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1 胃袋を探しに

『ストマック・イン・ザ・サン』という映画を知っているだろうか。

 大まかなストーリーを説明すると、自分の胃袋を太陽に呑みこまれてしまった主人公が、己が食事行為を取り戻そうと奮闘する作品だ。

 上映時間の大半が太陽行きロケットの開発シーンに裂かれており、ジャンルとしてはサクセスストーリーに近い。あるいは終盤に主人公は性転換した挙句イケメンの博士と結婚までしてしまうのでシンデレラストーリーと言えないこともない。

 ともあれ、内容から品質に至るまで酷すぎるにも程がある映画であり、当然ながら日本国内では配給されなかった。

 僕と友人がこの作品にありつけたのも、ひとえに某社が日本語版DVDを発売してくれたからだ。ありがとう某社。調べたら二年前に潰れたことを知ってビックリしたよ。


「それにしても酷い映画だったね!」


 キッチンでお湯を沸かしている友人・水畑に、僕は率直な感想を告げる。

 すると、彼女は「乾杯しましょ」とソーサ付のティーカップをこちらに寄越してきた。

 お茶請けに小さなケーキを用意しているあたり、あらかじめ色々と準備してくれていたらしい。ありがたい。


「そうだね。愛すべきストマックに」

「偉大なストマックに」


 水畑と共にティーカップを傾ける。

 灰色ニットのセーターに黒髪を垂らした彼女は、いたって日本人然とした容貌の持ち主なのだが、不思議と乳白色のティーカップがよく似合っていた。細い指先とカップのリングがなんとも艶かしく絡み合っている。

 曰く手作りだという美味しいお茶請けに舌鼓を打ちつつ、僕は再び『ストマック・イン・ザ・サン』の話題を振る。


「しかし設定は別にしても、あの急展開はダメだったよね」

「そうね。いきなりヘンテコな群衆シーンが流れたと思いきや、語り部のオジサンが訳の分からない予言を始めて、挙句に『みんなで俺のホルモン焼きを食べよう』だもの」

「あのシーンは本当に酷かった。でもって、そんなアホな言葉で奮起するロケット開発陣の頭の悪さったら、もうね!」


 思い出しただけで語気が上がってしまう。


「ふふ。まあ、あのセリフ自体は翻訳家のセンスかもしれないけれど……そういう、いかにもお金をかけていない感じがまた味わい深いと思うわ」


 自前のケーキを口に含んで、わずかに口角を上げる水畑。

 味わい深いといえば、このケーキも相当なものだ。とても丁寧に作り込まれている。彼女が時間と手間をかけてくれたのだろう。


「ま、全体的には二時間返せって感じだったかな」


 僕は紅茶をすする。

 上映がすでに終わっているからこそ、こうして二人で粗探しをして楽しめるが、観ている間は本当に苦痛だった。

 少なくとも水畑が借りてきた映画でなければ開始数分で切っていたのは確実だ。

 二人で観たからこそ、話題にして楽しめた。

 僕たちは評論家ではなく、あくまで余暇を過ごすための映画鑑賞なのだから、それだけでも『ストマック・イン・ザ・サン』は役目を果たしたのかもしれない。


「そうかしら? 私にとってはあなたという友人のかけがえのなさを実感できる、とても貴重な二時間だったわよ」

「ああ。まあわかるよ。二人だからこそ楽しめたもんね」

「違うわ。万永くんだからこそよ。私にとってはあなたぐらいだもの、こんな映画を一緒に観てくれるような人は」


 頬を赤らめる水畑に、僕は「相変わらず重たいね……」とツッコミを入れる。

 対する彼女の反応はクッションによる小さな攻撃。

 要するに、本気で怒っていないということだ。



     × × ×     



 お互いが大の映画好きということもあり、また高校のクラスにおいて何度席替えを繰り返しても隣同士になってしまうという奇妙な縁も手伝って――今ではこうして家に招かれるまでになった僕こと万永浩志だが、別に水畑結子とお付き合いをしているわけではない。

 そもそも僕たちにはお互いに好きな人がいる。

 僕の方は未だ話しかけたこともないクラスメイト・神笠さん。クラスでも衆目を集めてこそいるが、あまりの美人オーラに話しかける男子は一人もいないという『高嶺の華』だ。二年前のとある事件から彼女の中に癒しを見出した僕は、それ以来ずっと片思いしている。

