20. 百合
設定していた内容の整理も兼ねて書いている部分もあり、話はほとんど進んでいないのでとばしていただいても構いません。
病院に着いた頃には雲はすっかりと一面を覆っていた。
帰りは本格的に雨に降られそうだ。
正面エントランスを避けて中庭方面に歩き、建物の側面にひっそりと設置された非常口に向かい、鍵を使って病院内に入る。
この時間は外来も終了しているので、正面から堂々と入ると職員や看護師の誰か一人には必ず何か言われてしまう。
竹井に確認を取ってもらえば問題はないのだけれどそれはお互いに面倒でしかないのでこうしている。
中には入り、そのまま廊下を進むとその途中に竹井が立っていた。
手には三つのファイルが収まっている。
「...なに、わざわざお出迎え?」
「あんたと長話なんてしたくないのさ、聞きたいのはこのことだろ?それもってさっさと消えてくれ」
「私も随分と嫌われたものね。構わないけれど」
渡されたファイルを受け取り、バッグにしまうともう竹井は戻ろうとしていた。
「今から桜のところに行くわ」
「...やめときな、今日はもう眠ってるそうだ」
「あら、そうなの。あの看護師さんが言ってたのかしら」
「そうだよ。日を改めな」
そう言って再び足早に去っていく後ろ姿を少しの間眺めてから、
予定より遥かに早く用事が済んでしまい、桜に会うことを諦めて帰ることに少し落胆して病院を出ることにした。
家に戻って渡されたファイルを確認すると、それぞれ『神代桜』『本条茉莉花』『更科椛』と書いた付箋が貼られていた。
中には三枚、六枚、二枚のプリントが収められている。
竹井には要件も話していないのに、本当に聞きたかった三件を用意してくれたようだ。
ここまで来ると監視や盗聴を疑ってしまうが、三年以上私の無茶に付き合わせた結果でもある気もする。
先ほどの態度から以前に増して嫌われているようだけれど。
おそらくこれらの紙に書かれた内容のほとんどが外に出してはいけないものだからだろう。
多少の脅しじみたこともあって竹井は私の言うことに逆らうことができないから。
私はまずは桜の『検査結果報告』から見ることにした。
事細かに検査方法等の詳細が書かれているが、そこは私は専門外なので説明なしに内容を理解できない。
なのである程度読み流しながら前回の検査と比較して桜の身体機能がどれほど低下しているのかを確認し、整理していく。
心肺機能の低下と生命維持が追いつかないこと、およそ二年前から今まで桜には治療として定期的に私の血を輸血し続けてきたが、従来のペースではもたないほどに衰弱が進んでいる旨、しかし輸血回数を増やすと副作用や別の病を患うリスクも上昇すること等。
他にも検査の結果は書かれているが、どの結果も前回と比べて今まで以上に下がり幅が大きい。
読み進めるほど私の表情は苦しいそれに変わっていくのが分かる。
(このペースならあと一週間も満たない内に桜は...)
一通り目を通して、次のファイルを手に取る。
『本条茉莉花 カルテ』
入院患者のカルテを親族ならまだしも無関係な私に見せるだけならず渡したなんてことが外部に知れれば、
間違いなく竹井の処分は重い、医師免許剥奪なんてこともあるかも知れない。
それほどのリスクを私は彼女に背負わせたんだ。そりゃ嫌われもするというものだ。
中の紙はクリップに丁寧に止められていた。
カルテは手書き。真っ白だったこの紙にわざわざ書き写してくれたのだろう。
それも私がちゃんと読めるように。
もちろんこれらが優しさからくるものじゃないことは分かってるつもり。
(...鬱病?問診は出来ない...睡眠薬の使用...なにこれ)
書かれた内容は妙に断片的で継ぎ接ぎにもならない。
まるで急いで書き写したような。
(...ああ、竹井が担当医じゃないのね)
よく見ると右端に小さく別の担当医の名前が書かれているのを見つけた。
あとで付け足したような書き方をしている。もしかしなくても無断で本条茉莉花のカルテを閲覧して書き写してくれたのだろう。
かなりの無茶をしたに違いない。これ以外の5枚は別に印刷されたもので、これは以前から頼んでいたものだった。
本上茉莉花の簡単なプロフィール、家族構成、経歴、周囲の環境、その家族ひとりひとりの詳細なプロフィール等。
その人の行動や思考を考える上で過去はかなり重要だ。勿論それだけじゃあまりに不十分ではあるが。
性格の形成、どういった背景にその人の特色を獲得しているのか、ウィークポイントや嗜好。
