2 血管を拾う犬
『私が、生きる肌』という映画を知っているだろうか。
大まかに説明すると、形成外科医である主人公が、自宅に監禁した『ある人物』を死んだ奥さんそっくりに改造してしまうという物語だ。
主人公は特殊な人工肌を貼りつけることでその『人物』をどんどん奥さんの姿に近づけていく。しかし彼女から性的に誘惑されてもまるで相手にしない。かといって彼女が逃げ出そうとすれば必死で食い止める。
いったい主人公は何がしたいのか。そこには主人公一家にまつわる大きな因縁がある。まあサスペンス映画だから深い内容の解説は控えるとしよう。
とにかく非常によくできた映画だ。映画はハリウッドや役者の知名度だけではないと教えてくれる好例だと思う。
しかし一つだけ難癖を付けさせてもらうならば、この映画は絶対に家族と一緒には観られない。なぜかと言えば、
「すごいわ。うわあ、そこまで改造してたの?」
「受け容れ可能みたいだね……」
この映画、情熱の国スペイン製だからか、とてつもなく性的なんだよね。
おっぱいは丸見えだし、さすがに直接的な箇所は映らないけど『そういう行為』も多く出てくる。時には赤ん坊のようにしゃぶったり、また主人公が変なアイテムを出してきたりして、そういうシーンの度に隣に座る水畑が「うわあ」などと声を上げていた。
かくいう僕も、彼女がツタヤでDVDを借りた時にはいたって普通のサスペンスだと思っていたから、まさか女の子と一緒に結合のシーンを観ることになるとは想像もしておらず、非常に面食らってしまった。
しかもその、話の根幹に関わるから言いづらいんだけど、この映画に出てくる結合って、本質的には超アブノーマルな『竜虎合体』だったりする。
あることをきっかけに二人は身体を交わし、それが元で主人公は『人物』に心を許しちゃうわけだけど、そのきっかけがまたアブノーマル。
おかげで暗い部屋で女の子と二人きりになっても全く良い雰囲気にならなかった。いやなったところで困るといえばそうだけど。
しかし、どうして水畑はこんな映画を借りたんだろう。あまり考えたくない。
× × ×
約二時間の映画鑑賞を終えて、僕はおつまみとして二人の胃袋に消えた『鮭の南蛮漬け』の容れ物を水畑家の台所で洗わせてもらうことにした。
弟から借りた小さな弁当箱をスポンジでゴシゴシしていく。
パッキンや蓋の汚れも洗剤があればちょちょいのちょいだ。
「楽しい映画だったわね」
灰色セーターに袖を通した水畑が、対面式キッチンのカウンター部分に身を寄せる。
水畑結子は黒髪のよく似合う東洋風の美人さんだ。
だが意外にも肉付きは良いようで、ネックの間からは丸みを帯びた、おっといけない。
「そうだね。この前のB級映画みたいに時間返せってことは一切無かったよ」
「ふふ。まあ私はあなたと一緒なら、それだけで満足だけど」
「…………」
僕・万永浩志には夢がある。
それは可愛い彼女と清純にお付き合いすることだ。
残念ながら理想的な女性の一人だった神笠未来さんには彼氏がいたが、しかし世の中にはきっと同じくらい心も体もほわほわしている子がいるはずである。
だから目に見えるものに惑わされてはならない。
いくら綺麗な子で、クラスでも高嶺の華とされている人物でも、心の底で合わない部分があるような女の子とは長続きしない気がする。それに初めてはやはり理想通りの子がいい。
というわけで水畑の好意には今のところ「ごめんなさい」をしていた。時には自分でも勿体ないと思うことはあるけど、遠すぎない未来を考えれば妥当な判断だろう。
「よし、洗い終えたよ」
僕は弁当箱を水切りカゴに置かせてもらった。
「じゃあ次は何を観ましょうか。借りてきたものでもいいけれど、我が家には他にも秘蔵のDVDがたくさんあるのよ。それこそ『スパルタンX』から『フー・アム・アイ』『プロジェクト・イーグル』のようなジャッキー映画だってぬかりないわ」
「そういや水畑って、邦画は興味ないの?」
洗い物を終えた僕の何気ない質問に、水畑の目がギラリと輝いた。ちなみに一応説明しておくと邦画とは日本映画のことだ。逆に海外映画のことは洋画と言ったりする。
「ふふふ。無いわ!」
「あ、無いんだ」
どんなB級映画でも最後まで観る水畑のことだから、東西分け隔てなく映画を愛しているのかと思いきや、意外にも好き嫌いはあるらしい。僕は『鍵泥棒のメソッド』とか『さびしんぼう』とか『地獄でなぜ悪い』とか好きなんだけどなあ。