 水畑の方は二年前に振られてしまった同級生だ。水畑はこのことを今でもずるずると引きずっているようで、それが彼女特有の「重さ」に繋がっているのかもしれない。

 ともあれ、そうした理由から僕たちが交わることは決してない。たとえ距離が近くても、ベクトルが逆方向だから永遠に交差しないのだ。


「まあ、だいたい水畑も高嶺の華なんだけどね」

「高須と坂? 高須はもう引退しそうね」

「いや数少ない近鉄戦士は関係なくて。ところでさっきの映画、えーっと」

「もう忘れたの? ストマック・イン・ザ・サンよ」


 おどろおどろしいフォントのタイトルが目に入ってくる。予告編を流していたところを水畑がわざわざタイトル画面まで戻してくれた。


「ありがとう。これって邦題では『胃袋を探しに』になる予定だったみたいだね」

「なんだかキツネの親子が出てきそうなタイトルだわ。ごん、お前だったのか……」

「水畑、ごんぎつねはトラウマだからやめよう」

「ふふふ」


 イタズラっぽい笑みを浮かべる水畑はさておき、『ストマック・イン・ザ・サン』が日本でも配給される予定だったのは事実だ。

 だが主人公の名前でもあるストマックを単純に『胃袋』と訳してしまっているこの邦題は、ぶっちゃけ日本の配給会社の担当者がこの映画を最後まで観ていないことの証でもあった。

 なぜなら、


「しかし妙な邦題ね。胃袋を探すなんて、開始三十分で諦めてしまうことなのに」

「たぶん担当の人がそこに至るまでに諦めちゃったんだよ」


 僕は想像する。

 おそらく当時の担当者がこの映画を切ったのはペテン師がロケットの部品を口から吐き出すシーンだ。四分くらい彼の吐瀉物から電子部品を探すシーンが続くのだが、これが気持ち悪いならともかく別にそうでもないため、単純に退屈で仕方がないのである。

 こうして思い返すと本当にアレな映画だったなあ。

 ウワサに聞こえるエド・ウッド作品とタメを張れるんじゃないだろうか。


「でも、もしそんなタイトルだったら、お客さんを少し困惑させてしまいそうね」


 口元に手を当て、水畑は目線を泳がせる。


「どうして?」

「胃袋を探しに――だと、恋愛映画みたいだわ」

「そうかなあ」


 水畑のよくわからない感性に対し、僕はほぼ反射的に疑問をぶつける。

 あんなおどろおどろしいポスターがある時点でそんな勘違いは起きないと思うけどなあ。

 あれを見て恋愛映画だと勘違いするのはおそらくゾンビかグールだけだ。

 対して水畑は、さも当たり前かのように説明を始める。


「だって、胃袋ってご飯を流し込むところじゃない。それを探すということは、要するに旦那さんを探すということなんじゃないかしら?」

「まあ、手料理で胃袋を掴めとかよく言うもんね」


 わからない話ではなかった。

 わからない着眼点ではあるけど。


「手料理……今日のケーキはどうだった? まずいところとかあったかしら?」

「いや、超美味しかったよ。これなら江村くんの心もガッチリ掴めるんじゃないかな」


 何となく予防線を張っておく。

 江村とは彼女が未だに未練を残している同級生のことだ。

 たしかサッカー部のフォワードだったか、ラグビー部のウィングだったか。さほど興味がないので覚えていない。


「エムくんね……」


 水畑は一転して複雑そうな笑みを浮かべる。

 不思議なもので、水畑は振られたにも関わらず江村に仲良くしてもらっていた。まあ単に同じクラスだからだと思うけど、前に遊びに誘われたとか言っていたから、まんざら脈がないわけでもないようだ。

