魔法の練習
宿の自室(といっても相部屋だが)で、手を擦り合わせている俺の目の前には、「初級魔法便覧」というポケットサイズの本が置いてある。ディオン君と別れてからすぐ、ギルドに出向いて購入したものだ。キューはガルクスさん達に連れられて何処かに行ってしまった。
「どれどれ」
俺は胡坐をかいてそれを開いてみる。
ちなみに、なぜ初級魔法の便覧を買ったかというと、単純にそれしか売っていなかったからだ。それでも3000リルという結構良いお値段だった。
便覧といってもそんなに厚いものではなく、数cmくらいだ。
開くと、まず全属性に共通する魔法の概念の説明になっている。やはり、というべきか、教則のようなものではなくて、さし障りのない文章で概要が書かれているといった感じだ。
(やっぱり、体内の魔力、プラーナを使って魔法を行使するんだ)
ガルクスさん達が言っていた。そしてシルフィも言っていた。魔法は体内の魔力を消耗して発現すると。
でもやはりそれには納得できない。飛空魔法にせよ、ウィンドステップにせよ、どう考えても一度空気中に漂う粒々を体内に取り入れて、それを再度身体から放出させているのだ。
自分を納得させるために、危うく部屋中に満ちているであろう素子を使って魔力結晶を作りそうになった。しかし体がガタガタになってしまうのも怖いので、不満は本のページをめくることで忘れさせた。
次の項は、「魔法行使における疲弊」というものだった。これは少し気になったので、字面をじっくりと上から下へ追っていく。
「これもかよ」
つい俺は愚痴を漏らしてしまった。
これもやはりというべきか、魔法を何度か使った際、必ず程度の差はあれ心的・肉体的に疲労が蓄積するという。具体的に言うと、心的には拒絶感、肉体的には動悸などだそうだ。
しかし俺の場合はどうか。ぶっちゃけると、魔法を使うことで疲労を感じたことはほとんどない。あるとすれば、長い間集中し過ぎたときに感じる倦怠感くらいだ。飛空魔法を超絶な速度でぶっ放しても、顔に受けるキ゛モチイ゛イ゛風のせいで呼吸がままならなくなるだけである。
(やっぱり、異世界から来たことが少し影響してるのかな)
全く根拠は無いが、今のところ、この本の内容に言い訳できるのはそれくらいだ。
一旦パタンと本を閉じ、俺は休憩がてら1階へ飲み物を頼みに行った。
***
「ふい~」
ひんやりとした漆黒の焼き物に入った、香ばしい匂いがたつ茶をすする。1階の主人に喉が渇いたことを伝えると、主人はしわがれた顔を笑顔でくしゃりと歪ませて俺に淹れてくれたのだ。
ぐぐっと伸びをしてから勉強を再開する。勉強というより、こればかりは立派な仕事の一部といっていいかもしれない。
(どれどれ)
俺は茶をベッドの脇の台に置き、再び魔法の本を手に取る。
開くのはもちろん風の魔法だ。なんたって人間には1系統の属性しか使えないのだ。さすが(・・・)の俺でも複数の属性を使うのは無理というものだ。
初めに目についたのは、攻撃魔法についてだった。
「あれ、ウィンドスラッシュって言うんだ」
アレ、とは、ベルマーを一刀両断にしたカマイタチのことだ。正直思い出したくもないことだったが、目に入ったのだからしようがない。
ウィンドスラッシュ。初級に位置する風の攻撃魔法で、並の相手なら有効な傷を与えられるとある。威力は火の魔法に劣るが、相手へのダメージまでが素早いことが利点なのだそうだ。
(有効どころか)
いや、やめておこう。次だ次。
他にも攻撃魔法はあるようだったが、俺には用がないのでさっさと先のページに進む。
ぺらぺらとめくっていくと、防御魔法の欄に辿り着いた。
「げ、マジ?」
防御魔法は2つあった。ウィンドバックラー、そしてウィンドエディ。
だがどちらとも、いわゆる物理的な攻撃の防御は期待できないとある。
(むしろ物理的な攻撃以外って何なんだ? クィルンの捕食も物理、ベルマーの噛み付きも物理、ヴァルグも……)
あれだろうか。ドラゴンが吐く火炎とか、例えがアレだがテッポウウオの水鉄砲とか、そんな感じの攻撃なら防げるのか? そんなのむしろ稀だろう。
となると、風の防御魔法、少なくとも初級の範疇では物理攻撃を防げないとなる。これは問題だ。誰が俺の可憐な身体を守ってくれるのか。
俺は若干の不安を覚えながら、茶のことなどすっかり忘れて、しばらく魔法便覧を乱暴にめくっていたのだった。
***
私はシルフィード。ここしばらくは、スラハ村とかいう集落の近くで神なぞをやっていた。いや、勝手に神に祀られていたのだ。閉鎖的な、それでも悪くない森の中で、私は毎日のように己の存在について問い続けてきた。
が、今なら分かる。望月紅という青年にあの日、あそこで出会い、こうして賑やかな仲間と共に旅をしている今なら。私は自己を問い続ける一方で、どこか、幾重にも重なった自分の殻に閉じこもっていた。紅に出会わなかったら、私は今でも、あの森で己という殻に閉じ籠りきりだったろう。
紅は異世界人であると自分で言った。実は、私は彼に単に、私の知っている限りの狭い――ここらの国の人間ではないという意味で言ったのだが、青年は酷く私の前で取り乱していた。