すると水畑は何やら言い訳をするように、
「いえね。選り好みをしているわけじゃないのよ。ただ私の家はみんな洋画派で、小さい頃からハリウッドに染まってきたからちょっと馴染みがなかったりするの」
「ああ、なるほどね」
何となく僕にも事情はわかった。
例えばアルコールの好みなんかでも、家によっては日本酒が好きだったり、ビールが好きだったりする。また僕としてはカレーに豚肉を入れるなんて信じられないが、この世には入れる家もある。そしてこういうのは『おふくろの味』だから往々にして遺伝する。
もちろん日本酒もビールも美味しいお酒らしいし、ポークカレーだって食べたら美味しいかもしれない。しかし単純に小さい頃から触れたことがある・無いというのはなかなか越えられない壁だったりするのだ。
「あの、よければ万永くんが教えてくれないかしら」
カウンターから回り道をして、僕のいる台所まで近寄ってくる水畑。
こうして全身を見ると本当にスタイルが良いのがよくわかる。
いかんいかん。あんな映画を観たからか、また邪念が入ってきた。
「邦画を? 僕だって詳しいわけじゃないよ」
「だったら一緒に『初めて』を共有しましょう、その、きっと楽しいわ」
「お、重たい」
ギューッと両手をつかまれ、思わずそんな声が出た。
僕たちは恋人ではない。僕は水畑にちゃんと「ごめんなさい」をしている。
しかし残念ながら彼女は諦めていないようだった。多分僕が自分に優しいのは少なからず好意があるからだと相変わらず信じこんでいるのだろう。そういった思い込みもまた、なかなか拭い去れるものではないと映画は語ってくれる。
タイトルは忘れちゃったけど、そういうシーンって結構あるからね。
ともあれ、今の時間から邦画を観るとなると、ひとまず家に連絡しないといけないな。
× × ×
『オムレットの人々』という映画を知っているだろうか。
僕は知らない。
きっとテレビCMも流れていないような、マイナームービーだ。
しかし郊外のシネコンでやっていたレイトショー映画のうち、邦画と呼べる作品はこれ以外には某刑事ドラマのスピンオフだけだった。なので僕と水畑は、ほとんど強制的にこのマイナー映画のチケットを購入することになってしまった。
さすがにいきなり触れたこともないドラマの番外編を観るのは気が引けたのだ。観るならしっかり原作も観ておきたい。
さて、水畑がトイレに行っている間に一応パンフレットで内容を調べてみると、この『オムレットの人々』は、心をズタズタにされた三十代のOLが東京から地元に舞い戻り、かつての友人たちと旧交を温めたりするものの、どうにもモヤモヤした空気が晴れない……というストーリーらしい。
さらに中盤以降は主人公の母親が認知症を患っていたことが発覚したり、昔の彼氏と良い関係になりかけるも相手が既婚であることがわかったり、何というか、少なくとも男性向きの映画ではないみたいだ。水畑の好みでもない。
しばらくして彼女がトイレからロビーまで戻ってくる。セーターの上から黒いコートを羽織っているのは外出中だからだ。手には桃色のハンカチ。
「おかえり」
「待たせたわね、万永くん。ポップコーンはないの?」
「デートじゃないから奢らないよ」
一応、一線は引いておく。
すると水畑はニヤリと笑みを浮かべ、
「ふふ。ありがたいことに、実は私って映画の最中にモノを食べるの嫌いなのよね。バリバリと食べる音がうるさいから」
「さっき二人で南蛮漬け食べたよね」
僕のツッコミに彼女は「さすが万永くんだわ」と拍手付きの賛辞を送ってくれた。
さっきとは彼女の家で『私が、生きる肌』を観ていた時のことだ。彼女は僕も食べるつもりだった鮭の南蛮漬けをほとんど一人で食べてしまった。
おかげで先刻からお腹がグーグー鳴りっぱなしであり、仕方なく僕は最寄りの売店でMサイズのポップコーンを購入する。
別に水畑が欲しがったからではないよ。お腹が空いただけ。
時には「うるさい」とか「映画に集中しろ」とか言われることもあるけど、やっぱり映画館とポップコーンは黄金の組み合わせだと僕は思う。
どことなくアメリカンな気分にもなれるのも良い。
ただ無駄にボリボリ音を立てるのだけは勘弁な!