 でも、それなら二年前に振ったのはなぜだろう。クラスでも上位カーストの人たちの考えることはよくわからない。


「あ、なら万永くんもやってみる?」

「へっ、何を?」

「料理に決まってるじゃない。あなたも神笠ちゃんにアプローチしてみるべきだわ。これからは料理のできる男子がモテるって言われてるのよ」


 水畑はソファから立ち上がり、テレビの横に置いてあった料理雑誌『キャベツ列島』をこちらに渡してくる。

 この雑誌、今月号のテーマは「デキる女子のスイーツ特集」らしく、先ほど頂いたお茶請けのケーキもレシピの中に写真付きで載せられていた。

 煽り文はズバリ『ブリティッシュに男子をオトそう』。

 どう見てもフランスのケーキなのにイギリスなのは僕にもよくわからない。

 それに、


「男子をオトすつもりはないんだよなあ」

「あら、ごめんなさい。そのページじゃなくてもっと奥の方よ。巻末に男の魚料理特集があるでしょう」


 水畑にソファの後ろからペラペラとページをめくられる。

 ちょっと顔が赤いのは、多分僕にお茶請けのレシピを見られたからだろう。ページの端に描かれたセシル・ローズの似顔絵が笑っていた。



     × × ×     



 少し昔話を挟ませていただきたい。

 あれは二年前のことだった。

 高校に入学して、そろそろ新生活にも慣れてきた頃。その慣れが仇となったのか、僕は教室に大きな忘れ物をしてしまった。具体的には通学カバンだ。

 道理で身軽な帰り道だった。

 そんな事情で夕方の教室まで戻ってきた当時の僕は、そこで思わぬ事件に出くわした。


「……あれは、女子のいじめ?」


 見れば、グチャグチャに泣いている女子生徒を三人の女子生徒が囲んでいる。

 しかし険悪な雰囲気は感じられなかった。むしろ慰めているような言葉が漏れ伝わってきたくらいだ。

 まあ、どちらにしろ中に入りづらいことに変わりはない。


「うわーん! エムくん酷いよーっ!」

「よしよし、とりあえずそのハンカチはあげるからね」

「ありがとーっ!」


 桃色のハンカチで涙を拭いていたのは当時の水畑結子だった。

 鼻筋が通っていて、細身で、どちらかといえば綺麗な印象の強い彼女が、人目も憚らずベチャクソに泣いていた。

 よほどショックだったのだろう。

 ちなみに何のためらいもなく彼女にハンカチを譲ったのは僕の想い人・神笠さんだ。

 当時から優しい人だった。


「ねえ水ちゃん、江村くんは多分他の人が好きなんだよ」

「えっ、他の人?」

「だから諦めようね。水ちゃんなら、きっといい人がいるはずだから」


 神笠さんが天使のように柔和な微笑みで水畑を慰める。背景の夕焼けも相まって、彼女は果てしなく魅力的に見えた。

 おそらく僕が恋に落ちたのはこの瞬間だ。

 だがそんな彼女の慰めに、水畑はさらなる号泣で応えた。


「……なんで、そんな、だったらなんで優しくしたの! 好きじゃないなら、あんなに優しくしないでよ! エムくんのバカーッ!」


 その姿はもはや駄々をこねる子供だった。

 あまりの恥さらしっぷりにビックリした僕は、それ以上の醜態を見ていられず、そそくさと当時の教室を後にした。だが何となく水畑のその後が気になり――その気持ちが次の日、彼女への初めての「おはよう」に繋がることになる。



     × × ×     



 あれから二年。

 僕はなぜか水畑の家で料理をしていた。


「そうそう。皮と身の間に包丁を入れるのよ」

「ほいほい」


 水畑家のキッチンは対面式であり、わざわざ隣に立たなくてもリビングから調理の指示ができる。

 この設計は夕食を作りながら子供を見ていられるというのが一番のウリだそうだ。


「違うわ、そのままだと骨が取れないの」

「ええ! なかなか難しいなあ」


 しかし水畑はエプロン姿で僕の隣に立ち、こちらのやることにあれこれと注文を付けてくる。長い髪を後ろでまとめていて、何だか所帯じみていた。若干新鮮ではあるが不思議な気分だ。

