12.百合 -三年前-
残酷描写有りです。※追記二話に分けていましたが、一話に纏める事にしました。
母が桜の首を絞めているところを見た。
いつものように桜が寝ているのを確認しようと桜の部屋に訪れた私は、あまりの光景に言葉を失ってしまった。
部屋のドアを開けた私を見た母は悍ましく醜い表情で私を一瞥してすぐに桜に視線を戻した。
その瞬間に全身の血圧が上がった気がした。気づいたら身体が先に動いていた。
部屋の電気を付けてから二人の側まで駆け寄り、桜の首にかけられた手を力一杯に引き剥がして、
突然の明かりに目を眩ませた母を体重をかけて蹴り飛ばす。
すると予想外の攻撃に醜い声を吐き出しよろめいた母はバランスを崩し、仰向けに音が出るくらい強く倒れた。
「がぁっ...!..げほっげほっ...」
どうやら無事に水月を狙えたようだ。かなり苦しそうに呻いている。
だけどこいつのことだ、少しすればまた立ち上がって何をするかわからない。
この場でいま桜を守るためにはどうすればいい。
桜の状態を調べないと、救急車を呼ぶ?今ここで母を再起不能になるまで潰す?
感情的になれば全部失う。殺すことよりも何よりも救うのが先決だ。
どうして母が桜を襲って殺そうとしていたのかは分からないが、迷う時間なんてない。
協力者がいる。それも信頼できる人間。そして無条件で桜を守ることを選べる...
私はむせない程度に息を吸い込んでから――
「椿ぃっ!!!」
今出せるだけの声で叫んだ。この異常な事態を知らせるように、切望の声で。
人並み外れた聴覚を持つ椿なら必ず聞き取って、声質から良くないことが起こっていることを察することは出来るはず。
おそらく今この屋敷の中で信頼できる人間は椿だけだ。
それは私の味方だとかじゃなくて、桜の味方という意味でだけれど。それでも構わない。
大声を出してからすぐに桜に視線を落とす。あれだけの声を至近距離で受けてもその意識はまだはっきりしない。
寝ているところを叩き起されてから首を絞められたのだろうか、そっと両手で桜の上半身を抱えてその顔をよく見る。
意識は混濁しているみたいで、声を掛けても反応が鈍い。両目から涙が流れていて私の胸が酷く熱を持つ。
嫌な想像ばかりがふつふつと頭に浮かび上がる。
今この瞬間にも私のいる世界が音も無く崩れ落ちていくような予感がする。
目の前で衰弱した私の大切な人に、私は何が出来る?
そんな思考の最中に母は立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきていた。
いつの間にか右手には漆色に輝く凶器を手にしている。形からしてコンバットナイフ。
軽量で使い勝手のいい、女でも扱えるそれはま直に見るのは初めてだった。刀身にはなにか液体が滴っている。
「...ホントはこんなの使いたくなかったんだけどなぁ...」
粘着くような口調で誰に向けるでもなく口を開く。
私はもうそれが畜生か何かにしか見えなかった。
「返り血がついてさ、服汚れちゃうんだぁ...これお気に入りだし、汚したくなかったけどぉ...」
構える。変わらず瞳は桜に向けられたままだ。
フラフラとして足取りで近づいて来る。狂気を演出しているつもりなのか、ただ狂気に酔っているのか、無意識なのか。
私はそいつから桜をかばうように移動する。そいつに背を向けるような格好だ。
無事じゃ済まない。そう理解しても私の中には恐怖はなかった。
「お前だけはぁ...絶対に私の手で殺してやるっっ!!」
一度持ち上げられたそれが桜に向けて振り落とされる。当たらなくてもその付着した液体が届けばいい、
そんなでたらめな軌道。私ごと斬りつけて、それを何度も繰り返すつもりなのだろう。