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「ええそうね。あなたとならどこへでも」
「付け足さなくていいから」
「うふふ」
楽しそうに笑みを見せる水畑。以前はあまり見られなかった表情だ。
もしかすると僕に告白したことで溜まっていたものが取れたのかもしれない。
不覚にもほんの少しドキドキしている自分がいた。
× × ×
あらかじめ買っていた座席チケットを係員に見せて、僕たちはスクリーンの前に座る。
どうしてわざわざ水畑の家から映画館まで来たかといえば、やはりこの大画面で映画を楽しみたかったからだ。それにここ最近はずっと彼女の家のテレビで映画を観せてもらっていたので、たまには僕からも映像を提供しておきたかった。
もっともシネコンのスクリーンなのでそんなに大きいわけではない。
シネコン=シネマコンプレックスとは大小合わせていくつかのスクリーンを備える複合映画館のことで、一度に多くの作品を上映することができるのが特長だ。
残念ながら『オムレットの人々』は人気作ではないらしく、小さい方のスクリーンに回されていた。
「万永くん、この作品はどういう話なの?」
水畑がポップコーンをつまみながら尋ねてくる。
さっそく食べるんだからなあ。
「どうも地味な作品みたいだね。アラサーの女性が色々と思い悩んだりする話らしいよ」
「爆発はしないのかしら?」
「しないと思う」
およそアクション映画で無ければ、邦画で火薬が使われることは滅多にない。
ハリウッド映画だって『プラダを着た悪魔』『レインマン』みたいな作品では当然のように爆発シーンは存在しない(多分)。
多分と付けたのはやっぱり僕も自信が無いからだ。どうも向こうの国の人々は爆発シーンを愛してやまないのか、隙あらば火薬を使ってくる。
たとえファッション雑誌を扱うような映画や、自閉症の兄との交流を描いたロードムービーであっても、下手したら敵が出てきて、銃撃戦になったりカーチェイスが行われたりするのがハリウッド流なのだ。
うーん、真偽が気になる。この映画が終わったら二作品とも家で観直そうかな。
「ならキスシーンは?」
「それはあるね。ほぼ確実に」
僕は強くうなづいた。ついでにポップコーンに手を伸ばす。
これについては東西関係なく『とりあえずキスしておけばフィナーレっぽい』という風潮があるので、特にこうした女性向けムービーの場合は確実にどこかで「やる」だろう。
加えて打ち上げ花火が背景に映ればもう完璧だ。女性向けではないけど『ゴールデンスランバー』でもそういうシーンがあった。
「……あれ?」
「ごめんなさい、もう食べちゃったわ」
唇に指を当てる水畑。油がリップの代わりになっている。
小さくて、形も色も良くて、それでいて柔らかそう――いや柔らかかった彼女の唇は、ちょうど予告編が始まるあたりまで、僕の頭の中にとてもたくさんの煩悩を生み出してくれた。
そう。水畑の唇は柔らかかったんだ。
× × ×
まだ太陽が東側に居た頃。
とある危険物を抱えて、とある危険な女から逃げ回っていた僕は、共通のゴールであった学校において、ついに彼女に捕られてしまった。
真っ先に教室に向かえばよかったのに「捨てるのは惜しい」と『鮭の南蛮漬け』をどこかで早弁してやろうと企んだのが運の尽きだったようだ。
誰もいない体育棟の廊下に追い詰められた僕は、その場で人生初めての口づけを体験することになる。
「うっ、酷い。初めてだったのに」
「私もそうよ」
「江村くんとはしなかったの?」
「付き合ってもいないのにどうやってするのよ」
「いや、こんな風に」
ロッカーに押さえつけられて、ほとんど無理やりといった具合だったが、やはりその、かねがね予想していた通り、一生記憶に残りそうな経験だった。
