21. 百合 -三年前-
※残酷描写注意です
母が死んだことを確認した私はこれから住む家に移動する準備をするために自室へ戻る。
きっとあの死体も外に一切漏らさないように処理されるだろう。
そして私の処遇もまた母がいないことで次期当主としての権力は私に移る為今までよりも自由になる。
今この家にとって一番避けたい自体は私たち姉妹が消えること。
長女である私が神代の子供を産み、桜が御影になる時まで椿がいなくてはならない。
確定事項は何一つないけれど、私はあの二人だけは必ず守ると決めたから、どんな不測の事態が起ころうともそれだけは揺るがない。
それに私は神代家の隠蔽体質を理解しているつもりだ。
問題は山済みだ。この家から逃れたとして、その先二人を養うだけの人脈もお金も必要になる。
お金は今十分にあっても、このままじゃあすぐに底をつくだろう。まだ未成年の私が短期間で多く稼ぐ方法。
私にしかできない方法がいくつかある。最も効率が良いものと、より安定した収入を得る方法、
この二つを何とかして獲得しなければならない。
(ハイリスクは安定しない、別のアプローチが必要になる...)
あともう一つ。そしてできれば自宅からあまり離れることのない仕事。
直接的な利益にならないコミュニケーションはただ煩わしいだけだし、今更普通でいられるなんて思ってない。
普通の人たちの中に常に身を置き続けるといつか必ず何かが破綻する。
(多少は長い目で見て考えるほうがよさそうね)
私は強引に思考に一区切りをつけると自室へと歩みを進めた。
部屋に入るとデスクの前で扉に背を向けるようにして立っている人影が見えた。右手には封筒らしきものを持っている。
「...電気も付けずに、娘の部屋で何してるの」
そこにいるのは私の父だった。
「待っていたんだ。渡したい物があるといっただろう?それに、お前にとって俺が生きているというのは都合が悪いはずだ」
「そう思うなら物を置いてさっさと死ねばいいじゃない。これから先、生きていくつもりもないのでしょう」
「ちゃんとこれをお前に渡したかったんだ」
そう言って差し出された封筒を恐る恐る受け取り、警戒しつつ中身を確認するために封を開けて手を入れて掴む。
取り出したものはA4の紙数枚に通帳、カードに印鑑、あと一枚の写真。
「これは?」
「この家を出ていくのだろう。金は必要だろうと思ってお前の口座へ数回に分けて俺個人の金を全部振り込んでおいた。
それは俺の印鑑と通帳だ。お前の通帳にある金額と確認はしたいと思ってな」
「恩着せがましい言い方ね」
「...そうだな」
父は私の顔から目線をそらし窓の外に浮かぶ雲を見やる。
月明かりは今は隠れてしまっているようで私でも父の表情は伺えない。
「俺は、お前たちを傷つけた」
それは私に向けてというよりは独り言のような呟きに聞こえて、私は次の言葉を待つ。
「...椿はあいつと別の男の間にできた子、桜は義兄との子だ。俺の子じゃない。それは事実だ。
だからといってあの二人に理不尽を向けるのは違う。それも分かってる。だけど何かに当たらないと気が済まないほどに恐ろしくて苦しかった。
そして俺はお前を...」
「今の私に貴方を責めるつもりは微塵もないわ、はっきり言ってどうでもいい」
「非効率だからか?」
「私と貴方だけの問題だからよ、あの二人に関係がないなら私はどうでもいい」
「...真っ直ぐに、なったな」
「守らなきゃいけないことが守りたいことになっただけよ。背景も来歴も関係なく」
それに私はもう人一人を殺している。
今の私が真っ直ぐに見えるとしたら、それは迷えないくらいにどうしようもない現状を理解しているからだ。
そして私の為にある私のありとあらゆるものを犠牲にしてでも椿と桜を守り抜く覚悟をした。
私はこれからその覚悟で行動を実現させていかなくてはならない。
「で、要件はこの封筒だけでいい?」
「...」
「もう二度と会うこともないんだから、言いたいことがあれば恥もプライドも気にせず言っておけばどう?」
「...頼む、俺を殺してくれ」
「――――――っ」
膝を折り、両手と額を床につけて。父は静かに懇願した。初めて見た土下座だった。
あの薄暗い地下倉庫から私を助けた時からそんな気はしていたけれど。
「お前へ過ちを犯したあの日から何度も死のうとした。首吊りは自分の首に縄をかけることができなかった。
海に飛び降りようとしても踏み出せなかった。オイルを被って燃やそうとしても火を付けることができなかった。
薬物を用意しても飲めなかった。猟銃で喉元を撃ち抜こうしても引き金を引けなかった。
情けなかった、恥ずかしかった、悲しかった、申し訳なかった、許せなかった、こんなにも臆病で無責任な自分が。
だけどどうしても死ななくちゃいけないと思った。
生きていればいずれお前たち三人に取り返しのつかない迷惑をかけてしまうから。
だけどたった一つ自分が考えて決めたことでさえ俺は実行できない。勇気がない。
もしもお前に殺してもらったら俺は楽になるかも知れない。そんな事を考える俺はもう人じゃない。だけどお前に――」
「いいわ」
「え...?」
「殺して欲しいんでしょう、私に」
顔を上げて私を見る父の顔が、先程まで見えなかったその表情が、見えた。
泣いていた。
額に脂汗を流し、両目から涙を流し、眉を目一杯引き上げ、鼻水を流し、頬を赤くし、
嗚咽を抑えるように歯を食いしばり、顎に皺をたくさんつくり、私を見ていた。
「...っう...うぅっ...ああ...」
嗚咽なのか吐息なのか、水気を含んだ声で、溢れ出す感情を必死に抑えたまま、
父は私の言葉に頷き、返事を溢した。
「ずっと、考えてたの?」
「...っくぅ...!...お、お前はもうあいつを殺したから、ついでに俺一人くらいっ...なんて最低なことを考えて...」
母は今しがた殺めたところだ。ならばここで私を待っていた時に考えていたこと?