私は左手で桜の全身、頭の先までを布団を被せて万一にも液体が桜に届いてしまう場合に備える。
そして右手で――
「な...!?」
私はそのナイフを掴み止める。掌の皮膚が裂け、肉に亀裂が入り、血が溢れる。
おそらく傷口から液体が流れ込んできてる。毒だろうけれど私にはそんなもの関係ない。
小さい頃から散々に毒を盛られてきた身体だ、ある程度の耐性はあるだろうし、
もし桜に危害が及ぶようならば今この瞬間でも自刃する覚悟は出来ている。
どんな手を使ってでも桜は守ってみせる。それが私の生きる意志。
私の行動に驚いた表情のままのそいつは硬直して動かない。
どうやら本気で私のことが見えていなかったようで、その壊れっぷりに反吐が出る。
理性をかなぐり捨てた振りなんて気持ちの悪いことをしていることに。
それでもまだその瞳はどこまでも深く黒い色をしていて私じゃなく桜のみを映していた。
何がそんなにも駆り立てるのか分からないが、まともじゃないのは初めから分かっている。
その気にドアの方から突然声がした。
「...なに、してるの...百合...」
歓喜を押し殺して私は声のした方を振り返る。
そこには、シャワー上がりなのか、しっとりと濡れた髪にスパッツと青のショーパン、
上は下着だけの姿をした椿がいた。
とことん薄着が好きな椿だが今回は何も言わない。すぐに来てくれたことが何よりありがたかったから。
私は椿の視線を誘導するように母の方を見て指を差しながら、
「桜がそいつに殺されかけたの!急いで救急車を呼んで!」
なるべく桜から顔を離して簡潔に状況と要件を椿に伝えて、ポケットから携帯を取り出して放り投げる。
椿がいないと桜を守りきれない。おそらく使用人の何人かもこの部屋にもうじき来るだろう。
彼らも椿ほどではないがそれなりに耳がいい。きっと何か起きたんだと気付いてる。
私は母のほうを見ようとはしなかった。だから私に近づいて来ていたのにも気付かなかった。
その時の私は桜のことしか見ていなかったから。
だけどそれで大丈夫だと思っていたから迷わず私に出来ることを桜に施した。
「ぃあ゛ぁっ!」
突如ひどい声が聞こえて、隣を見ると椿が母の顔に蹴りを入れていた。ちょうど鼻の位置を本気で。
桜に危害を加えようとするのを止めてくれたのだろう、同時に片手では私が投げた携帯でコールを行っている。
私は一度桜を寝かせて気道を確保し、外傷と内部の骨折がないかを確かめる。
幸い喉の骨は折れていない。それでもまだ呼吸が辛そうだ。
力が入っていない弱々しい手を握り、私は何度も桜に呼びかけて、大丈夫、大丈夫と言い聞かせる。
少し経ってようやく桜の瞼が開かれた。
「無理して声出さないで、大丈夫だから」
努めて優しく、なるべく安心させるように言うと僅かにだけれど桜は微笑んだ。
思わず涙が零れそうになって必死に堪える。胸がさらに熱を帯びる。
そのタイミングで私にしか聞こえないくらい小さな声で椿が呟く。
「...百合、電気消すよ。あと、桜の耳塞いでて」
「分かってる」
桜に血も椿が母に蹴りを入れる姿も見せられるわけがないし、
悲鳴も醜い言葉も聞かせたくない。
そっと両手で包み込むように桜の耳を塞ぐ。完全に音をシャットアウトすることは出来ないかもしれないけれどしないよりはましだ。
「ちょっとだけ待ってね」と口を動かすと微笑を浮かべたあと、桜はまた目を閉じた。
そして椿が電気を消して月の光だけが部屋を照らす。
何人かの足音が聞こえる。あいつらだ、それも複数人。
母親は顔を抑えてうずくまったまま呻き声をあげている。
この状況だけを見ればあいつらは何をどう判断するのか、大体は予想できる。
だから椿もああ言ったんだと思う。基本母の側に付いている人たちだから。
(私達が守るから)
