11. 桜、椿、桜
病室を照らす太陽が眩しくて思わず目を閉じる。
どうやらいつの間にかお昼寝をしてしまっていたみたいだ。
膝の上には夢日記を書き終えたスケッチブックが置かれている。
今日はなんだか記憶が曖昧でよく書けなかった。
それでなんとなく窓の外を眺めてぼんやりしていたところまでは覚えてる。
車椅子に座ったまま眠ったからだろうか、なんとなく腰あたりが痛い。
瞼の裏が赤色に染まって視界が鈍い。
ああ、この体はこんなにも脆くなっていたんだ。
今更で、特に期待なんてしてはいないしもう何百回目の確認か分からないけれど。
(...いつもと景色が違う)
ふと、周囲に意識を向けるとその違和感を覚えた。
変わらない病室、ドア、ベッド、テレビ、窓、引き出し、パイプ椅子...
全てが何一つとして同じものじゃないような錯覚に突然包まれる。
(気のせい、だといいな...)
きっと慣れないことをしたからそう思うだけだ、そう言い聞かせる。
今の私には何もできない。世界を変えることも、何も。
時々目を覚ますと本当に眠りにつく前にいた場所にいるのか不安になることがある。
ここは二人がいる世界だろうか、並行世界のように、僅かなすれ違いもない異なる座標なんじゃないか。
流れる時間は逆行していないだろうか、時計に書かれた数字の並びは時計回りだろうか。
水の中のように無抵抗で理由もなく死んでしまいそうな自然さは失われていないだろうか。
杞憂も杞憂、誇大妄想もここまで来ると嘘が現実に投影されることだってありえてしまうんじゃないか。
やり場のない感情は誰のために持て余しているのか。
支離滅裂で、だけど私が何を求めて、何を恐れているのかははっきりとしていて強い嫌悪感を覚える。
なんたって私にはどれだけ望もうとも残された時間が少ない事実を覆すことができないのだから。
『自我を疑え』
嫌な記憶を掘り返してしまう自分が何よりも支離滅裂だ。
だってこんなにも自分の気持ちを整理するのが苦手なんだから。
なんだか少し疲れたので私はベッドまで戻る。
車椅子を少しずつ動かして寄せてから倒れるように布団に身を投げ出す。
低反発で沈み込むこれは百合姉が私のために用意してくれた特注品だと椿姉から聞いたことがある。
本当に愛されているんだと信じているし、裏切られたって構わないと思えるくらいに愛してる。
百合姉の私に対する愛は上限も加減も知らなくて、
その捨て身のような行動力と決して揺るぎない綿密な思考分析による計画性は妹としてとても誇らしい。
椿姉は春の暖かい陽光のような優しさで接してくれて、
だけど私たちの中できっと一番純粋で壊れてしまっている。
いや、多分私が椿姉を壊してしまったのだろう。ああなってしまったのはあの時からだから。
だけど一途に決してブレない私への執着心はとても愛おしく感じる。
身に付いたもの全てをとっぱらって私を求めてくれるその姿は脳幹が痺れるほどに嬉しい。
二人は、私の全て。
ドアが少し隠れる程度に閉じられたカーテンレールを引くと、
僅かながらこの病室が開放感を得たようでやはり不安は覚える。
だけどきっともう少しで椿姉がここにくるから、だから椿姉が扉を開けた瞬間にその瞳を交わらせて微笑んであげたい。
それを椿姉が望んでいるから、そうしてあげたいの。
◇
病室のドアを開けるとベッドに身を投げ出した形で寝転んでいる桜が真っ先に視界に映った。
どことなく儚げで扇情的に見えるその姿に思わず唾を飲み込む。
胸の高鳴りがさらに大きくなる。
「...あぁ...っ」
やっと会えた。言葉にならないくらいの多幸感が私の全身を廻り震わせる。
どうしてこんなにも桜に会うことを渇望していたかなんてどうでもよかった。
今私の目の前に桜がいる。
それが私の頭の中で一杯で、それ以外は全部汚れて無駄で邪魔なもの。
覚束無い足取りで桜のいるベッドまで歩み寄る。
桜はそんな私を見てやはり優しく穏やかに微笑んでくれている。それが崩れ落ちそうになるくらい愛おしく思えた。
「桜ぁ...あぁ...桜ぁ...」
うわ言のように呟きながら私はベッドの側までたどり着いた。