全てがその人をコントロールする材料になる。
これは私が接触する可能性が有り、かつ椿か桜と関わりがある人間なら大抵知っておくようにしておく。
単純に過保護なのだろうけど、きっと最後まで二人の見方でいられるのは私だけだから。
手を抜くつもりはない。
資料を読み進めていくと、なかなか彼女も特殊な環境下で生きているということが書かれている。
母親が白人とハーフで父親は日本人。6歳離れた兄がいてその兄は現在カナダで両親と生活中。
本条さんは父方の祖父母の家で生活している。12歳の頃に両親の海外転勤が決まり、家族でカナダに行く予定だったが、
その頃には本条さんは中学受験で女学院に進学することが決まっており、カナダに行くことに気が進まない様子だった。
それに対し兄のほうは大学受験に失敗し、浪人してもう一度大学受験をするつもりだったところに海外転勤が決まったので、
それならいっそのこと海外の大学を受験したいとカナダに行くことには乗り気だった。
家族間でどのような話し合いがあったかは分からないが、結果両親と兄はカナダへ、本条さんは日本に残ることになった。
いくらか想像で書かれた部分があるだろうが、不確かかどうかは別としてこれはひとつの情報としておく。
また、家族の写真もあったので見てみると、お兄さんの方は母親のハーフの血を色濃く継いでいるような日本人離れした外見をしているのに対し、
本条さんは父親の方を色濃く継いだのか、どこから見ても日本人といった顔をしている。
全体的にブラウンな髪の色が多少クォーターを思わせる要素ではあるが、この程度のブラウンなら特に珍しくもない。
はっきり言ってこの兄妹は似ていない。
どうやらかなり繊細な性格のようだし、この辺りで苦悩を感じたこともあるのかもしれない。
疎外感というほどの強いものを感じてはいなかったとしても、家族三人がカナダに行って自分だけ日本に残り続けているというのは、
少なからず思うところがあっただろう。
祖父母との関係は良好と書かれているが、彼女自身何か大きな悩みを抱え続けていたのかもしれない。
椿に対して友情とは違った好意を向けていたようだし。
最後に、現在桜の身の回りの世話を任されている看護師である更科椛に関する資料。
彼女に関しては対した情報はなく、今この病院に異動してきた理由も本人の志望としか書かれておらず、
特に変わった来歴があるというわけでもなかった。
(気がかりなのは桜ね...)
そう遠くない未来に最期が来てもおかしくない。
病院の施設で得られているものも今となってはそれほど意味もないのかもしれない。
ならもういっそ残り少ない時間をこの家で、私たちと一緒に過ごす方が桜にはいいかもしれない。
いや、本来ならそうすることだって随分と前から出来た。
このまま検査を受けさせたり、味気ない病院食を与えられたままあの病院で最期を迎えてしまうなんてと私は思う。
勿論桜の意思を尊重したい気持ちはある。だけど、それを決められずにいる私がいる。
このことを椿に持ちかけて話し合ったこともない。
きっと私は恐いんだ。二人が悲しんでる姿や苦しんでる姿を見てしまうことが。
それを私のせいだと思い込んでしまうことが。
時間は有限じゃない。桜に残された時間もそうだし、私だってそう。
だからやっぱりこのことを椿に話そう。
桜の事を想っているのは椿だって同じだ。ならちゃんと向き合って一緒に考えなくちゃいけない。
(...椿だけじゃない、桜ともちゃんと話を...)
三人であの家を出たあの日から、私は二人に向かい合って、触れて、話すことが少なくなった。
母親と父親を殺した、この汚れた手が、目が、口が、心が、交わされることを私は許せなくなったから。
そして決して触れないように、だけど限りなく近い場所で二人を守る為の手段に私は更に身を汚した。
なのに今こうして人として過ごしている。
初めはきっと純粋で真っ直ぐな想いを持っていたはずなのに、気付いたら未成熟なままの心が歪に育ち、
一本だった紐に何本もの糸が絡みつき、自分では解けなくなるほどに複雑になっていた。
私の感情は複雑だ。
誰にも診てもらうことのできない心を抱えたまま、たった二つの目的だけを見据えて歩いてきた。
辿ってきた道程は今でも鮮明に思い出せる。その時の感情も、脳を巡った言葉も。
私が私に謝罪と別れを告げたあの日のことも。
次に三年前の話の最後までを予定しています。