 不思議といえば、僕は今のところ水畑家で『鮭の南蛮漬け』を作っているわけだけど、どういうわけかあらかじめ良い具合の材料が冷蔵庫に用意されていた。

 おそらく最初から僕に作らせる、あるいは彼女が自分で作るつもりだったのだろう。そうでなければ夕食の材料を流用させてもらったことになる。それは少し申し訳ない。


「うわあ、手がベトベトだよ」

「ふふ。さっきのゲロまみれのシーンを思い出すわ」

「はははは……お水、使わせてもらうね」


 まあ経緯はさておき、二人で料理をするというのは意外と楽しいもので、僕らの間には自然と笑みがこぼれていた。

 こんな感じなら、たまには母さんの料理を手伝うのもアリかもしれない。


「あとはさっき作った具材入りのお酢に浸すだけよ」

「やっとこさだね」

「二人がかりだったから手早くやれたじゃない」


 かくして、我が愛しの神笠さんに向けられた恋の弾丸『鮭の南蛮漬け』は完成していった。

 なぜ完成したと言い切らないのかと言えば、単純にこの料理はある程度「漬ける」必要があるからだ。

 からりと揚がった鮭の切り身は、甘酢に浸すことで独特の味わいを醸し出すようになる。その味覚を楽しめるようになるのはおよそ明日の朝頃。

 つまりクラスメイトである神笠さんに手渡すにはピッタリの頃合いだった。


「あーでも神笠さん、これ受け取ってくれるかな。誰にでも優しい子だから拒否してこないとは思いたいけど、でも何だかんだで一度も話したことないからなあ……おっぱい大きいし……」

「なら、勇気の出る映画でも観ましょうか」


 一通りの洗い物を終えたところで、水畑はおもむろに『大脱走』の名を挙げた。

 言うまでもなくB級洋画以下の『ストマック・イン・ザ・サン』とは比べものにもならない往年の大名作だ。

 監督はジョン・スタージェス。他に『荒野の七人』を撮っている。

 僕としても特に異論はなかったので、さっそくリビングのテレビで観せてもらおうと思ったが、よくよく考えてみると時刻はすでに九時を越えており、このまま約三時間もの大作を鑑賞してしまえば当然のように家に帰れなくなってしまう。


「……終電、行っちゃうね」

「あら大丈夫よ。だって私の家には『大脱走』の他にも『ビッグ・フィッシュ』に『ウォルター少年と夏の休日』や『捜索者』といった大作映画のDVDが目白押しだもの。絶対に退屈はさせないわ」

「すでに泊めるつもりマンマンなのが男前すぎて逆に惚れそうだよ!」


 とはいえ、さすがに付き合ってもいない女の子の家に泊まるわけにはいかないため、ここらで僕はおさらばさせていただくことにした。

 学校帰りに訪れてから約五時間。よくもまあ二人きりで過ごしたものだ。


「どうぞ、あげるわ」


 二人で作った南蛮漬けは全てアルミのパッドに入れてもらい、あとなぜかお土産に水畑コレクションから『恋しくて』のブルーレイを貸してもらう。


「ああこれ、ヒロインのワッツが超可愛いんだよね」

「ふふ。やっぱりあなたとは気が合うわね」


 彼女は「久々に観ると新しい発見があるわよ」とブルーレイをこちらのカバンに入れてきた。

 僕としても特に断る理由はない。それよりも、


「ところで南蛮漬けのことだけど」

「ん?」


 マンションの出入口で首をかしげる水畑。ジェスチャーがあざとい。


「いや、水畑は江村くんに渡さなくていいのかなって」

「ふふ。なるほど、そういう手もあったわね。まるで盲点だったわ」

「だろだろ。今からでもいいから取り分けようか?」

「いえ、結構よ」


 水畑はクスリと苦笑いし、「仮に私たちが二人とも同じものを持っていったら確実に変な疑いをかけられるけど、それでもいいのかしら?」と付け加えた。

 それは……困るなあ。


「なら、あなたは何も考えずにそれを彼女に渡すことね」

「わかった。ありがとう水畑」


 僕がそう言うと、ロビーに立つ彼女は珍しく満面の笑みを浮かべた。



     × × ×     



 翌朝。

 木枯らしが吹く中、僕は小さな弁当箱と共に学校付近の神社を訪れていた。

 すっかり味の染み込んだ鮭の南蛮漬けは、試食してみたところ箸が止まらなくなり、当初のおよそ半分くらいまで減ってしまっている。

 女の子一人が食べる分にはちょうどいいくらいだろう。

 僕はチャリン、と五円玉を賽銭箱に入れた。


「願わくば、この鮭を食べてくれる方と――ずっと懇意になれますように!」


 もちろん二拝二拍手一拝と日頃の感謝を忘れずに。礼儀作法は大切だ。

 ちなみに『神様にお願いする時は自分の姓名をしっかり名乗っておくべき』だという説があり、僕もそれに乗っかって『河内国交野郡枚方宿の万永浩志です!』と心の中で名乗っていたりする。

