森の捕食者クィルン-下
クィルンがもう一匹隠れていた。
木をつたうまではあくまで鈍重だったが、いざ地面にドシリと降り立つと、力強く後ろ脚で跳躍した。
ソイツが向かう先は。もちろん仲間のところだった。
(やばい、やばい、やばいッ!!)
わずか数十m先では、ガルクスさん達が最初の一匹と戦闘を繰り広げている。そのクィルンは、こちらを背にして満身創痍といった感じだが、問題はそこではなかった。
クィルンの巨体に隠れ、ガルクスさん達には、捕食に向かうもう一匹を視認できないのだ。
「キューいくよ!!!」
俺は高度を上げて、腰の短剣を引き抜き泉の方へ空中を疾走する。速度は今までで最高。降りつける滴が頬を次から次へと掠め、横目に映る景色は刻一刻と移り変わる。
間に合うか。
強襲するクィルンは、一度の跳躍で数mの間を詰める。ガルクスさん達へはおよそ十数m。対して俺は一呼吸遅れて......。
『ガルクスさァぁあああああああああああん』
陣形左のシルフィがこちらに気づくが、迫り来る捕食者は、もう、目の前だった。
間に合わない。
間に合わない、間に合わない、間に合わない。
「ァァアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!」
俺は、短剣を投げた。
短剣は翠の軌跡を描きながら、捕食者の背中に突き立った。
そして俺は地面に激突した。
グチャッ。
俺は時速数十キロの勢いで地面にめり込んだ。
それにしては、あまりにもあっけない音だった。
『紅ッ!!!!』
全身を強打した俺は、焼けるような苦痛にもんどり打った。
「うっぐッ……」
頭を強く打ったが、どうやら、かち割れたようではないらしい。
意識はある。
ガルクスさん達の怒号が、幾度となく生温かい耳から聞こえてくる。
目を閉じながら天を仰ぐ。
呼吸がままらない。ひィ、ひィと空気の塊が口からこぼれるだけ。やがて視界が真っ黒になり、息苦しさも、キーンという耳鳴りと共に、次第に消えていった。
(俺、死ぬの、かな)
暗闇は不思議と心地よかった。
どうせこれは夢なんだ。この世界のことだって、全部夢。このまま寝ても、新たな夢にめぐり合うだけ。
でも最後に一度だけ、家族に。
「おいッ! おいっ!!! 大丈夫か!」
自分の転がっている地面がビチャビチャビチャと音を立てると、次の瞬間、視界は激しく揺さぶられる。
手のひらに温もりを感じた。この声は聞いたことがあった。たしか……。
「げほッげほ!! けほ」
目を開けると、男、ガルクスさんの顔があった。血と汗と雨滴でぐちゃぐちゃになった顔で、必死に俺を抱きかかえてくれる。
俺は口で激しく息をする。
目線だけで横をゆっくりと確認すると、ちょうど、背を向けるクィルンの巨体が真っ赤な血だまりに転げるところだった。
***
「大丈夫なの?! 水の魔法使い、この村にいなかった!!?」
「おい紅、大丈夫か。ああ、動くな」
生温かい感触に違和感を覚え、そっと手を耳にやると、指の先には赤い血糊が付いていた。打った拍子に切れたらしい。
ガルクスさんはいない。何処かへ行ってしまった。おそらく助けを呼びに行ってくれたのだろう。
シルフィは淡々と応急処置を施してくれる。取り乱していたフィルドも、やがて自分にできることをし始めた。
(右腕、これ……)
全身が鉛のように重いが、右腕にはその感覚すらも感じられない。どうやら骨が、駄目になっているらしい。
「これ飲める?」
フィルドは右手に持ったものをすいっとこちらに差し出す。
それはなにかの植物が乾燥したような、長細い茶ばんだ容器だった。フィルドが腕を傾けることで、チャプンっと音がして、中に液体が入っていることを確認できた。
何かの薬だと思い、素直にフィルドに従いその中身を飲み干す。
「うげェ、なに、これ」
口に入れた途端、口中をとたんに萎むような渋さと苦さが襲った。一口目は思わず、液体を飲ませるために身体をこちらに傾けたフィルドに、口に含んだものをぶっと吹き出してしまった。
殴られるかと思ったが、顔をしかめるだけで何もなかった。
そして全部を飲み干す。口から垂れるシズクはシルフィが手で拭き取ってくれた。
「打ち身、傷の万能薬よ。じきに体が熱くなってくるわ」