私は自分に言い聞かせ、少しだけ桜を抱く手に力を込める。
不規則な足音がドアの前で止まり、怒声が木霊した。
「美月様!ご無事ですか!」
数人の男が怒声とともに部屋へ侵入する。その汚い足でこの部屋に入るなと叫びたくなる。
美月というのは私たちの母親の名前だ。こんな醜いものがそんな大層な名前をと嗤ってしまいたい。
男たちは母の付き人のような人達で、時代錯誤もいいところだ。
それなりの訓練を積んでいるから私じゃ相手にもならないけれど、彼らは入口から中々進もうとはしてこなかった。
彼らの視線は月明かりしかないこの部屋の中の母と椿二人に向けられている。
母は顔から血を流して鼻を手で押さえながらうずくまったまま。
一方椿は上半身は下着だけで私と桜、母のちょうど間の位置で仁王立ち。
向こうも状況は大方予想は付いて、今すぐに母を助けなくてはと思っているだろう。
ただ同時に彼らも椿にただならぬ雰囲気を感じ取っているのだろうか、動けない。
私からは椿の表情は見えないが、その背中からは私すら恐怖を感じるくらい殺気が見える。
(サイレンが聞こえたら合図、手段、移動ルートは椿に任せる)
私は俯いて椿にしか聞こえない音と認識できないほど小さな声で呟く。
その指示に指を数回鳴らして椿は応えた。十分だ。
私がするのは桜を抱えてここを出るか、囮となって桜を椿に任せるか、その二択だ。
私達の目的は桜を守ることだからその目標が達成出来るなら私達はどうなっても構わない。
「...ぁぁぁあああああああっっっっ!!!!!」
悲鳴にも似た奇声がこだまする。いつの間にか先程までうずくまっていた母が立ち上がってこちらを向いている。
そして身を投げ出す形でこちらへ接近し、先程とは別のナイフを向ける。
まだ隠し持っていたのか、狙いは変わらず桜のようだ。
一体その執着はどこから、何が原因で支配しているのか分からない。
だけど母が椿の横を過ぎる寸前に椿が母の着物の袖を掴み、引き離す。
そして器用にずらした着物の袖を使って母の両手を後ろ手に結んで自らの正面に構えると、彼らの方へ向けて牽制をする。
「...この屋敷の遥か遠くへ消えろ。もし百合がお前達を見つけたら私はこいつを殺す」
今まで聞いたこともないくらい低く重い声で言い放つ。
左手は母の首をしっかりと掴んでいる。椿の握力ならいつでも骨を砕けるし、裂くことも出来る。
これはただの脅しじゃない、そのことを彼らも理解しているだろう。
だけどその交渉が本気じゃないことは私にも分かった。譲歩を向こうが提案してきたらきっと椿から合図が来る。
「どういう意味ですか」
男共の一人が極めて落ち着いた声で疑問を椿に投げる。それはまるで犯人を刺激しないように注意を払う交渉人のようだ。
ならばこれは人質を持った犯罪者と人質救出を優先させる警察といった構図だな、とこんな状況で思う。
そしてその人質は今口をつぐんだままじっとしている。
一息おいて椿がその男に答える。
「...桜を病院まで連れて行く。その為にあんたらが邪魔なの」
感情を押し殺した、酷く冷たい声で私までぞっとした。まるで自分にも言われているような気がしたからだ。
彼らには椿と私の影で桜の姿が見えていない。ただ横になっていることだけは分かるだろうけれど。
その言葉だけで桜に何かあったのかは伝わっているだろう。問題は優先順位だけだ。
彼らがそこを通すか、母を優先し、母の命令に従うか。間違いなく後者。彼らはそこを通さない。
ここは二階、窓は二つ、片方は中庭、草木がクッションになって椿なら傷一つなく出られる。
だけど私は椿ほど、彼らほど身体能力は高くない。
あと少しすればサイレンが聴こえてくるはず。椿が動きを見せ始めたら私も動く。
それは勿論――
(...動く!)