 ただメインのお願いだけはしっかり声に出しておいた。これは気合の問題だ。


「あらあら、懇意ってなぁに?」

「!?」


 まさか他に誰かがいたとは知らず、幻聴かと考えて振り返ってみると、とても大きなおっぱい、否。神笠未来さんが立っていた。

 神笠さんはいわゆるトランジスタ・グラマーというやつだ。身体は小柄だがスタイルが非常に肉感的である。もちろん太っているわけではなく、出るところがしっかり出ている感じ。それはコートの上からでも実に分かりやすい。


「そう、トランジスタなんだ……」

「トランジスタ? どうしたの急にぃ?」


 桃色のマフラーで口元を隠しつつも、親しみ深い態度を絶やさない神笠さん。

 やっぱり超可愛い。すごく女の子っぽい。


「ううん、こっちの話だよ」

「そうなんだ。あ、トランジスタといえば、旧東側で集積回路を作れたのはソ連と東ドイツだけだったらしいねぇ。えーっと、んと、ナントカくん!」

「万永だね」


 お互いの白い息が、鎮守の森に霧散していく。

 とりあえず、神笠さんに名前を覚えられていないという事実は飲みこんでおいた。

 一応、同じクラスなんだけどなあ。

 だが僕は諦めない。ここからでも物語を始めてやる。

 まずは、この『鮭の南蛮漬け』で餌付けからスタートだ。


「あ、そうそう。ところで私に用事ってなぁに?」

「へ?」

「用事だよぉ。なんか水ちゃんが神社に私を待っている人がいるって言ってたから、ああ水ちゃんって水畑結子のことね。あんな字だけどユイコじゃなくてユウコなんだよねぇ。ゆーこー♪ どんな格好がギブミーオール♪」


 いきなり村下孝蔵の名曲「ゆうこ」っぽいものを歌いだす神笠さんはともかく。

 なるほど、よくよく考えてみれば、こんな朝っぱらから偶然にも彼女と出会うはずがないのだ。すなわち第三者というか水畑の差し金でこの子はこの神社までやってきたということ。そういえば以前、水畑にはテスト前とか勝負の時には必ず神社に行くと言った覚えがある。

 しかし、何のためにそんなことを?

 単純に僕に協力してくれていると考えるべきなのか?

