interlude 1-2
小笠原主任は社会人になって初めての先輩だ。本人は名字で呼ばれるのを嫌がるが、今は別部署で部下のいる立場である。普段は「小笠原主任」と呼ぶようになった。でも、仕事時間が終われば、「小笠原主任」はブライダルにいたときと同じ「理恵子ちゃん」に戻る。
どつぼにはまって、自分の机でほおづえをついてしまっていたところに、理恵子ちゃんのふわっとした声が耳に入った。
「ゆんちゃん、いるー?」
矢島くんの頭にハテナマークが並んでいた。
そうだった。彼はこの呼び名を知らない。理恵子ちゃんは「ゆい」というのが呼びにくいから、ゆんちゃんだね~と名付けてくれたのだ。その声に、気持ちがゆるんだ。救いの船がやってきた。
「理恵子ちゃーん!!ほんっとうにごめん!!」
思わず理恵子ちゃんにハグしてしまった。ますますハテナマークが並んだ矢島くんが、私たちを呆然と眺めていた。彼が入ってから、理恵子ちゃんが来たのは初めてだったか。
「どういう仲なんですか、お二人は?」
「えっとね、不倫関係。」
「は?」
「違います。理恵子ちゃん、新人が困るでしょうが。」
理恵子ちゃんがいてくれてよかった。落ち込んでいた私の気持ちや、周りにまき散らしていた空気がゆるんだ。理恵子ちゃんは的確だ。その場その場の空気をよく読んでいる。それなり仕事が片付いて、上がれそうな時間を予測して来てくれたそうだ。矢島くんには田澤くんのフォローをお願いしにきたそうだ。
「ゆんちゃん、成長したね」
久々に一緒の夕食で、私に理恵子ちゃんは言った。
「何が?」
「ちゃんと言えるようになったんだね。背中だけじゃ伝わらないこともある、身についてきたんじゃないの?」
「そうでもないよ。まだまだ、まだまだ修行が必要」
その後も、あれこれ聞いてもらった。
「ゆんちゃんは、3年前に仕事を選んじゃった段階で、悩みの種を拾っちゃったってことか」
「でもね、樹くんの言葉はすごくうれしかったんだ。だから…プロポーズ断るなんてことになっちゃったけどね、後悔はしてない。それからいろんな人に出会えた。理恵子ちゃんには助けてもらってばかりだけどさ」
「いやいや、こっちも助けてもらったりしているから、お互い様でしょうが」
あれから、3ヶ月。田澤くんの中で、私はちょっと怖い人だったそうだ。
「かわいい」か。
異性にかわいいって言われたのは何年振りだろう。たぶん、樹くんに言われたのが最後だ。だから、3年ぐらい、縁のなかった言葉だ。ここ最近、かわいいと言うことはあれど、言われるのは私ではない誰かだった。あまり思い出したくないことだけど、大げさに言えば、樹くんと別れたあの時、私の運命が分かれていたのかもしれない。
仕事か、結婚か。
仕事を選んだ自分を否定しない。でもその時に「かわいい」と言われる機会を置いてきたと思っていた。
「かわいい」か……
本当は、ちょっとだけ、いやそれなりに、うれしかった。
「また誘ってね」は嘘のない言葉だけれども、田澤くんからすれば社交辞令なのかもしれない。こっそりでも、ばったりでも、何でもいい。またご飯できたらな、おしゃべりできたらな、と純粋に思った。女子高生でもあるまいし、なんて思いつつも、あったらいいのにと思ってしまった。
単純だけれども、それだけ嬉しかった。それだけでも、ちょっと元気が出た。明日からも頑張ろうって、そう思えた。
読んで頂き、ありがとうございます。
まだまだ続きます…