「百合――」
「椿っ!桜をお願い!」
私と位置を入れ替わるように移動して椿が掴んでいた母の手を私が掴み、ドアまで駆ける。
椿は手早く布団をはがして桜を両手で抱き抱える。椿を止める時間は与えない。
半ば母を押し出すようにして彼らめがけて突進する。一番前にいる男は母で見えない。
だけどきっと男ははこいつをかばうように動き、その後ろの数人は椿が桜を抱えて窓から逃げ出すのを止められない。
私は囮だ、私は彼らから逃げ切ることはできないだろうから、せめて。
勢いよく窓が開けられる音がする。窓枠を外すよりも開ける方が早いと判断したのだろう。
こんな時でもやっぱり椿は冷静だ。だからこそ信じられる。
「ちっ、二人を追え!屋敷の外に逃がすな!」
「捕らえ次第連絡しろ!殺すなよ!」
「美月様は!?」
「応急処置を!必要なら竹井様に診てもらう手筈を!」
意識はそんなくだらない声をクリアに聞き取るだけでもうどこか浮遊感さえ覚えて。
すぐさま私は男達に四肢を掴まれ、拘束される。
これから何がされるのかの予想は付いてるし、その覚悟も今出来た。
だから大丈夫。たとえ何を言われようとも、椿から直接与えられる情報以外は信じないし、消化しない。
「百合様、話を聞かせていただきます。付いて来てもらいますよ」
男の一人がドスのきいた声で私の耳元で囁く。
嫌悪感が全身を這いずり回ったが、唾を飲み込んで抵抗したくなる気持ちをを拒む。
振り向くことはしなかったけれど、きっと何とかしてくれる。
私はどうなろうと構わないから、どうか桜が無事でありますように。
男達に引きずられる形で私は桜の部屋を後にした。
◇
雫が滴る音が反響する。
器の大きさによってその波紋は形を変えて不規則な振動を生み出し続ける。
自然界に蔓延るそれではない、人工物によって生み出される不自然。
一定間隔で滴ることのない雫は私の中のあらゆるリズムを狂わせる。
呼吸、鼓動、思考、時間、様々な感覚が水滴だけでこうも破壊されてしまうものなのか。
目は布で覆われているせいで聴覚がさらに鋭敏にされているようだ。
よく考えるなと、この状況でそんなことに感心する。
両腕は頭の上で縛られたまま拘束されて、足元はつま先がようやく地面に届く距離にあって安定しない。
吊るされている、という表現が適切だろう。
口元にも布が咥えさせられていて下を噛めないようにしているのだろう。
とりあえずまともに動けそうにない。無理に動こうとしても体力が無駄に減るだけだ。
あれからどれだけの時間が経過したか分からないが、全身から溢れる汗の量から短時間じゃないことは確かだ。
視界は閉ざされているけれど私はこの場所を知っている。
おそらく小さい頃から何度も入れられたことのある薄暗く汚い地下倉庫の一室。
そんな吐き気のする場所に私は一人閉じ込められていた。
(尋問、拷問、衰弱死...何が待っているのやら...)