 黒いコートを着て、こちらに意味ありげな目線を向ける水畑の姿が脳裏に浮かぶ。

 時間から考えて今は制服だろうけど、僕にとっての彼女のイメージはあれと灰色のセーターだ。あと見せブラ。


「えーと、ナントカくん?」

「万永だよ。そうだね、用事といえば用事なんだけどさ」

「うん?」


 ともあれ、目の前に神笠さんがいるのだから、今はこのチャンスに全力投球するべきだ。

 僕は近鉄百貨店の紙袋から小さな弁当箱を取り出した。


「これ! 受け取ってください!」

「お、お弁当かな?」

「はい! 鮭の南蛮漬けです! すごく、美味しいので、お裾分けしたいと!」


 やばい、とてつもなく緊張している。

 おかげで言葉は飛び飛び、あらかじめ考えていた渡し方とか、まるで役に立たなかった。

 本当はもっと格好つけるつもりだったのに。


「へえ、鮭なんだぁ」

「はい! どうぞ差しあげます!」


 神笠さんは受け取ってくれるだろうか。

 僕の心臓がドクトクと生々しい音を鳴らす。緊張の一瞬だ。


「あー……えっとね、えっとね」

「はい!」

「そのね、あの」


 彼女はいくらか言い淀んだ後、


「ごめんね。私、お魚、食べられないの!」


 至極申し訳なさそうに、こちらに頭を下げてきた。

 曰く、昔からとても苦手らしい。小さい頃に無理やり食べさせられたのがトラウマになっていて、克服しようにも口に入れただけで吐いてしまうのだとか。

 おかげで魚介系のラーメンも食べられず、苦労しているそうだ。


「あの、もしよければだけど、ナントカくんさえよければ、別のものなら。例えば鯨肉の南蛮漬けならイケると思うから、その」

「ごめん、ちょっと用事あるんで!」

「はうぇえ!?」


 なるほど、そういうことだったか。

 全くあいつは本当に酷いことをしてくれる。

 僕は一心不乱に駆け出した。向かう先はもちろんあのマンションだ。



     × × ×     



『恋しくて』という名作映画を知っているだろうか。

 大まかに説明すると、幼馴染ものの恋愛映画だ。

 小さい頃から主人公キースに恋をしていた幼馴染のワッツは、美人なアマンダにメロメロなキースを応援しつつも、内に秘めたる自分の想いを抑えきれないでいた。

 時には他の男と仲良くなる素振りを見せたりしてキースの嫉妬を誘おうとしたり、時にはキースにキスの練習と称して色仕掛けを使ってみたりと、普段の男勝りな印象からは考えられないようなことを次々と実行していく。

 当のキースは奔放なアマンダの動向にばかり注視していたが、鈍感な彼もやがて幼馴染の魅力に気づいていくことになる。もちろん、アメリカの映画だから当然のラストを迎える。

 めでたしめでたし。


「お前だけは許さないぞ、水畑!」

「あの名作映画を観ていながら、よくそんなことが言えるものね」


 登校前という時間だけに、僕が水畑を捕捉できたのは彼女がマンションから出てきたところだった。時計を見れば時刻は八時ちょうど。

 これから登校してギリギリセーフといったところだ。

 なので会話はおのずと歩きながらになってしまう。本当なら遅刻なんて気にせず責めるべきなのかもしれないが、水畑と二人で一緒に遅刻なんてしたら、それこそ噂の種になる。

 ちなみに水畑は制服の上から分厚いコートを羽織っていた。冷え症らしい。


「よくも、あんな奸計で! 彼女の好き嫌いくらい知ってただろ!」

「ええ知っていたわよ。いつもお昼はあの子と一緒なんだから」


 悪びれもせず舌を出す水畑。

 この女は全てわかっていたにも関わらず『南蛮漬け』を作らせたのだ。

 何のために? なんて、尋ねるほど僕もニブチンではない。

 薄々気づいていたことだから。


「別に良いじゃないの。これであなたには私しかいなくなったし、私にだって元々あなたしかいないのよ。きっと私たちはこうなるべきだったんだわ」

「お前、江村くんはどうしたんだよ」

「恋を忘れるのに一番良いのは新しい恋、違うかしら?」

「!?」


 ギュッと抱きつかれる。

 しかし負けてはいられない。やんわりと外していく。

 見れば、水畑はとても朗らかな表情をしていた。


「ふふ。いかにどうしても他に選択肢がないんだから無理よ。お互い、お互いしかいないもの」

「お互いしかって、別に僕はあの子に振られたわけじゃないよ!」

「あら、まだ諦めないの?」

「だって僕は、まだあの子と出会ったばかりじゃないか!」


 そうとも。まだ始まったばかりなんだ。

 ああして初めて会話してみて、神笠さんがとても素敵な人だとよくわかった。いつも遠くから眺めるだけだったのが、ずいぶんと進歩したものだ。

 だから僕はまた彼女と話がしたい。あの脈絡のない会話を続けてみたい。

 何よりもちゃんと名前を覚えてもらいたい。


「そう。なら、はっきり言ってあげましょうか」


 トトンと靴先を整える水畑。ローファーにコインが入っている。


「はっきりってなんだよ」

「ブラフよ」

「それははったりだよ」


 思わず素面でつっこんでしまう。

 すると彼女は、


「ふふ。ふふふ。あの子ね、実は七年前からエムくんとお付き合いしてるらしいの」

「えっ」


 グイッ。

 おもむろに襟首をつかまれたので、何事かと思いきや、横断歩道の信号が赤になっていた。

 目の前を大きなタンクローリーが通る。

 危なかった?


