1. 桜、椿
私が育ったのは比較的裕福な家庭だと思う。
父は祖母の会社で働いていてほとんど家にいない。
母も理由は知らないけれどほとんど家にいない。
だから三人姉妹の末っ子として生まれた私は二人の姉に可愛がられた。
一番上の姉には6歳離れていて小さい頃からよく面倒を見てもらっていた。
百合姉は優しくて聡明な誰もが憧れるようなお姉ちゃんだ。
真ん中の椿姉は4歳違いで口数の少ない大人しいお姉ちゃんだ。
三人姉妹の中で一番背が高く、運動が得意で、中学、高校とバスケをしている。
裁縫や料理が上手で基本的に夕飯は椿姉が作ってくれたし、解れたボタンを付け直してくれたり、
誕生日に手作りの猫のぬいぐるみを作ってくれたりもした。
そんな二人が私は自慢だし、大好きだ。
私のことを大切にしてくれているんだなって事あるごとに実感する。
損得無しに側にいてくれて、いろんな話を聞かせてくれる百合姉。
誰よりも私を見てくれる椿姉。この二人が私の全て。こんな私を愛してくれる。
それが何より幸せで、私を何より苦しめる。その優しさが。
膝の上に乗せられたスケッチブックに目を落とす。百合姉がくれたものだ。
中身はまだ二人にも秘密なままだ。
きっとなにか絵を書いていると思われているといいけれど、
どうかな?驚いてくれるのかな?
もちろんまだ未完成だからそれはきっと随分と先の話。
プラスチックの小さな筆箱の中にはHBの鉛筆が三本と消しゴム二つ、それとメモリ部分が少し掠れた15センチの定規が一つ。
一人の時は決まってある情景に思いを馳せる。
その日見た夢を言葉にして残す、所謂『ゆめにっき』というもの。
見たことのないそれはとても現実離れしすぎて言葉にするのは難しいのだけれど、
私はこれ以外にすることが何もないから。
今日も病室の窓から見る景色を通して夢の出来事を思い出す。あれはどんな夢だったかな。
スケッチブックを開いて左手に鉛筆を持って少しだけ書いてみる。
『暗い洞窟の中で水滴の滴る音が聞こえる。
私は地を這いずり回りながら何かを探してる。
時折紫色の霧に覆われて、けれど必ず小さく光る何かが見つかる。
私はそこを目指す。手を伸ばすより前に近づいていく。
けれど一向に光に近づく気配はない。
まるでずっと同じ場所にいて進んでいないような。
誰かが私の背中を踏んだ。痛い、退いて、離して。
もがこうとしても何故か私は動けなくて、次に足も踏まれて、抵抗出来なくて。
叫ぼうとしたけれど声が出なくて。
光は変わらずそこにあるのに。届かない。
仰向けに倒された私の体に誰かが覆い被さってくる。
お腹から下をまさぐられて蒸し暑い。
離して、離して、お願い、動いて、動いて、動いてよ...』
...そこで今日は目が覚めた。暑苦しさは布団のせいで、
動けないのは点滴の針を刺している腕がベッドに固定されているから。
もう片腕は枕の下にあった。多分寝相で移動したのだろう。
額の汗をぬぐって時計を見て少し早い時間に目が覚めたことを確認する。
そして綺麗に畳まれたタオルを一枚拝借して顔から首筋、胸元にかけて左手の届く範囲まで汗を拭く。
「......」
そこまで思い出してから私はスケッチブックに書いた夢の内容を読み返す。
前半は情景を書いているけれど、後半は私の心情を書いているのが判る。
これはいつものことで、ありのままを書いているのだから変に書き直したりなんてしない。
だって日記なんだから。
しっかりと削られていた鉛筆はすっかり丸くなって今手にしてるのは二本目。
後でまた明日のために削っておかなくちゃいけない。
病室には手回しの鉛筆削りが置いてある。
椿姉が持ってきてくれたもので、可愛らしいデザインがなんとなく椿姉らしい。
片手でも使えるように机にしっかりと固定されていて差し込んでハンドルを回すだけで使える。
そんな気遣いが本当に嬉しい。
暫く振りに窓の外をみると日はもう落ちかけていた。本当にあっという間に過ぎていく。
これが私のいつもの一日。
コンコン...