「で、感想は?」
「申し訳ないけど、お付き合いするつもりはないよ。何度も言ってるけどさ。キスまでしてもらって気持ちは嬉しいけどやっぱり、友達じゃいけないのかな?」
「ここまでしてもダメなのね」
辛そうな顔をされる。こちらとしても辛い。
しかしだからといって付き合えばいいというわけではないはずだ。本当に好きでもないのに付き合うなんて、そんな優しさは優しさではないと僕は思う。
それに彼女の「優しさは好きの代償」「代償を払ったのだから好きになるべき」という考え方にはやはり馴染めない。これはかつて机に伏して泣いていた時の彼女にもほんのりと感じたことだ。
そういう『合わない』部分がある以上は、やはりお付き合いなんて無理だろう。
だから、少なくとも今は、まだ承知できそうにない。
「ごめん」
「そう。なら、もう一回ね」
あまりにも強引すぎて、もう文句を言う気にもならなかった。
もはや好きにならなければ殺す、くらいの気迫を感じる。
相変わらず、一つ一つの行いが重たい。
「くはっ」
「ふう。さて、口直しに例のブツをいただこうかしら」
感慨深そうに口元を拭う水畑。
その手は廃棄された靴箱に向けられる。
危険物『鮭の南蛮漬け』がそこには隠してあった。
「や、やめろ! それはまだ!」
「まだ?」
「その、まだ味が染みてないから、食べるなら午後に食べよう!」
僕は適当なウソでごまかそうとする。
なにせ『南蛮漬け』には神様へのお願いが掛けられているのだ。食べた人と一生懇意になれますように。
本来なら神笠さんに捧げられるはずだったのだけど、彼女には他に恋人いた上に魚が食べられないらしく、こうして水畑の元に渡ってしまう原因となった。
「ふーん。午後ね」
何やら考えている様子の水畑。制服の上に黒のコートを羽織っている。
「――わかったわ。放課後に私の家で、二人で食べましょう。いつものように映画を観ながらゆっくりと」
「りょ、了解」
「だからそれまで預かっておくわね。腐らないように冷えるところを探しておくわ」
そう言って、彼女はその廊下から姿を消した。
後に残された僕は「二人で食べるなら大丈夫かな」と現実逃避をしていたが、今になって考えてみると、お互いに一生懇意になってしまいかねないわけで。
もう「神なんて信じない!」と開き直るしかないみたいだ。
しかし、レモン味ではなかったな。
× × ×
東京の出版社に勤めるカナコは、その優れた営業手腕で会社の屋台骨を支えていたが、同僚が次々と寿退社していく中で次第に孤立を深めるようになり、やがて会社を辞めて地元に戻ることになった。
時に彼女は三十五歳。若さと老いの中間を迎えていた彼女にとって、このUターンは新たなる人生の始まりとなるはずだった。
しかし運命はカナコに辛く当たり続ける。
地元のオムレツ専門店で働くことになった彼女だが、ふとしたことから店長のコノエに嫌われてしまい、なんと彼の手により「見た目が美味しそうなチーズオムレツにしか見えなくなる」呪いをかけられてしまった。
当然、世間はカナコをオムレツとして扱うようになる。
呪いはあくまで幻覚の類であり、カナコはカナコのままだったが、道を歩けばゴミ箱に捨てられそうになり、認知症の母親には腕をガブリと噛まれ、お店でオムレツをお客さんに運べば「えっ、えっ」と怪訝な顔をされ――唯一自分をカナコとして認識してくれた、高校時代の元彼さえも最後には「お前と喋ってると嫁からおかしくなったと思われる」「腹減ってきた」とカナコをオムレツとして扱うようになった。
もはや誰も信じられなくなった彼女は、ついに店長のコノエに決闘を申し込む。
ここから先の展開についてはネタバレになるので触れないでおくが、なかなか熱い展開だった。特に認知症の母親が元彼の股間を蹴り上げるところなんて、CGなのに本物顔負けの迫力があって、もうたまらなかった。