「私も知ったのはごく最近だけど、まあ聞いてもどうでもいいと思えたわ」


 彼女が身を寄せてくる。だってあなたがいるから、と囁きつつ。

 僕は何も言い返せなかった。


「でも、あなたにそんな事実を告げるのは心苦しかった。きっと大きなショックを受けるはずだもの。あえて端から教えてあげて、そこに付け込むのもアリかもしれないけれど、あなたが悲しむのは私も悲しいわ」

「……だから鮭の南蛮漬けをきっかけに諦めさせようとしたの?」

「私はあなたが好きなんだもの。大好きなの。ただそれだけなのよ」


 ほっぺを赤くして、白い息を漏らす彼女。

 よく見るとマフラーも白色だった。オーバーニーソックスも白色。

 ただし、髪の毛とコートはいつもの黒である。

 信号が青になった。空もまた青い。

 僕はその青から少しだけ力を借りることにする。何のための力なのかは言うまでもない。どうすれば僕の気持ちを伝えられるか、考えるための力にするのだ。


「……つまり、水畑は僕のことが好きだから、君なりに優しくしたんだね」

「そうよ。大好きだから、優しくしたわ」


 またもや彼女はくっついてくる。


「なるほどね」

「当たり前のことだわ。あなただって……」

「じゃあ、好きじゃないのに優しくするのはいけないことなのかな?」

「え?」


 僕は彼女の両肩を抱いた。

 内心でずっと気になっていたことがあった。

 あの放課後。ボロボロに泣いていた彼女の、あの言葉。


『好きじゃないなら、優しくしないでよ』


 つまり彼女は優しさを好意の代償だと捉えている。

 それが裏切られたら号泣するくらい腹を立てる。

 そんな人とお付き合いなんて、僕はしたくない。

 わかった。これはきちんと言わなくちゃいけないことだ。


「はっきり言って、最初に君に声をかけたのは可哀想だったからだよ。別に僕が江村くんの代わりにとかそういうのじゃない。水畑が放課後の教室で泣いていたから、おはようと声をかけたんだ。きっかけはただそれだけなんだよ」

「あ、憐みだと言うの?」

「違うよ。いわば僕なりの優しさ、かな」


 信号がまた赤になる。


「――だから君が好きだから優しくしたわけじゃない。それは今も変わらないよ」

「…………」


 もしかすると、とても勿体ないことをしたかもしれない。

 なにせ水畑は高嶺の華。すごく綺麗な子だ。

 加えて、話も合えば気まで合う。

 何の文句のつけようがないはずだった。

 しかしながら、僕はどうしても受け容れられなかった。彼女の考え方を。

 きっと些細なことなのだと自分でも思う。だけど合わない部分があるのなら、仮に付き合っても結果は見えているはずだ。それに僕も初めてはやっぱり自分の好きな子がいい。

 言うまでもなく、彼女のために自分自身が我慢するなんてのは何の解決にもならない。

 だから僕も彼女に諦めてもらおうと思った。


「……ごめんね。本当にごめん」

「食べるわよ。絶対に食べてやるんだから」

「へっ?」


 バシッと腕を跳ね除けられる。

 さらに彼女はこちらの紙袋に手を伸ばし、そこから例の弁当箱を取り出した。

 もちろん中には『鮭の南蛮漬け』が入ったままだ。


「この南蛮漬け。神笠ちゃんに聞いたのだけれど、あなた、食べた人とずっと懇意になれるように神前でお祈りしていたんでしょう。あの子ったら笑ってたわよ。ちょっとマヌケで気に入ったぁとか電話で言ってたわ」

「へえ、そうなんだ」


 ほんのり嬉しいけど、彼氏持ちの子に気に入られてもなあ。複雑な気分だ。


「だから、私が食べるわね」

「あ、うん?」

「わからないの? それでお互いずっと懇意。一生一緒なのよ」

「!? そうは行かないよ!」


 危うく素手で食べられそうになった『鮭の南蛮漬け』をどうにかして奪い返す。

 取り合いの最中で水畑の身体を少し触りそうになったが、コートの上からでは嬉しいことも何もない。お互いに目を見合わせてしまって緊張はしたけれど。

 危険物を奪回したところで、ちょうど信号が青になった。

 このまま逃げてしまおう。

 僕は一目散に駆け出した。


「バッ、バカね! 自分で食べたら一生独り身なのよ!」

「くそっ、意外と速い!」


 向かう先はお互いに駅であり学校なので、追いかけっこは一本道だ。

 かくなる上は、ゴミ箱にでも捨ててしまおうかと思ったが、いかんせん今の水畑の雰囲気ではそのままでも食べてしまいかねなかった。僕も彼女のそんな姿は見たくない。同じ理由で下水道も却下。

 となれば、僕に残された方法はたった一つ。

 今からこれを食べてくれる素敵な人を――胃袋を探すしかない。

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