付いた。眼は閉じられたまま、柔らかく微笑んでいた。

そのことを実感した瞬間に私の中で迷いがなくなった。


何処か遠くへ。


「...本当なら今ここでお話がしたかったのだけど...神代さんは私のことを見てくれそうもなさそうね」


「興味はないな、確実に」


「......ふふっ......ふふふふっ...くふふふふっ...」


傍にある棚の引き出しから救急セットを取り出し、消毒液とガーゼ、テープ包帯、アーミーナイフを取り出した。手早く桜の右腕に繋がれている点滴チューブらしきものや機械に繋がっているパッドを全部外していく。針を抜いた箇所に消毒液を染みこませたガーゼを被せ、テープで固定する。


これで逃亡の第一段階。


両手で桜を抱き抱えると、一連の作業を静観していたそいつが体を揺らし、半歩後ろに下がった。


「ここから逃げるつもりなのね...ふふふっ...妹さんを抱えて?...ふふっ...あははははっ!

 やっぱり貴女は素敵だわ!迷いのないその瞳!誰からとか何処までなんて考えない!

 ただただ一途で真っ直ぐで...だけど何処か壊れてて...私は貴女が欲しくて欲しくて堪らないの」


「なぜ私を知っているのか、何に固執しているか、面倒だからこの際聞かない。

ただ一つだけ。私は桜を連れてここから離れたい、だから二度と私の前に現れるな。

私を壊れていると言ったがあんたも大概壊れてそうだ」


不気味な笑い方に正気を感じさせない表情を見ればまともじゃないことは分かる。

まともじゃないと感じたということは害に成りうると判断したということ。

そして勿論言っただけで素直に言うことを聞いてもらえるとも思わない。これはただの意思表示だ。


「壊れてる...ふふふふふっ...さあ、壊されたのかしらね...誰かに...。

どうでもいいの、私はただ貴女を愛したいだけ...だけどこのままじゃあ貴女は私を見てくれない...

だからね、貴女が守る妹さんを殺すことにしたの!」


脱出経路を探るために聴覚に集中させていると、

病室の扉の向こう側、通路の方から明らかに足音を抑えた歩き方をした数人が近づいて来るのが分かった。当然看護師や医者ではないだろう。それならば足を忍ばせる必要もないからだ。

そして私が部屋に入るときに使った窓の外、上階から何かが壁を擦りながら降りてくるのも分かった。

人ではない、鋼鉄素材の何か。なんにせよ確かなのはこちらに対し害意があること。


桜の呼吸がどんどん小さくなっていく。


「――もうお話は聞いてくれないみたいね...残念だけど、これは一つのゲーム。

要は貴女が妹さんを守りきれるか、私が妹さんを殺すか、ただそれだけ...」


そいつの口角が釣り上がる。合わせて右手もゆっくりと持ち上げられ、

親指と中指の腹を合わせて停止する。



「手段も形も選ばない――私に貴女を愛させて?」



ぱちん、と綺麗な破裂音がなると同時、


外から爆発音が鳴り響いた。




「な...?!」


爆発音と同時に窓ガラスが割れ、爆風のようなものでその破片が部屋の内側に飛んできた。

咄嗟に桜をかばうように背を向けて頭を下げ、破片を受け止めながらその勢いが収まるのを待っていると、なにか栓を抜いたような音が複数聞こえ、鉄の塊のようなものが床を転がる音が響く。


嫌な予感がして胸と左手で桜の両耳を塞ぐと同時、大きな破裂音が響いた。


「...っっ!!」


左肩で片耳は抑えられたが、もう片方がその音を受けてしまい、強烈な痛みを覚える。

鋭い音が頭の中で響き、私の頭を揺らして正確な思考を働かせる余裕を奪う。

状況が分からない。あまりの非現実性に体が硬直して言うことを聞かず、ただ桜を抱える腕に力が入る。

振り向くと窓があった壁は粉々にされて大きな穴が空いていた。

もう一つ大きな音がした部屋の中央は特に何処か壊れた箇所は見当たらなかったが、

筒状の灰色をした何かが二つ転がっていた。


(あれは...スタングレネード?一体誰が...)