無理やり気絶させられたせいだろう、首元の痛みがまだ後を引いている。
両腕も皮膚が千切れるギリギリまで捻られているような痛みが先程から続いてもうすぐ麻痺してしまいそうだ。
ちゃんと私を吊るす高さを調整しているのか、足で立てないよう、だけどつま先だけは地面に触れるよう吊るしているのだから質が悪い。
人のことは言えないが人間の悪意とは本当に底知れない。こんなの氷山の一角ですらないだろう。
これから私にされることもまたその一角、それはきっと数世紀前から今まで残り続けた。
そして私達に与えられたのはその悪意の最先端、痛みと死を首の皮一枚ほどの距離まで縮められたような技術だった。
外傷なく内部を痛めつける。跡が残らないよう鞭を打つ。
火傷する一歩手前の温度の熱湯を幾度と被せられる。壊死寸前まで局部を締め付け上げる。
ペンチで爪を四ヶ所同時に剥がされる。五本の指すべての爪を剥がすまで続けられる。
他にも数え切れないくらいの痛みを私達は与えられ続けた。
その日の痛みは身体中に残留し、じっくりと時間をかけて身体に溶け込んでいく。
そして傷口にタバスコを塗りたくるようにさらに鋭い痛みを上書きされる。
喉が潰れてもなお叫び、四肢が千切れるほど強くもがき、吐き出すものがなくなってもなお嘔吐を繰り返す。
確かに地獄はそこにあった。場所ではなく、私の頭の中に。
何度だって自刃を図ろうとした。死なせて欲しいと懇願したことも何度だってある。
決して逃れられない、慣れない、忘れられないそれを刻みつけてあの家に縛り付ける。
それが彼らの目的であり、何代にも渡って繰り返されてきたこどだった。
虐待なんて生ぬるい言葉じゃ物足りないくらいそれは人間にしか考えつかない様なことばかりだった。
だけどそれは長女の私だけだと、ここを継ぐ私だけだと思っていた。
だから椿も同じことをされていると知ったときは全身を絶望が覆い尽くして体の震えが止まらなくて、
何日も眠れなかったし、暫く椿を見ることが出来なかった。
祖母が椿のことを私に話した時もそのどこまでも暗く粘ついて離れない狂気に震えた。
そして十代にも満たない頃に私の心は壊れ、その家の言いなりに動く生ける人形と化していた。
思い出すだけで反吐が出る過去の記憶。
そしてこれからまたそれらが今の私に再現されるかもしれないという予想に恐怖を感じない私はやはり壊れてる。
(お前達の最大の失敗は桜が生まれたあとも母を生かし続けたこと...)
そして私達の最大の幸運は桜が生まれたこと。
あの時の感覚は今でも鮮明に浮かび、体現できるくらい強く私の脳に根付いてくれている。
お前たちが狂気に身を置くというのなら私もまたお前たちを殺すために狂気に身を置いてやる。
私の覚悟はお前たち以上だ。
室内の熱気は冷めることなく私を苦しませ続ける。
滴る雫はおそらく私の汗だ。喉が酷く乾いて今なら桶に入れられた汚水ですら美味しく感じるかもしれない。
確実に体力を削り取られ、体を動かす気力を奪っていく。
もうすぐ、来るとすれば私が消耗して気絶する寸前だろう。
いつでも来い、いつまでも来なくていい。あの頃に比べると随分と私も変わったんだと思う。
恐怖がない分思考に余裕ができて頼もしい。
ドアが開かれたのはそれから水滴が十二万六千二十四回滴った時だった。
「...意識はまだあるようだな」
ドスの効いた低くお腹に響く声。私の首に一撃お見舞いした男だ。
「美月様は無事だ。鎮痛剤と鎮静剤で今は眠っている」
わざと私が関心を持たないことを言ってくるのは椿達がこいつらに捕まっていない証拠だ。
こいつらは矜持や縋るものを踏み潰してあざ笑うのが生き甲斐みたいな人間だ。
いちいち反応しててもしなくても退屈すぎて欠伸が出そうになる。
「残念だが俺はお前に何もしない。ただ見届けろと命令された、お前の死に様をな」
ああ、そう。壊れた人形には何をしても無駄だと思ったのかしらね。
それとも今の私を甚振るには桜がいないと無理だと理解しているのか、
どちらにせよ私を生かしておくつもりはないらしい。
「これじゃあ既に死体と変わらないな、精肉待ちの牛の死体と同じだ」
誰に向けられたともなく男が呟く。その言葉を聞いて私は心底可笑しくなって笑いそうになった。
ならばお前たちは私を喰らうの。きっと脂が乗って美味しいのでしょうね。
そんなことを言ってしまいたくなる余裕があることに私は少し驚いた。
それから男は一言も喋らなかった。
きっと返事も出来ない屍同然の私を相手にするのはコンクリートの壁に話しかけるよりも空虚だ。
意識が少しずつ沈み、鋭敏だった聴覚が鈍くなっていく。
そして私は気を失った。
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