ただ一つ、素人ながら文句を言わせてもらうならば、中盤のカナコが大ケガを負ってしまうシーンが気になるところだ。
というのも大量出血の様子が『ケチャップとマカロニが腕から流れてくる』映像で表現されているのだけど、これが実に気持ち悪かったのだ。
「直接的な表現ではなくてもグロく作れるのね」
とは水畑の感想である。
「多分、マカロニは血管なんだろうなあ」
「ならどうして犬に喰わせてたのかしら。訳がわからないわ」
「うーん」
確かに謎すぎる演出だ。頭のおかしい店長の飼い犬だから設定上はアリなのかもしれないけど、女性向き映画としては完璧にナシだし、そもそもオムレツの中にケチャップとマカロニが入っていることからしておかしい。一体何が目的で作られたシーンなんだろう。犬って人の血を舐めたりするのかな。
「あ、もしかしたら傷を舐めるシーンだったんじゃない?」
僕はひらめきをそのまま口にした。
「ワンちゃんがヒロインの傷を舐める。なるほど。そういうことかもしれないわね」
「きっと血管を食べていたのは撮影のミスだったんだよ」
「予定ではケチャップを舐めるくらいで済ませるつもりだったのかしら。でもワンちゃんは血管を拾って食べちゃった。いや、傷を舐めすぎたということのメタファーかも?」
真剣に考えている様子の水畑。
もっともこんなことはスタッフにでも聞かないかぎり答えが出るはずもなく、彼女の思考は堂々巡りの末に「ところで映画としてはどうだったかしら?」と別の質問にたどり着いた。
「まあ、全体的には面白い映画だったね。熱い戦闘シーンもあってさ!」
「私も同意見だわ。特にお母さんとオムライス星人の戦いは映画史に残るとさえ思うもの! まるで『パトリオット』で最後に主人公たちが伏せた時のような……あの滾りったら!」
彼女は珍しく語気を上げた。
その気持ちは僕にもよくわかる。どちらも良いシーンだった。
「あとはあれだね。カナコが店長をボコボコにするシーン! まさかピッチングマシンで延々とボールを頭にぶつけ続けるなんて、まるでVシネでも観てる気分だったよ!」
「そうね! ……何だか本当に女性向き映画なのか不安になってきたわ」
それについては僕もコクコクと頷くしかなかった。
ただパンフレットにはしっかり女性向きと書いてあったので、おそらく配給会社はそういう方針で売るつもりなのだろう。無茶だ。
× × ×
上映が終わった頃には、シネコン併設のショッピングセンターもすっかり暗くなってしまっていた。
中央の吹き抜け通路沿いに並ぶブティックや本屋はすっかり閉店してしまっており、ほんの少しの飲食店だけが店を開いている状況だ。
時刻は午後十時。高校生が外に出ていい時間帯は過ぎている。
だが水畑も僕もポップコーンだけでは全くお腹が膨れていなかった(というか僕なんかほとんど何も食べていない)。ゆえに僕たちは美味しそうな飲食店を探し求めて、トボトボと薄暗い通路を歩きまわることになる。
こういう時、気心の知れない女の子と一緒だと変に「どうしよう」と緊張してしまいそうなものだけど、水畑が相手だとそういうのはあまり感じなかった。気を遣わずに済むというか、適切に気を遣えるというか。
ほんの少しだけど、こういう関係も悪くないと思えた。
言うまでもなくこれは夜のデートでも何でもないし、僕と彼女は交際していない。
でもこうやって二人で映画を観たり、外に行ったりしていると、だんだん相手がかけがえのない人だと思えてきてしまう。
いかんいかん。よくない傾向だ。彼女の家で映画を観ていた時といい、少しずつ『そういう目』で見ている自分が怖くなってくる。
やっぱり内心で神笠さんに振られたのが響いているんだろうか。
