運命線幸福行き
ガタンゴトン
身体を包む心地よい振動に、私は夢から目覚めた。
目の前、手を伸ばしても届かない距離に、遠くを見つめる女性の顔と、目を閉じ眠っている男性の顔があった。
何故だか私は、無性に泣きたくなり……近くに居る女性に、手を伸ばした。
そんな私に気付いたのか女性は私に笑いかけて。
そしてようやく私は自分が赤ん坊で、この二人が両親だということに気付いた。
手を繋いで座りながら、私はぼんやりと窓の外の景色を見る。
私の気分を映すような曇天の空は見ていて楽しいものではなかった。
私が向かっているのは幼稚園。人見知りが激しい私は誰とも話すことができないままに一日を終える。そんな時間を浪費する場所に向かうのに楽しい気分になれる人間がいるだろうか?
私と付き添いに来たお母さん以外誰もいない電車の中で、私はいつしか外の景色を見ることを止めた。
背中に背負った真新しいランドセルの重さに俯き、私は本を読み続ける。
ファンタジー、ミステリー、SF、ラブストーリー。
私はどうやら読書の才能があったらしく、どんな陳腐な物語にも馬鹿らしい話にも感情移入することができた。
それは本当に才能と言えるかはわからないが、それでも通学中の電車内での有り余った時間を潰せる手段を持っていたことだけは確かだった。
膝に乗せた、重さの無い鞄から本を取り出した。
文字を追いかけるのは楽しかった。それはきっと紛れも無い本音だった。
だからこそ私は本を読み続ける。
今まで私以外誰もいなかった電車の中に乗っては降りてゆく人達を見ることも無く、ただ文字だけを追い続けていた。
ふと、読みかけの本から隣に座っている人へと視線を移した。
いつからかは知らないが、どうやら長く私の横に座っていたらしい男の子。
私と同じ高校の制服を身に纏い、楽しげに窓の外を見ていた。
何故だろうか、その笑顔に無性に腹が立った私は、その男の子を無視するように再び本へと視線を落とそうとして――腕を掴まれ、身を竦めた。
再び視線を向けた男の子の顔は先ほどまでとは少し違い、悲しい笑顔だった。
なんでそんな顔をしているの? そんな私の問い掛けに答えることなく男の子は、私に窓の外を見るように促した。
そうして、しぶしぶ顔を窓に向け。
そこに映る景色に、心を奪われた。
太陽に照らされた山の木々はざわめき、きらきらと光る海 が目を刺す。
思わず身を乗り出してしまった。
知らなかった、世界がこんなにも色づいていたなんて。
知らなかった、世界がこんなにも綺麗だったなんて。
本を投げ出して、身を乗り出して、涙を流して。
嬉しそうに微笑む男の子の横で、私は窓の外の世界を見続けていた。
その時から、世界は一変した。
身を乗り出して望む世界は様々な色を私に見せつけてくれた。
果てしなく変わってゆく世界は私を飽きさせることはなく、私は心行くまで景色を堪能した。
相変わらず私の隣で笑っている男の子にお礼を言おうと、窓に映る景色から目を離した。
電車の中には、私と男の子以外の人が居なかった。
もう会えない両親の姿を、私は思い出す事ができなかった。
笑えるほどに当たり前だった。
何故なら私はずっと本ばかり読んでいたからだ。両親の事すら見ていなかったからだ。
パタパタと窓を叩く雨の音が静かな車内に響く。
そっと、手を握られた。
男の子だった。いつも浮かべていた笑みを浮かべることなく、ただ真っ直ぐに私を見つめる男の子だった。
私は思わずその手を払う。
それでも私の手を握ろうとしてくる男の子を、力いっぱい突き飛ばす。
触れて欲しくなかった、見て欲しくなかった。何も見ようとしなかった私が誰かに見て貰っていいはずが無いなんて叫びながら、開いた電車のドアの外へ、男の子を押し出す。
本当はただ傷付く事を恐れて、 また一人になろうとしているだけだったけれど。
そんな私を肯定するように、電車のドアが閉まり。
――ドアに手をねじ込んで無理やりに開けて、男の子が乗り込んできた。
目を見開く私を男の子は、普段の温和そうな見た目から想像がつかないほどの強さで抱きしめた。
叩きつける雨音と二人の息遣いだけが響く電車の中、ただ男の子の体温だけが妙な現実さを持っている。
その暖かさを突き放す事すらできない私に、男の子はただ一言一緒に居たいと言ってくれた。
ゆっくりと動き出す電車。男の子にすがり付いて泣く私の耳に、ずいぶんと弱まった雨音だけが聞こえていた。
私達は二人で並んで座っていた。
あれからどれだけの時間がたっただろうか。
雨雲は既に遠く、窓からはかつて私が魅せられた光景が見えていた。
男の子が、ふと隣に座っていいですかと聞いてきた。もう既に座っている人の言葉じゃないと私は笑った。
そして、二人で窓の外の景色を眺める。
その風景から目を逸らさずに、男の子は終点まで一緒に居てもいいですかと照れたように、それでいて真剣な顔で私の手を握った。
私はそっと、頷いた。
それからの時間は決して平坦なものではなかった。
ささいな事で喧嘩をして、仲直りをして。
子供が生まれた時は二人してへとへとになるほど子守が辛く、私のときもそうだったのかなと両親のことを思い出して泣いては慰められて。
子供が大きくなっていくにつれて数え切れないほどの数の問題が出てきて、それでも私達は同じ電車の中、寄り添っていた。
そうして、終点を告げるアナウンスが流れた。
身体を包む心地よい振動に、私は夢から目覚めた。
ぼやけた視界に映るのは、泣きそうな顔をして私の身体を揺する娘、義理の息子の腕に抱きかかえられ泣いている孫、そしてじっと私を見つめている、夫。
……そう、夢だ。私がいままで見ていたのは夢。
走馬灯とはちょっと違う、けれど多分似たような物だろうか。
こうして人生を振り返ってみると、どうも遣り残したことが多い事に気付く。
まったく私って人間は、と苦笑しようとし、娘に再び身体を揺すられて落ちかけていた意識が戻る。
どうやら、もうお迎えの時間が来たようだ。猛烈な眠気に瞼が下がり、涙を流す娘の姿に少しだけ胸が痛んだ。
家族に囲まれて逝けるのは嬉しく、家族を遺して逝ってしまうの は悔しかった。けれど、どうしても眠気に勝てそうにない。
もう娘達には言いたい事は言ってあった、だからもう思い残すことは……と、そこで一つだけ、思い出した。
夫に、今まで言っていなかった言葉。
重い瞼を無理やり開き、私を真っ直ぐに見ていてくれている夫へと口を開く。
後書き
初投稿となります。
書きたい、書くべき場面は多々あれど自分の力量ではこれが精一杯。
感想ご指摘批判批評などなど、よろしければお願いします。
最後に、ここまで見ていただきありがとうございました!