異世界へ
俺は望月紅。高校を卒業して、地元の国立大の人間科学部になんとか滑り込んだ大学1回生だ。元々人間科学系の勉強も興味があったし、父さんがその国立大の出身だから志望した。でも頭はあまり良くはなかったから、受験は結構苦労した。
その苦労が晴れて実を結んで無事に入学できた。入学に当たり、大学の近くに引っ越して一人暮らしをすることになった。これが大変。母さんが専業主婦で身の回りのことは何でもしてくれたから、ほとんどが初めての連続だった。自分で家事を一通りやってみることで、改めて母さんのありがたみが分かる。大体1カ月くらいは電話で色々聞いていた。
新しい生活になんとか慣れ始めた5月の初旬。川沿いの桜が全て葉桜になってしまった頃だ。当初は興味のあった大学の教養科目の講義中にボゥーっとすることが多くなった。初めは受験が終わって気が抜けたくらいにしか思わなかった。しかし、だんだんと「俺ってもしかして五月病……?」と思うようになった。詳しい症状は分からないが。そう自覚するようになってからは、あれこれと物事を考えるようになった。「自分はどうしたいのか?」、「どうなりたいのか?」と。
そして、入学して分かった事がある。それは個人の資質だ。講義が一緒だからよく話すようになったやつがいる。そいつはスポーツ万能でサークルでも期待の星、頭も切れて顔もイケメン。明るくて気さくだから好きだったが、平凡な自分からすれば、自分よりもはるかに順風満帆な人生を送るんだろうな、と思った。高校にもそういうのはいた。しかし、あいにくとここまでのやつは周りにはいなかった。心底羨ましいと思った。
そうしていると、途端に気が抜けた。前に考えついたいくつかの自分の理想も叶うかわからない。そして才能の無い自分よりも要領良く順調にやっていくやつはいくらでもいるのだ。
今とりかかろうとしている講義の復習だって、頭の切れるあいつだったらしなくてもいいのだろう。何のために苦労して大学に入ったのか、分からなくなった。
俺は気が抜けた。受験直後という事もあり、今思えば一時的なものだったのかもしれない。とはいえ、献身的に支えてくれた両親からの仕送りもあるから、「無難」に勉強して単位も取らなければならない。しかし、就職氷河期と呼ばれる今、周囲よりは頑張らなければいけない。でも、「あいつなら……」と考えると途端にやる気が失せる。5月も下旬になると、日課の講義の復習もサボるようになってしまった。
そんなある日の午前、鬱屈とした気分を晴らそうと思い、自室の押し入れ掃除を決行した。押し入れといっても、粗末な寮であるから、たった1畳ちょっとである。だからちゃちゃッと終わらせて午後は買い物でも行こうと思った。自慢ではないが、元々綺麗好きではあるから、押し入れぐらいは15分もあれば十分に整頓できるのだ。
押し入れを開くと、途端にあの、何とも言えないじめじめした匂いが広がった。
(うっ、やだなぁ……)
顔をしかめてそう思ったが、さっさと掃除を終わらせないと、この悪臭が狭い6畳の部屋全体に充満してしまう。それを恐れ、「お馬さん」して押入れに入る。その片手には絞った雑巾が握られている。
「ん……?」
薄暗い押し入れの中を目を凝らして見ると、冬物の服がしまってある奥の左角に目がいく。何か、ぐるぐるとオーロラのようなものが楕円形に渦を巻いている。急に明るいところから薄暗い所に入ったので、眼球に残った光かと思い、徐に手を伸ばす。
その時である。
全身を未知の倦怠感のようなものが襲い、続いてエレベーターが加速している時のような浮遊感に酔う。
(な、なんだ?!)