左手が不意に伸ばされる。そして桜の頬を優しく撫でる。
すっごく柔らかくて、あったかくて、気持ちいい。
少しくすぐったそうにしながら微笑んで桜は右手を私の左手に重ねる。
その手は私よりも少しだけひんやりとして、それもまた気持ちが良かった。
とくん、とくん、と血液が桜の右手を巡る音が聴こえて心地いい。
そこからさらに心音も聴き当てるとやはり穏やかで心地が良かった。
まるで子守唄の旋律の基盤を直接感じているような夢見心地。
どうやら私は何か言っているみたいだけれど、もう何も聞こえなかった。
桜はそんな私の話を聞いて時折頷いて、そしてずっと微笑みかけてくれる。
全てを受け入れてくれる微笑み。私が望んだ通りの微笑み。
意識は全て桜の表情と鼓動に向けられている。涙を流しているような気がしたけれど、もうどうでもよかった。
気が付けば私は桜の太ももに頭を押し付けていた。
『いいよ、ゆっくり休んで』
そんな声が聞こえそうな優しさで私の後頭部を撫でてくれる。
母親が子をあやすような慈しみを伴って、ゆっくり、とろけるように。
私の弱い所も、良い所も、全部見てくれて、受け止めてくれて、
無条件に肯定してくれる。
こんな幸せなことは他とない。桜だけが弱音や泣き言を静かに聞いてくれて、その後必ずこうして私を包み込んでくれる。
私に頑張る理由をくれる。誰がなんと言おうとも関係ない。
こうして私が甘えられるのは桜だけ。
堪えられない何かが溢れてくるのを何も言わずに受け止めてくれる桜に身を預けて私はその微睡みに溺れた。
◇
椿姉が私に体を預けるようにして眠っている。
その寝顔はいつもここに来る時の凛々しさはなくて、まるで無邪気な子供のようだ。
時折髪を梳いたり撫でてあげると気持ちよさそうに身を捩る。
柔らかくてさらさらした綺麗な髪はいつまで触っていても飽きない。
先程まで泣きながら不安を口にし続けた椿姉と合わさって本当に可愛いなと思ってしまう。
私のほうが年下で妹なのに、なんだか不思議な気持ち。
『 』
椿姉は私が生まれる前からどんな風にあの家で育てられたかを私は知ってる。
私が生まれてからもそれが変わらなかったことも知ってる。
だけどそれが全部私の為だと考えるようになってからは辛くても頑張れたんだってことも。
感情も殺してただ無機質な道具として育てられようとした、可哀想な椿姉。
そんな椿姉が愛おしくてたまらない。
母親とも父親とも一切の干渉を遮られて知らず知らずの内に孤独で飢えていた、
初めから普通とはかけ離れすぎる場所に置き去りにされた椿姉。
先程中毒患者のようにただひたすら盲目に私を求め、私の頬を撫でた大きな手。
その手は今私の右手をしっかりと握り、いなくなるのを恐れているようにも感じる。
そして今こうして私の膝の上に頭を乗せて眠る椿姉を見て、
珍しくお昼寝をしてしまったのはこうして椿姉のことをあやす為だったんだと確信めいた思いを抱く。
きっとあの時寝ていなければ今頃私も一緒になって眠っていたかもしれない。
最後まで椿姉の話を聞いてあげられなかったかもしれない。
私が知らなかった椿姉のことは百合姉からある程度聞いて知ってるから。
一定以上の不安に駆られると無意識に思考を閉じて自己防衛を行うこと、
それが原因で普段から前後の出来事の内容を思い出さないようにしてること、
生まれた時からさせられていた禊を、今でも手段を変えて毎日続けていること。
その無理が重なってこうして時々私に甘えるようにすがるのも。
ちゃあんと、分かってあげる。
不安定で今にも崩れ落ちそうで、けれど変わらず一途な椿姉。
きっと明日にはまた私の遊びに付き合ってくれる優しいお姉ちゃんになってここに来てくれるんだよね。
それが嬉しくて仕方がない。
左目からこぼれ落ちた涙が私の服に円を作る。
本当はいつだってこうして泣いたり、不安を口にしたり、私に縋り付いてもいいんだよ。
私はいつだって二人に甘えたいし、甘えられたいんだから。
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