フィルドの言う通り、すぐに胸のあたりが火照ってくる。胸から全身へとそれが波及したところで、唯一、何の反応もない右腕について聞いた。
「右腕、多分折れてると思うんだけど、治るかな?」
二人が難しい顔をしたとき、遠くから何人もの足音が聞こえてきた。
***
(あれ、ここ何処だろう)
上には灰色の天井が見える。
どうやら俺は寝転がっているらしい。ひんやりとして気持ちがいい。窓からは優しく陽がさし込み、鼻をそっと心地よい風が撫でる。
しばらくぼーっと天井を見つめる。
そうだ。
随分前に、この世界へと俺はやってきた。豊かな緑、綺麗な川辺、そして暖かい人の笑顔。これらは全て、スラハ村にやってきて肌で感じたことだ。今はたしか旅に出たような気がするが、それは昨日のことのように思い出されて。
これらを、この世界に来て俺に導いてくれたのは全てガルクスさんのおかげで……。
「あッ!!」
(そうだ、思い出した。ガルクスさん達と一緒にクィルンを倒しに来たんだった! そう、ここはドゥール村だ、あれから俺は……)
ガチャリ。
「失礼するよーと。ってうォ?!」
控えめに部屋に入ってきたのはガルクスさんだった。右手には、巨体に見合わぬバスケット。見ると、その中には色とりどりの果物が入れられている。
「ガルクスさん、ども」
「ドモって、意識戻ったのか! そうか、そうか。いやあ良かった……」
起き上がろうとする俺を手で制すると、ガルクスさんはここ最近の出来事について話してくれた。
どうやらクィルンの一件以降、俺は丸二日寝込んでいたらしい。ガルクスさん達が村人の応援を呼んだ後にすぐ、ぷつりと気を失ってそれっきりだったという。
「そりゃよかったです」
「良かったなんてもんじゃねぇよ! あのまま意識失ってそれっきりだと考えると、俺は一生、紅を依頼に誘い出したことを後悔していただろうよ。今日の朝も目覚めなかったのを見て、このまま寝た切りのお前の面倒を見ていくことも考えたくらいだ」
そんな大げさな、という声は俺の口から出ることはなかった。ガルクスさんは本気だった。それほど周りに心配をかけてしまった。それを考えると、軽口を口に出すことはできなかった。
心配お掛けしました、と礼を言うと、俺は思い出し気になったことを聞いてみた。
クィルンはもう一匹いた。泉近くの巨木の上にいた。そいつの背中に投げた短剣が吸い込まれるのは見たが、その後どうなったのだろうか。
「ガルクスさん、クィルンの方はどうなったんですか?」
「あ、クィルンか? えっとな……」
ガルクスさんは、事の顛末を順を追って説明してくれた。
もう一匹のクィルンが襲う前に、最初に発見したクィルンは、全員の奮闘により既に瀕死状態だった。そこでガルクスさん達は、迫り来るクィルンの仲間に気付いた。最初に気付いたのはシルフィだったが、時すでに遅し、一瞬のことだったがもうダメかと思ったそうだ。
そこで少し後ろから猛スピードでこちらへ向かってくる俺にも気付く。そしてほぼ同時に、俺は地面へと激突し、襲い来るクィルンも何故かふっと歩みを止める。
「本当に一瞬のことだった。俺たちは急いで2匹のクィルンを始末した。それから2匹目のクィルンを確認すると、背中から腹に、でっかい風穴が開いていた」
背中に開いた風穴。それはおそらく、空中から勢いをつけ、必死にあの短剣を投げたせいだろう。
だが、とガルクスさんは続ける。
「あれにはまだ続きがある。俺は、医者や水の魔法使いがいないか確認しにすぐに村に戻ったんで、これはフィルド達から聞いたんだがな」
ガルクスさんは告白する。
信じられないことに、クィルンは更にもう一匹いた。全部でクィルンは3匹いたことになる。発見にはキューが一役、いや二役買った。あの巨木の上になんともう一匹おり、キューはひとりで、傷つきながら必死の攻防を繰り広げていたそうだ。それにシルフィとフィルドの二人が気付き、急いで向かい、最後はフィルドのファイアーランプで火炙りにしたという。
(ああ、よかった。俺とキューも役に立てたみたいだな)
そうやってずっと話をしていたので、ガルクスさんが果物を剥き、それを食べながらお互いの労をねぎらったのだった。