いや、あの地下倉庫から私を連れ出した時に既に母を殺すことを言っていた気がする。
「それでもまだ、何も考えないようにすればいいのに...考えることを止められないから言えるはずないって...」
私を見る父の目からは涙が止まらない。
震える声はさらに震えがまし、泣き喚きたい感情が込み上げてくるのを抑えてる。
何も言わず父の前に立つ私はさながら懺悔を聞く神父だろうか。
もはや皮肉などと呼べそうにない。
懺悔の相手になれるのは、人か、神なのだから。
「ずっとずっと迷惑をかけてきた俺がっ、最期の...最期までお前の迷惑になって...」
「...そうね」
私はもう私を人だと思わない。
感情があって、血が流れて、肉をつけて、循環器を含んで、言葉を持って、狂ってしまった唯の獣。
苦痛や恐怖で調教され、母親に刃を向けられ、父親に犯され、男達に輪され、心を壊され、
学校で女子には淫売と罵られ、教師に嫌味を言われ、職員は身体を要求し、居場所などどこにもない。
裏切りと痛みだけのせかい。
だけど。
「すまない...すまない...」
初めから望みなどありもしなかった私を愛してくれた桜、同じ苦しみを味合わされた椿、
この二人と出会えたのは紛れもなくこの人のおかげでもある。
なら、
「―――っっ!!」
父の首を掴み、そのまま体ごと床に叩きつけ、胴に跨り見下ろす体制になると、
血を拭き取られたばかりのナイフを左手に、切っ先を胸元に押し付ける。
顔をぐちゃぐちゃにして謝罪の言葉を繰り返していた父は、一瞬苦しそうな顔をして突然起きたことに驚いた表情をしたが、
目の焦点を私の顔に合わせなおすと、口元を緩めて両手を左右に降ろした後、体の力を弛緩させた。
とても嬉しそうな、安堵しきった表情。全てを私に預けるかのように。
「貴方は...きっと最低な父親だったわ」
左手に力を込めて、
「だけど」
確実に体重を乗せるように体の位置を調整して、
「今私の眼に映る貴方は間違いなく―――」
鼓動がナイフの先端から手に伝わるのを感じたまま、
「―――人間よ」
私はまっすぐに心臓を貫いた。
◇
どうやら父は先月までに全ての口座を解約していたらしい。
それに振込がされている日時も一番最初は半年前と記されている。いつから考えていたのかは知らないが、それなりの額が入っている。
これだけあれば椿の学費も十分に払っていけるし、桜の入院費用も私のと合わせればなんとかなるかもしれない。
(だけど、まだまだ足りないわ)
この先に収入はどんなに工夫してもきっと必要になる。安心はできない。
(それにしても...)
部屋の中心に横たわる冷たくなった人間の体に目をやる。
瞼を閉じて、安らかな寝顔のような表情をしている。
決して痛みのない絶命ではなかったはずなのに、最期までこの人は嬉しそうだった。
どうしても自分を殺すことができなかったと言っていた人だが。
「...他人を殺すことはできたのね」
手渡された封筒の中の一枚の写真、そこに映っているのは無残な叔父の姿。
体のあちこちから血が流れ、腕はあらぬ方向に曲がり、片目は潰され、ぼんやりと胸元に幾つもの切り刻まれた後があり、
この写真が本物ならきっと叔父は生きていないだろう。
そして同封された紙の一枚にこの写真についてのメッセージが書かれている。
『桜は私の義兄にあたる水連と妻である美月との間に生まれたことはしっているだろう
これは私怨も含まれてはいるが、義兄が生きていれば必ずお前たちに害をなす
こいつがいなくなれば神代本家の血縁者は義母とお前たちだけになる
だから俺は義兄を殺した
もうこれ以上何も増やさなくても済むことを願って』
ちゃんと考えなくても叔父が死ねば私たちが逃げる際の障害が増えると思わなかったのだろうか。
本当によく最後の最後まで迷惑をかけてくれるものだ。
それに母と叔父は神代の血族だからおそらく全力隠蔽を行うだろうが、父はどうだろうか。
もしかしたら私は父を殺した犯罪者として世間に報道されることになるかもしれない。
二人を守るためにさらに代案が必要となる。
封筒内のもう一枚の紙には椿の父親とその家族について、住所、連絡先が書かれていた。
それ以外は何も書かれていない。
父はどういった意図でこれを私に教えたのか知らないが、ここにある内容は既に調査済みで私は知っている。
(...まあ、気持ちだけ受け取っておくわ)
この先に待ち受ける出来事、それらに私は何一つ失敗などは許されない。
ようやく母が殺されていることに気が付いたのか、あちらこちらに明かりが付き、忙しない足音と怒号が聞こえる。
今回は捕まるわけにはいかない。次にここに来るときは祖母を相手にする時。
私は部屋の中央に一瞥して、窓から部屋を抜け出した。
これで三年前の百合の追憶は終わりです