紅には感謝をしている。例え私が自発的にあの森から出られたとして、慣習・礼節を知らない者が、こうして旅を続けるのは困難であっただろう。
ガルクスは立派な男だ。壮健で世話上手、そして以外に多才なのだ。私にはせいぜい剣を振りまわすことくらいしかできはしない。ガルクスのそれは到底真似はできないだろう。フィルドも年齢故に粗野なところは残るが、器量は良いし器も小さい訳ではない。将来は丸くなり、良い嫁になるだろう。私は仲間に恵まれているとみえる。
そして私を連れ出してくれた望月紅。彼の髪、瞳の漆黒は、私も見るのは初めてだった。千に一、いや万に一の魔法の素養を持ちながら、己の未熟さと至らなさに、腐らず目を向けている。それはクィルンの一件で良く分かった。鈍感と揶揄される私でも痛いほど分かった。彼、紅が命がけで身体を張っていなければ、今頃私たちは、肥えたカエルの肥やしになっていたのは想像に難くない。
……仲間についての感慨はこのくらいにしておこう。毎日が同じことの繰り返しであった森にいたころと比べ、つい最近の濃密な日々を感傷的に思ってしまうのだ。
私の唯一の心残り――というのは少しおかしくもあるが、いずれにせよ、私の旅の目的は、失われた自分の記憶の手掛かりを探すことだ。旅路で円滑にいくようハンター登録をし、そちらの方のやりがいがあり忘れてしまう事もあるが、記憶探しが当面の私の目的であることに違いは無い。
私は今、宿でガルクス達と別れ、このどこか懐かしいシュルツの都を散策している。紅の奴の腕が心配だが、私にできることは何もない。だからこうして足の運ぶままに古都を彷徨っている。頬から耳、そして髪をやわらかに撫でる風を感じながら、街の人々の賑やかな喧噪を耳にしていると、行き先の定まらない旅も、どこか悪くは無いという風に思ってくるものだ。
私にとっての旅はあてどもないものだ。記憶という探し物はあるものの、目下全くと言っていいほど手立てがない。目的地も無い。これはあてどもないと言っても過言ではないだろう。
今頃、紅はディオンに連れられて治療を終えただろうか。心的トラウマの克服はあいつなら自然とできるだろうが、肉の下の骨となると……。
「よ、ベッピンの嬢さん! ナプリッツェ食ってかねぇか!?」
いつの間にか、街の南部まで来てしまったようだ。ここらはこうした飲食物の店が並んでいる。
それにしても、この甘くて、それでいて甘美な匂いはなんだ?
「ナプ……なんだ?」
「ナプリッツェだぜ」
私は紅に押しつけられた小遣いをいくらか持っている。
「いくらだ?」
「1個300ノルだ!」
「くれ。4つ」
「おう毎度あり!」
私は、初めて見る少しまだ温かいナプリッツェをもらう。1200ノルを出したが1000ノルにまけてくれた。こいつは中々いい奴だ。
とろけそうな甘さのナプリッツェに私は夢中でかぶりつきながら、またあそこの店で買ってやろうかなどと呑気なことを考えていた。
***
(さすがに疲れた……)
俺は便覧を読みふけったあと、数時間もある魔法の練習に勤しんでいた。
便覧には、初級でも魅力的な魔法がたくさん載っていたが、俺が使える風の魔法で、しかも攻撃魔法でもないのに目立つものといったら一つしかなかった。
ウィンドスローである。
ご存知の通り、右手はほぼ完治したとはいえ、しばらくは安静にしていなければならない。一人でアンナコトをする分には困らないと思うが。
ではどうやってウィンドスローを使えばいいか。ぶっちゃけると、恋人の右手がダメなら左手でやろうぜという簡単な話なのだ。
「そうは言っても、左手の投擲はからっきしなんだよな」
俺は、右手こそ野球部に負けない自信があるくらい肩が強いが、その反面、左手は全くと言っていいほど力がない。具体的に言うと、右手がソフトボール投げで50mくらいいくのに対し、左手は20mちょっとという酷い有り様だ。
そこでご存知ウィンドステップの出番である。左手ではまともに物を投げるのに不安なので、ウィンドステップで助走をつけてモノをぶん投げる。並の速度では雀の涙ぐらいしか変わらないかもしれないが、時速数十キロでとばすとなると話は別だ。
だが、まずは、左でウィンドスローの感覚を十分に掴んでおかなければならない。命がけのクィルン討伐依頼のおかげで、短剣を投げつける瞬間に、素子が腕に優しく纏わりつく感覚を得た。やさしく、しなやかで、それにして力強く。腕で投げずに腕で投げろ。それは、あくまで自分の腕で投げながらも、風の粒子たちを纏ったもう1本の腕――サードアームで投げろという事なのだ。これは練習で培った感覚によるものがとても大きい。
その感覚を思い出しながら何度何度も練習を重ねた。それが報われてか、結構疲れたが、納得のいくフォームと感覚だけはモノにすることができた。あとは外に出てナイフを使って実践である。
あかね色の光が窓から差し込み始めたころ、1階の外から、帰りを知らせるガルクスさんとフィルドの声が聞こえてきた。