余りの不快感に意識が遠のいていく中、「どら○もんのタイムマ○ーンかよ……」と、不思議と呑気なことを考えていた。
***
キュイー、キュイー、キュルルル。
鳥? あれ、掃除してる間に寝ちゃったのかな。5月なのに蒸し暑いな……。でも風は気持ちいい。もうちょっとだけ……。
「あれ?」
ふと気付く。
窓、開けてなかったよな? 掃除してるうちに埃っぽくなってきてから開けようと思ってたんだよな。寮の近くが水場で変な虫が入って来るからなるべく窓開けたくないんだよ。なのに何で風が……。
考えているうちに、頭が段々と冴えてくる。
同時に異変に気付く。
ここは寮の部屋じゃない……。それに何だ? あのシダ植物みたいなのは。あんな派手なのは今まで見たことないぞ。それに梅雨時じゃあるまいし何でこんなに蒸し暑いんだ? そもそも何で外にいるんだよ……。
数分はそうしていただろうか。思考の中に「異世界」、「転移」という言葉が表れ始めたとき。
ズシッ、ズシッ、ズシッ。
とても、大きなイノシシだ。
よく、死んだ爺さんが鍬で仕留めたことがあるって言っていた。
俺は初めて見る。でもどうしたのだろうか。目が地獄のように赤々と充血している。まるで血のような……。
(逃げなきゃ……)
そう思って、立ちあがろうと重い脚に力を入れるが、まるで長い間同じ姿勢をしていた時のように、随所が痺れて言う事を聞かない。初めて相対する、生粋の野生動物を低い姿勢で見上げて感じる敵意、狂おしい程の生命力故なのか、脚がガクガクと笑っている。
(逃げなきゃ、逃げなきゃ! 逃げなきゃッ!)
本能が反芻して働きかけるたびに、ますますパニックに陥る。
そしてついに、ソイツは頭をゆっくりと下げ、前脚を踏み出す。
「ああ、あぁ、ぁぁ……」
嗚咽にも似た声が喉の奥から漏れる。
ダメだ、やられる。
俺は生の一切を諦めかけた。
そのとき。
「ふぅぅんっ!!」
目覚めるような一筋の光が、視界を一閃した。
赤々とした朱が空間を染め上げる。
血だった。朱が先のシダ植物に飛び散り、日光に反射して、まるで自分が彼岸の世界にいるように錯覚する。
「フゥ、大丈夫だったか?」
***
声をかけてくれたのは、背が高くて体格の良い、浅黒い肌をした壮年の男だった。目覚めるような一閃は、その太い腕に提げる直槍で、イノシシを一突きした軌跡だったのだ。
「立てるか? ほら」
そう言うと、男はしゃがんで無骨な手をこちらに伸ばしてくれる。
相変わらず脚は笑っていたが、なんとか俺は立ちあがった。
「ここらじゃ見ない顔だな。行商人か? ……いや違うか、手ぶらだもんな。まあ、いいか」
すると男は、腰に下げていた小型のナイフのようなものを引き抜き、動かなくなったイノシシに近付き、捌きだした。数分もすると、手際よくソイツの雄々しい牙を切り取り終え、再び俺に話しかけてきた。
「こんなところで魔物に合うなんて災難だったな。あ、怪我は無いよな? お前も知ってると思うが、魔物の血を多く浴びると発狂するからあんまり触るなよ。ま、不幸中の幸いということで、村で酒でも飲んでけよ」
そして男は背中を向けて歩き出すので、俺は慌ててその後をついて行った。
男の後をとぼとぼと追って行く。
自分の中の常識と著しく乖離した現実が続き、未だ頭は混乱しているが、獣道を歩いているうちに段々と頭が冴えてきた。
(ああ……。ここは、日本じゃない……あの、押し入れの穴から)
男が持つ長大な直槍。今は、スッポリと先端の凶器が何かに包まれて見えないが、こんなのものを持っていたらすぐさま捕まってしまう。
加えて、森の植生が日本と異なるのである。やけに大きいシダ植物が群生しており、特に大きい株には、なんと毒々しい緑色のまだら模様をした子蛇がからみついている。万が一噛まれた時のことを考えると、途端にゾクゾクとすくみ上がってしまう。
いや、日本で見たことのある植物も生えているようだ。若干色合いが淡いようだが、グパァとアケビのようなものがその大口を開けている。ノビルモドキも所々に生えている。先を行く男が時々何かを話しかけてくるが、俺がどう反応したのか覚えていない。
