その名は、ベルマー
「おい、どうした!!? 何があった?!」
空気の震えに気付き、俺は放心状態から立ち直る。
自分でも、なにがあったかわからない。
ただわかるのは、ソレの血走った眼球から、どくどくと流れる鮮血が押し寄せてきていることだけだった。
初めて嗅ぐむせかえるような血のにおいに吐き気を催した。
「お、おい! 紅!! ……なんだ、そこにいたのか。どうしたんだ? いきなり叫ぶもんでビックリしたぞ。突っ立って何見てるんだ? って、おいッ!!」
ガルクスさんは、半分コになったソレを見つける。
「こりゃベルマーじゃないか! お前が殺ったのか? お前、どうやって……」
ベルマーという名前を聞いて、俺は少し正気を取り戻した。常識の通じない相手の正体がわかったことで安心したのかもしれない。
「そ、そこの鍬で……」
必死に逃げるのに邪魔で、片手に持った鍬を放り出したのだった。血飛沫がこびりついているので、事が終わった後に邪魔になって投げたと見えるかもしれない。
「ほ、ホントなのか? こんなデカいベルマーなんて、俺だって一人ならてこずるぞ! それを首からバッサリと……。信じられん」
俺だって、どうやってこうなったのか、整理がつかないんだ。最後に見えたのは綺麗な翠だったけど、あれからどうなったんだ。
魔法。その言葉が頭をよぎった。
「ベルマーは魔物だ。手練の奴でも一人で殺るのは骨が折れる。普通数人で協力して仕留めるんだ。それを一人で……いや、やめよう。とにかく取るもんとって家に帰るぞ」
まだ立ちすくんでいる俺を尻目に、ガルクスさんはそいつの犬歯を根元から鍬で叩き折ろうとしている。しかし、巨体故に、鍬の先の鉄をもってしても、犬歯は凶悪でせいぜい削れて溝が出来るだけだった。
しばらく格闘した後に無駄だと悟ったのか、ガルクスさんはソイツの尻尾を引きずり、左手で兜を持っていく。
俺もふらふらとガルクスさんの背中を追った。
***
ガルクスさんは、狼の巨体を血の足跡をつけながら引きずっていくと、家の玄関の前に立った。
「取り合えずだ。こいつのことはギルドに報告しなきゃならない。今まで被害に遭ったやつは聞いてないが、こんなのがその辺をうろついているなんて村中の騒ぎだ。俺がこの村に来てからも、こんな危ない奴なんて見つかったためしがない。紅がその鍬でコイツの首を掻き切った。それでいいか?」
本当は鍬で掻き切った記憶など全くないのだが、自分でも収拾がつかないので、そういうことにしてもらう。
「はい。よろしくお願いします」
ガルクスさんは家からぼろ布をとり出してくると、首と巨体をくるんで包んだ。
「じゃあ俺は急いでギルドに報告に行く。昼食は出来てるから、食欲があれば先に食べてろよ」
そう言うと、ガルクスさんはギルドへ足早に向かって行った。
俺はさっきの件で食欲など消え失せてしまったので、滑るように自分の家に潜り込んだ。
布団に飛び込み横になる。しばらく目を瞑ってひたすら現実逃避をする。布団にしみ込んだ太陽のにおいが香ってきて、少し楽になった。
(何だったんだ、あれ。ガルクスさんは気を遣ってか、ああいうことにしてくれたけど、本当に何だったんだ……)
考えても考えても、いきつく先は非現実的なものだった。
魔法。それ以外はどうしても思いつかなかった。
***
「おい、紅。寝てるのか? 入るぞ」
俺はいつの間にか寝てしまっていたようだ。
「悪いな、勝手に入って。やっぱり寝てたのか。まあ無理もないか。ところで少々厄介なことになった」
あれ以上厄介なこととは何だろう。
眠り眼をこじ開けると、ガルクスさんがすまなそうな顔をしているのが目に入った。
「案の定、あいつをギルドの連中に見せたら騒ぎになってな。騒ぎを聞きつけた村人達が、村のこともあるし、当事者のお前にどうしても話を聞きたいと言うんだ。付き合ってくれるか?」
なるほど、そういうことか。大分落ち着いたし仕様が無いから付き合おう。
「はい、わかりました……。ちょっと待っててください」
「おう、すまんな。俺もついて行くから先に待ってるぞ」
ガルクスさんが家から出ていくのを見届けると、素早く準備をして俺も向かうことにした。
***
「ですから、鍬でこう、跳びかかってくるベルマーに切りつけたんです。なぜか知りませんが、勢いがついて、気づいたときには首を両断していました」
俺は身振り手振りを添えて必死に説明する。
そう、俺は騒ぎを聞きつけて集まってきた村人たちに、ギルドのホールでベルマーを倒したときの状況を説明しているのだ。
皆は信じられないといった表情で耳を傾けている。
「でもよう。こいつは全くのなまくらだぜ? これであのデカいベルマーを両断なんぞ、それこそ達人の域だぞ?」
この人誰だっけか。
ああ、思いだした。ギルドデビューのときに絡んできたハンターだ。
「でも両断してしまったんです。武術とかの心得なんてないんですけど。自分でもまぐれで命拾いしたと思ってます」
非常に苦しい言い分だが、生憎と、あの時の真相を言葉にして説明できないのでこうするしかない。
「あれじゃないか? ビギナーズラックってやつ」
おそらく村人であろう男が言い放つ。
「バカを言え。ベルマーは手ごわい相手であんな巨体だぞ? しかも魔物だ。ビギナー云々で命が助かる訳は無いだろう」
ガルクスさんが咎めると、今度は皆黙ってしまった。ガルクスさんはこの村で一番の手練で、その意見に逆らうのは愚かだと思ったのだろう。
「それとだ。そもそもどうやって倒したかなんて二の次だろ? 問題はなんでこんな奴がこの村にいるのかってことだ。俺が来てからは一度もこんな危険なの見たことないぞ。俺が来る前はどうだったんだ?」
ガルクスさんが続けて発言すると、村人の中から一際歳を重ねた老人が口を開く。
「ここは昔から平穏な村じゃ。ワシは生まれてからずっとここに住んでおるが、あんな奴は初めて見たわい。逝っちまった祖父からも聞いたことは無い。そもそもこの前の……そう、イノシシの魔物じゃって見るのはたったの二度目じゃ。それも他の村の話だがの」
「じゃあなんだってか? 最近この辺で魔物が盛ってるってことか?」
しわが目立つ村人をまとめるリーダーのような男が発言する。
「それはわからない。だがしばらくは注意をした方がいいだろう。さすがにベルマー以上のはまず出ないと思うが、森に近付くときは十分用心してからだ」
ガルクスさんが警鐘を鳴らすと、そこでひとまず話がまとまる。
「それにこいつはこの一件で疲れてるんだ。寝てるところを起こしてわざわざここに来させた。もう、いいか?」
この後に二言三言交わすと、その場はお開きとなった。