いや振られたわけではないけど、江村と付き合っているのなら同じようなものだし、でもだからといって安易な心移りをするのも男としてどうなんだ。好きだと言われたから気になっちゃうなんて小学生レベルじゃないか。
もやもやしてたまらない。
「あのキスの効果はしっかり出ているみたいね」
「ふぇ!?」
メンテナンス中のエスカレーターに足を踏み出そうとしていた僕の襟首に、彼女の手が伸びてくる。またもや危なかったようだ。
「ふふ。私があなたの機微に気づかないとでも思って?」
「ど、どういうことさ」
「これから先、あなたはキスシーンを見るたびに私とのキスを思い出すことになるでしょうね。あるいは寝る前にヘンチクリンな妄想をする時だってそうなるかも」
「なっ!」
「そしてこうすれば――どうなるかしら」
段差に落ちかけていた僕の身体をギュッと抱き寄せる水畑。
コートの向こうで、彼女の胸が形を変える。
甘い吐息が、肩越しに伝わってくる。
あくまでも攻めの姿勢。否応なしに高鳴る鼓動。
「なるほどね」
僕は思わず「フッ」と変な笑みを漏らしてしまう。というか笑うしかなかった。
だってそうだろう。
もしこれが男女逆の話だったら、水畑は間違いなく捕まっているはずだ。
だけど彼女は女の子で、とても恵まれた容姿をしている。
仮に僕がしかるべきところへ訴え出たところでおそらく誰も聞き入れてくれないはずだ。
あまり使いたい表現ではないけど、もしエスカレートして無理やりなんてことがあっても、きっと彼女は社会的に裁かれない。
そして僕は悲しいことに健全な男子高校生なのだ。
もう、その時点で全ての勝敗は決していたのかもしれない。
「負けたよ」
彼女が言った通り、効果はしっかり出ていて、こうしてくっつかれるだけでもう、嬉しくてたまらなくなっていた。
「ふふ。何に?」
いたずらっぽく笑う水畑。
ただただ可愛らしく見えてしまうのは、きっと気の迷いのせいだ。
「ちょっと、来てくれるかな。水畑に話したいことがあるんだ」
ほんのり悔しさをにじませながら、僕は彼女に『誘い』をかけた。
× × ×
彼女を連れて人目につかない場所までやってくる。
具体的にはショッピングセンター特有のトイレ前にある小さなスペース。
ほとんどお客のいない時間帯なので蛍光灯は消されており、ライトだけが光っている。
何だか不思議な雰囲気だ。
「ま、万永くん!? その、こんなところではダメよ!」
「いやそういう気は無いから安心して。あんまりもじもじしないで」
「なら、何?」
「うーん。言葉にするのが難しいなあ」
僕は彼女の右肩に手を置き、左右に垂れる髪にほんのりと指を寄せる。
綺麗な髪だ。
黙ってこちらを見つめる双眸も、また美しい。
あの時、教室で泣き崩れる彼女を見ていなければ、こんな風に髪に触れる機会なんてなかっただろう。
「どんな形でもいいわ、あなたの思うことを話して」
きっとこんな期待の眼差しを向けられることもなかった。
お互いに好きな人は違っていたはずなのに、運命は変な回り方をしてしまう。
「何だろうね。多分、水畑の言うとおりなんだろうけど、でもやっぱり悔しいんだよ」
「悔しいの?」
「その、このままだと、水畑の嫌いなところをないがしろにしたまま、なし崩し的に好き同士になってしまいそうでさ。それってどうなんだろうって。身体の魅力に押しつぶされるなんてまるで動物並だと思うんだよね」
ぶっちゃけ今でもすごくドキドキしているけど、僕は水畑結子の全てが好きというわけではない。むしろこの一件でどうも合わない部分があるとあらためて痛感したくらいだ。人様に説教する趣味は無いけど、あんまり身体を安売りするのは良くないと思う。
対して水畑は、やけに真面目そうな顔をして、
「万永くんが私にいくらか不満を持っているのはわかっていたわ」