***
どのくらい歩いただろうか。水の流れる音がする。
すると、男の歩く速度が少し速まった気がした。更に数分歩いていくと、小川が見えてきた。
「ちょっと休憩しないか?」
男はそう言うと、川に向かって森を分け入る。
小川は沢のような感じで、日本では珍しいほど水が澄んでいる。男がズズズッと手ですくって水を飲んでいるので、自分も真似して飲んでみる。
「美味しい……」
思わず口に出すと、それを皮切りに男は俺に話しかけてきた。
「兄ちゃん若いな、名前なんて言うんだ?」
「紅です、望月紅」
「へぇ、珍しい名前だな。俺はガルクスだ。紅でいいか?」
「はい」
(ガルクスって、外人なのか)
小川の水は冷たくて、歩いて火照った体に染み入る。それで少し落ち着き、思考が建設的になってきた。
(纏わりつく暑さ、水を飲んだ時のこの感覚……。リアル過ぎるよなぁ、少なくとも夢じゃない。でもあのイノシシとこの森の様子……。現実としてはおかしい。じゃあ異世界とか? いや、ありえない……)
また頭が混乱し始めたところ、男が控えめに話しかけてくる。
「兄ちゃん、訳ありか? そんななりだし、さっきから考え込んでるようだしな。ま……詮索はしないさ。でもこれも縁だし、なんだったら相談には乗るぞ」
「ありがとうございます」
即座にはそうとしか言えなかった。
(まさか自分は異世界人ですだなんて言えないもんな……)
好意にあいまいな返事しかできずにもどかしい。
「うっし、そろそろ行くか!」
男、ガルクスさんはそう意気込むと、立ちあがってまた森に分け入っていく。俺も慌ててそれに続く。
(まあ、ガルクスさんについていった後に判断しよう)
心なしか、ガルクスさんの気遣いに救われた気がした。
***
獣道をずっと歩いていると、節々が疲れてくる。アスファルトで舗装した地面を歩くのだってそれなりに疲れるのだ。まして、運動はあまり得意な方ではない。
しかし、ただひたすらに歩くだけというのも気まずいもので、気を遣ってくれたのか、ガルクスさんは時折話を俺に振ってくれた。
「あと少し歩けば村に着くぞ。スラハ村っていうんだけどな。古い名だと風の村ともいったか。歩いてるうちにもグパッと口の開いた実があったろ? この村の特産品みたいなもんなんだが、それがスラハっていうから、いつの間にかそれが村の名前になったんだな」
「へぇ。僕の故郷にも似たようなのがありました。……アケビ。皮はちょっと苦いですけど、果肉は甘くて美味しいですよね」
「そうそう。紅も食ったことあるのか。皮は確かに苦いが、キノコを詰めて味噌付けて焼くと美味いんだ。俺は村に住んでるからしょっちゅう食えるが、他の国じゃなかなか高級品でお目に掛かれないんだぜ」
他の国? 日本以外ということだろうか。
「ここはなんていう国なんですか?」
「ん? ここは風の国だろ? なんだ、どっかの山の中から来たのか?」
「あ、えっと、その。遠いところから来まして。他にはどんな国があるんですか?」
「まあ何でもいいけどな。他には3国ある。火の国、水の国、土の国だ。あ、虚無の国なんてのもあるが、あれは国じゃあないな。村がぽつぽつあるくらいなもんだ。まあハンターくらいしか寄り付かん」
(ハンター? 猟師みたいなものか? まさか某ゲームのように巨大なモンスターを相手どって生活するんじゃないよな。それに国名も全く聞いたことがないし)
国名より、俺はハンターという単語が気になり質問する。
「ハンターってどんなお仕事なんですか?」
「なんだハンター見たことないのか? 俺もハンターの端くれだ。さっきのイノシシ見たろ。あれは魔物だが、まあ、ああいうのを依頼に応じて片付ける仕事だ」
魔物、ハンター……。やはり、ここは異世界なのだろうか……。
「じゃあガルクスさんも仕事を請け負ってさっきのを?」
「ああそうだ。ここらじゃあんなのは稀だからな。至急片付けてくれってギルドから依頼があったんだ。小さい村だから、それなりに腕の立つのは今俺しかいなくてな。それでだ」
今度は「ギルド」か。
ああ……どうやら俺は。本当に、異世界というところに来てしまったらしい。