慌てて辺りを見回してみると破壊された壁のすぐ近くに一人、

病室のスライドドアの向こう側に人影が見えた。

はっきりとは見えないが先ほどの爆発とスタングレネードに引っ張られてか武装した兵士のような格好をしているように見える。ならば窓側で聞こえた爆発音は手榴弾だろうか。

そういえばさっきまでいたあの女の姿はない。が、この状況下でそれを気にしている余裕はないはずだと直ぐに自分に言い聞かせた。

どう考えてもまともじゃない。いや、そんなレベルの問題じゃない。

相手は私たちに対して明らかな殺意を持っている。正確には敵意だろうか。

本気で殺すつもりなら救急箱に入っているアーミーナイフ一つしか持っていない私と無防備な桜に対してスタングレネードなど使わない。

相手の意図はまだ測れない。なら今私がするべきことはこの場から逃げて桜を守ること。


「桜、左腕を私の首に回して、掴まってて。今から少し無茶をする」


耳元で囁くと桜は言う通りに腕を回し、私のシャツの首の下辺りをきゅっと掴んだ。

その感触を確認すると同時に左耳から床を蹴る音が複数聞こえた。見るまでもなく爆弾を投げ込んだ奴らだろう。


ここから逃亡の第二段階。脱出経路の確保。

この状態で逃げ道がないのなら不意打ちで作るしかない。そして私は普通の人間じゃない。

想像できても防げない方法で、私にしかできない方法なら既に思い付いている。


まずはさっきまで桜が横になっていた、爆風でシーツが捲り上げられた状態のベッド、その足を右手で掴んで振り回し、壁があった方へ修正して外に投げる。振り回した時に一人を殴り飛ばした感触がした。手を離したタイミングでベッドと一緒に私も外へ駆け出す。


「ぐっ?!」


どうやら外に居た奴にもベッドが命中したみたいだ。

次にポケットにしまったアーミーナイフを取り出し、一番大きい刃を出して右手で構える。

ベッドが落ちていくのを確認してから桜を抱える左腕により強く力を入れて、三階から垂直方向へ加速を付けて飛び降りた。

地面にたどり着くよりも前に先に落ちたベッドを空中足場として蹴ることで上方へわずかに跳躍。

二人合わせておよそ70kg、着地の衝撃の殆どを膝で受け止め、桜に響かないようにその力を受け流す。柔軟で強靭な筋肉繊維があるからこそ、私はこの脱出方法に微塵の不安を感じなかった。


着地してすぐに視線を病棟を囲う塀に移し、どこから逃げるかに思考を巡らせる。

右手にまっすぐ進めばここに入るときに越えた位置につくが、おそらく監視カメラが私の姿を捉えているので警戒されているはず。

普段ならそんな手早く警備が回ることや迅速な対応が行われることなどないだろうが、今日は確実に例外だ。ならここもまた相手の意外性を突く他ない。


この敷地内から出るためには塀を越える以外だと、正面玄関に続く塀と建物の間にある道を通るのが正規ルート。

それと塀を壊して進むルート。前者は道が狭くてリスクは高い。正面に出たところでさっきの奴らの仲間がいる可能性だって十分にある。

後者は最初とほとんど変わらないし、無駄な体力を消耗することになるから除外。


この状況ではまともな発想で浮かぶ脱出経路もないだろう。

ならばやはり塀を越える以外になく、リスクが高いならそのリスクを軽減することを考えたほうがいい。

相手が何人いるのか、誰なのか、それがはっきりしない現状で警戒はしておくことに越したことはない。


私は入るときに越えた塀とは反対方向へ駆け、勢いそのままに全力で両足で跳躍し、塀を飛台にして隣りの住宅の屋根に飛び移る。

止まらず屋根の上を駆けてその隣りの屋根へ、団地最上階のの階段の手摺に足をかけて跳躍、フラットな屋上の端を右手で掴んで腕力だけで二人分の体を持ち上げる。

いつもよりも飛距離が短いことを意識しながら可能な限り早く、遠くへと移動を続ける。

戸建ての住宅が多くなってきたところで衝撃に注意しながら下に降り、大通りを避けてひたすら走る。

進行方向は家の反対になってしまったけれど、今は桜の安全もそうだが状況を整理したい。


目指している位置は家からおよそ200キロ離れた山道の先にある今は誰にも使われていない平屋と、その敷地内にある保存食に弾薬、近接武器の保管蔵。

水も真空パックの中に5リットル保存している。


(...この情報は...?私が付けた記録、それだけは間違いない...?)


ふと浮かんだ記録を当然のように受け入れ、行動することに不自然さはなく、息を呑むように理解ができた。

しかしなぜそんなものがあるのか、何に備えた記録なのか、それは分からない。

それらも含めて一度記録も整理をする必要がありそうだ。



「ちょっと急ぐけど、揺れて気分が悪くなったらちゃんと教えてね」


(...こくん)


ちゃんと私の首に腕を回したまま、閉じた瞳をこちらに向けて微笑む。

確かな熱を孕んだ、大切な私の妹。

桜を傷付けようとする何者からも守る為に私は今日まで生きてきた。

けれど手綱を握る誰もいない今、守りたいと想うこの意思は紛れもなく私だけのもの。



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