傘ないの?
「 傘ないの?」
「 え?」
突然過ぎる彼女の登場に、近すぎる彼女の顔に、生の声に、動揺しすぎて思考が停止した。
「 濡れてるよ!ねえ傘ないの?朝の子でしょ?傘あげるから早くほら!」
彼女は全開の窓から打ち込む雨に手を濡らしながら、ビニール傘を俺に差し出していた。
「 いや、いいです。俺そっからバス乗るから・・・」
反射でなんとか返事をしながら、はっと少し先のバス停に視線を向けると、案の定乗るはずだったバスがぷしゅーと気の抜ける音を立て走り出したところだった。
「 ああー、もしかしてあれだったの?」
残念そうな声が聞こえた。
視線を戻すと、傘の半分を窓から出したままバスを目で追う彼女の横顔が見えた。
彼女はすぐに俺の方を向いた。
「 ごめん!声かけなきゃ良かったね。ねえ濡れてるって!傘!」
俺は彼女と目が合っていることに気付いてしまって、再びパニクっていた。
後で考えたら、ここで傘を受け取るのが自然な流れだったのだ。
しかしその時の俺は何も考えられなくなっていたし、追い討ちをかけるように、彼女の車の後ろに威圧感が半端ない黒光りして馬鹿でかい高級車が並んだ。
「 ああ!後ろ待ってる、ねえ傘!」
彼女はなおも俺に傘を受け取らせようとするが、身動きしない俺に痺れをきらした。
「 とり合えず乗って!後ろ早く!車出せないからほら早く!」
彼女のあせった声にあせらされて意識とは無関係に身体が動いたんだろうか。
何故か俺は、彼女の小さな車の後部座席に乗り込んでしまっていた。
彼女は俺がドアを閉めるのと同時に車を発進させ道路に出た。
彼女の車の中は、うちの車とは違う匂いがした。芳香剤とかのきつい匂いじゃなくて、雨に濡れた髪からほのかに香るシャンプーの匂いのような。
後部座席で変態になっていた俺は、彼女の柔らかな声に自分を取り戻した。
「 どうしよ。男子高校生を拉致してしまった。ねえお兄ちゃん、警察に突き出したりはしないでね」
彼女にお兄ちゃんと呼ばれて慄いた。たしかさっきは朝の子って言われてた。朝の子って。縮めすぎだろ、しかも子。
「 え、いや、そんなことしないけど、俺、スミマセン。車びしょびしょだ」
片言になったが、なんとか答えられた。
「 おかあしゃんー。ねーねー。だれだっけー?」
不意に舌足らずな声が前方から聞こえた。
彼女が助手席にチラリと顔をむける。
「 この前幼稚園に行くときにバイバイしたお兄ちゃんだよ。学校でお勉強してた、おっきいお兄ちゃん。覚えてる?」
「 ああしょーねー。しってる。おっきいおにいちゃんとちーしゃいおにいちゃんいたねえ、きのう」
「 昨日じゃないけどね。小さいおにいちゃんは椅子に座ってたんだよ。あのお兄ちゃんも大きいお兄ちゃんだったんだよ?椅子の小さいお兄ちゃんが今後ろにいるお兄ちゃんね。でもおっきいお兄ちゃんでしょ?」
すごく難解な説明だ。理解できるんだろうか。
子供は返事をしない。分かったのか分かってないのか不明だ。
「 なんでぼくのくるまにのったのー?」
そうだねえ。なんでかなあ。
「 お兄ちゃんが雨でびしょ濡れだったから助けたんだよ。ドクターヘリみたいにね」
いきなりドクターヘリ。雨の災害の時に活躍するのは違うヘリじゃないかと思うけど。
「 ええー!ぼくのくるまどくたーへりーー!?」
「 しょうしょう。どくたーへりー。僕の車じゃなくてお母さんの車だけどね。それに、お母さんのせいでびしょ濡れなんだけどね、お兄ちゃん」
一部彼女に子供の言葉が伝染している。聞いてるだけで俺もうつりそうだ。
子供との会話がひと段落したのか、彼女が俺に言ってるとわかるトーンで話しかけて来た。
「 ねえお兄ちゃん。家遠いの?そんなに遠くなかったら無駄に濡らしちゃったおわびに送るけど」
「 え」
突然の申し出に俺は再びフリーズした。
「 遠い?ていうか取り敢えずどっち?こっちでいいの?バスこっち向きだったけど」
「 え、いやえっと、こっちで良いですけど、いいです。俺、電車でも帰れるし、バスもしばらく待てばまた来るし、あ、考えなしに乗っちゃってスイマセン!降ります俺!」
彼女の車に乗ってしまった間抜けさに今更気付いて焦った。
「 ええー。せっかく乗ったんだから、どっかまで送るよ。駅かバス停か・・・。ああーバス停に送っちゃ意味ないか。バス追いかけてるもんね今。ねえ家までどのくらいなの?何分?何時間?」
「 いや、そんなには。車なら20分くらいだと思うけど」
「 なーんだ。じゃあ行こう。ねえどっち?あたし道あんまり知らないから道案内してね。太朗、お兄ちゃんをお家に運びまーす。おーけい?」
「 おーけーい!れっちゅれっちゅごーごー!」
子供が小さいぐーを頭上に突き上げた。
子供は可愛かったけど、間違いなく別の理由で物凄くバクバクしていた。
まじで。俺まじでこの人に送ってもらうの?俺どうしたらいいんだ。
「 ねえ太朗。幼稚園バッグからタオル出してお兄ちゃんに貸してあげて。お兄ちゃん風邪ひくから」
「 はーい」
チャイルドシートに座った子供が頭を下げてごそごそやり出した。
「 あ!いいです。俺タオル持ってんだった」
水着と一緒に袋に突っ込んでいたタオルを慌てて引っ張り出した。
「 あそう?太朗いいって。お兄ちゃんタオル持ってきてるんだって。ありがと」
「 はーい」
子供に向けてありがとうと言う彼女と、素直に返事をする気の良いちいさい息子に、少しだけ居たたまれなさを感じた。