病室の扉をノックする音。
小さくて静かな個室に木霊する。左手で車椅子のレバーを動かしてドアの方を向く。
半透明のガラスにシルエットが見える。ドアの前に来るまでの足音は聞こえなかった。
こんな歩き方をするのは私の知っている数少ない人の中に一人しかいない。
「...桜、入るよ?」
静かで、優しい声。ドア越しでもよく聞こえる柔らかな声。
椿姉だ。なるべく音を立てないようにドアをスライドさせて入ってくる。
肩の少し上で切り揃えられた黒髪に少しつり上がった目。
長身でスカートの下から覗くスパッツがスポーティな雰囲気を後押しして綺麗だ。
誰よりも気遣いが出来て、けれど不器用で普段はほとんど無口な。
少し長い前髪から除く目が私の姿を捉えると優しく緩む。
「...今日も、空を見てたの?」
窓際にいた私はその言葉にこくりと頷く。何も間違ってない。
膝下に置いたスケッチブックについては触れない。
これは私だけの唯一で、宝物だから。
きっと椿姉も守ってくれているのだと思う。
絵を書いていたと思っているのかな。半分正解。でもまだ教えてあげない。
大切なお姉ちゃんだから、尚更だ。
「...今日は晴れちゃったね」
私のそばに歩み寄った椿姉は窓の向こうを見て、私に同情するように、自分も残念がるように零す。
椿姉の横顔が窓から差し込む夕陽に照らされて髪が茶色に染まる。
なんだか似合わないなって思っちゃってたり。
答えを求めているそれではないと分かってる私はその言葉に何も応えない。
私は雨が好き。椿姉はそれを知っている。
その理由も伝えたことはないけれど、多分。
私の視線に気付いた椿姉が私を見て微笑む。私もまた微笑み返す。
その表情の意味をお互いに知っているから。椿姉は私に何も言わない。
少しの間一緒に窓の向こうの景色を見て、椿姉が私に問いかける。
「...今日はなにしようか?」
そう言ってベッドの右手にある棚の上から二番目、
左端の引き出しからボードを取り出す。
リバーシ、チェス、将棋の三種類。
頭の悪い私でも理解できた数少ないゲーム達だ。
勿論全然強くなんてないけれど。
左手でチェスのボードを指さして微笑む。
椿姉もまた微笑み返してくれてリバーシ、将棋のボードを仕舞ってスライドデスクにチェスボードを置くと、
壁際に置かれたパイプ椅子を広げて私の正面に座る。
ちょうど窓際で私と椿姉がデスクを挟むように向かい合わせになる。
二人だけの時間。こうして向かい合って座ってくれるだけで私は嬉しい。
それに加えてこんな私と遊んでくれる。現金かもしれないけれどそんな優しい椿姉が私は好き。
お互いの駒を並べて、先攻を決めて、駒を動かして...
静かで、穏やかな時間。
時々お互いを見つめ合って、微笑みあって、駒でボードを鳴らして。
◇
夕日が落ちて真っ暗になると椿姉はデスクも全部片付けてから帰る用意をする。
私は病院のご飯があるけれど、椿姉と百合姉は夕飯を作らなくちゃいけないから。あと洗濯物とか、することは色々あると思う。
家のことはほとんど椿姉が管理してると前に百合姉に聞いた。
代わりに家計を見ているのは百合姉だと椿姉に聞いた。
どちらも私には出来ないこと。
ブレザーを羽織り、少し大きめのスポーツバッグを肩にかけると椿姉は私のそばに歩み寄る。
「...明日また来るね」
車椅子に座った私を椿姉の大きな手が撫でる。頭を、髪を、頬を、慈しむように。
それだけで私はまた微笑む。それだけで伝わるから。
―幸せ。
「...じゃあね」
ドアの前で振り返って私に手を振ってくれる。
私もてを振り返してまた微笑む。
ドアが開けられて、閉じられるまで私は手を振り続けた。
再び小さくて静かな個室に一人。もっと一緒にいたい、行かないで欲しい。
そんな我が儘を押し殺して時計を見る。
もう少しで看護師さんが御飯を持ってきてくれる。
それまで少し微睡みに身を任せていようかな。なんだか少し眠くなっちゃった。
私は小さくあくびをして目を閉じる。涙が目の端から零れた。
初執筆作品です。なにかコメント等頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。