「あ! ごめん!」
僕はようやく酷いことを言ってしまったことに気づいた。
「いいのよ。でもね、万永くん。一つ言っておくと、別にあなたと同じになれと言われても絶対にお断りだけど、お互いにこれから少しずつわかりあうことは、きっと可能なのよ?」
彼女はそのまま語り続ける。
「私は映画を観ていてよく思うの。この世に完璧なカップルなんて存在しないわ。と言うよりも、存在しても気持ち悪いだけよ。あなたと私は違うのに、まるでパズルのピースのようにカッチリはめたいなんて、そんなの自分に足りない部分を補いたいだけじゃない」
「足りない性別を補完して自分を愛したいってこと?」
僕の質問に彼女は「変な言い方ね」と笑い、おもむろにこちらの手を握る。
細くて冷たい手だった。
「ほら。あなたと私の手はまるで形が違うわ。でもこうして合わせることができる。わかるでしょう。運命の相手なんていないのよ。だって私は他の人とも手を握れるから」
「よくわからないよ。水畑が何を言いたいのか」
「あなたは私の身体を。私はあなたの優しさを好きになったわ」
「だから?」
「別に発端はそんな程度でもいい。ただそこからでもいいから、私はあなたと二人で特別なこれからを積み重ねていきたいのよ」
「でも僕は」
「理想通りの相手でなくても、特別にはなれるの」
ほとんど半泣きの状態で抱きつかれた。
悲しいわけではなくて色々高ぶった結果なんだろう。
僕は彼女の腰に手をやる。
しかし、よくわからないけど、なるほどなあ。
彼女はすでに「好きになる」「恋人になる」ところを越えていたらしい。
どうも世の中のラブストーリーがそうだからか、好きになるまでの過程や付き合うまでのドラマに期待を寄せてしまいがちだけど、よくよく考えてみれば大多数のカップルの場合「その後」の方が長いはずなんだよね。
もちろん途中で切れてしまうことも多いはずだけど。
それにしても本当に重たい子だ。いや身体は軽いんだけど、心が。
まさか付き合う前から付き合った後のことを言われるとは思わなかった。
大体「二人で積み重ねていきたい」って、本当にちょっとでも好意がなかったらその時点でNGされそうなセリフだ。
ただ今の僕にはそれがある。本当にしょうもない好意だけど。
「わかった。水畑と付き合うよ」
あくまで軽めに告げる。
「本当に?」
胸にしっとり響く彼女の言葉。
「うん。一生懇意とはいかないかもしれないけど、水畑の言うように合わないところもわかりあえるかもしれないから。それにまあ。あとは水畑の作戦通り、ほんのちょっとの好意かな」
「くく。上手くいったわ!」
いかにも悪役然としたセリフだったが、水畑の目は若干赤くなっていた。女性を泣かせるなんて下の下のやることなのよ。そんな母の声が聞こえてきそうだ。
水畑は僕の胸から離れて、桃色のハンカチで鼻をかんだ。よくよく考えてみるとこんな状態になったハンカチを返してもらいたい子なんていないだろうな。
うーん。
何だろう。達成感が無いのは僕が告白された側だからさておき。
妙に実感が沸かない。
今までこんな経験がなかったからかもしれないけど、これでこの子と恋人になったと言われてもなあ。
そもそも恋人って何をするものなんだろう?
一緒に映画を観たり、一緒に遊びに行ったり、くっつかれたりなら、もうすでに済ませているし。キスだって無理やりされてしまった。
あとは何?
「あれ。恋人って何をやるもんなの?」
「ふふ。要するにハードルを下げるように言いたかったのよ」
汚いハンカチをポケットに仕舞い込んだ彼女の言葉が、もしかしたら真実なのかもしれない。
しかしそれにしても、水畑は良い笑顔をしていた。
あとは『こちらから』キスさえしてしまえば、ここで物語を終えられるかな。




